迷悟在己

痴呆寸前が巷間を漂いながら日々の雑感を書きます

シドモア女史と気仙地方の思いがけない接点

2019-08-17 10:20:50 | 日記


三陸町の老人クラブが発刊した冊子に滝田アヤメという方が寄稿した一文がある。

明治29年の大津波の前、外国人三人の乗ったボートが漂流しているのを三陸町砂子浜の漁師が助けてしばらく砂子浜の大屋で世話をしていた。そのうち今泉(陸前高田)の通訳で山内春之助という人が来てわかったことは、三人はアメリカ人で、オットセイ猟に来ているうちに霧のため本船にはぐれてしまったということがわかった。
それで横浜のアメリカ領事館まで送り届けた。
この間、砂子浜のひとたちはアメリカ人の食事から身の回り一切を親切に世話をしたという。
この一件について、横浜の米国領事館より砂子浜の大屋に対して感謝状が届いた。

米人漂着
拝啓 陳者米国風帆船スクーネル型アルトン号、水夫ハンス、ビクトル、フレデリック儀 海上にて非常に困難を極めたる末、1896年4月4日貴村に上陸致し、其の後1週中は貴下並びに隣人より最心切且丁寧なる待遇を相受け段彼殊に満足に存じ将又貴下の大量なるこの心切なる注意に対し敢えて金銭上の報酬を要求せざる趣承知致し茲に深謝を表し、貴下の高尚なる品操に感謝いたした。
横浜日本帝国神奈川駐在米利堅合衆国代理総領事 ジーエーチ・シドモール
1896年4月14日
岩手県気仙郡綾里村 千田仁兵衛殿


とある。
総領事のシドモールという記載を見てこれはエリザ・シドモアの一族の誰かだと直感した。シドモア女史の兄は外交官であった筈。
エリザ・シドモアの初来日は1884年だが、このころすでに兄のジョージは外交官として横浜の領事館に勤務している。したがって、この感謝状の贈り主はエリザの兄G・H・シドモアに間違いない。
米国人救助に関してすべての面倒を見て、横浜の領事館まで送り届け、しかも金銭的な要求は一切しない。この一件に関する日本人特有の行動の顛末を聞いて、エリザの日本愛はさらに深いものとなったことは想像にかたくない。
その後すぐに起こった明治の三陸大津波の際には再来日。ナショナルジオグラフィックの編集長として三陸の被災地に入って取材した。この時の彼女の記事に使った津波(Tunami)という語句は使用された最古のものである。

エリザ・シドモアが明治の三陸大津波の取材で気仙地方に来ていたということは初めて知った事実で、身震いするような感動を覚えた次第。



千田家は旧家。所蔵する古文書の解読が進められている。




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7 コメント

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エリザ・シドモアについて (布台 一郎)
2019-08-27 17:12:24
 エリザ・シドモアさんに関する発見を記事にしていただき、ありがとうございました。以前、シドモアさんのことを少し調べたことがあり、ずっと関心を抱いております。
 エリザ・シドモアさんが明治三陸大津波に被災地に入って取材をし、英語の津波の初出であることがネット上で散見されますが、私は誤りの可能性が高いと考えております。ご関心をお持ちであれば、私の拙いレポートをお送りいたします。私のアドレスは ichiro1609@gmail.com です。
コメントありがとうございます (Unknown)
2019-10-02 07:34:05
初めて友人以外のコメントをいただいたのでビックリです。私は特にシドモア女史の研究をしているわけでなく、歴史の勉強の途上で少しかじっただけの浅学の徒です。
古くはイエズス会のバテレンや、ペリーやロングフェローなどをはじめとする、幕末に多く来日した外国人に興味を持っております。アドレスまでご提示いただきまして恐縮です。
ご返信ありがとうございます。 (布台 一郎)
2019-10-04 09:38:28
 上に書きましたように、シドモアさんについては、明治三陸大津波発災時に被災地に入って取材をした、という説明がウィキペディアを始めとしてネット上に散見されています。確かに彼女はナショナルジオグラフィック1896年9月号に津波の記事を書いていますが、この記事には自分が被災地に行った、ということは書かれていません。また、釜石に入った政府関係者、記者、宗教関係者などの名簿が保存されていますが、その中にもシドモアさんの名前は見つかりません。更に、彼女の記事に使われている津波の写真は東京朝日新聞1896年7月15日号付録に使われているものと同一のものと見られ、オリジナリティについては否定的です。
 津波ということばの英語での初出は、ニュースペーパコムいう新聞検索サイトで検索してみたところ、1896(明治2 9)年7月20日に米国ワシント特別 区で発行されていたイブニングスター紙「差し迫った災害に気付いた人々からの津波、という叫び」という記事が最も古例して検索結果に出ました。
 記事を書く、という行為は現地に行って取材する、ということと同一と考えがちですが、シドモアさんの記事を見る限り、彼女が被災地に足を踏み入れたことは書かれていない、ということに留意する必要があると考えています。
コメントありがとうございます (記事を書いた張本人)
2019-10-04 13:11:08
読者の少ないヨタ記事だからとタカをくくって書いておりますが、ネットに晒す以上は気をつけて投稿しなといけないと思いました。いろいろ勉強になりました。ツナミの初出が新聞かナショナルジオグラフィックかということもさることながら、女史が三陸地方に来ていなかったということは少々問題ですね。彼女の紀行文を読んでも、難儀をしながら東北地方を縦断して紀行文を書いたイザベラと違って、シドモアは日光止まりのようです。西日本については詳細な紀行文を残しておりますが、東北地方、災害地である三陸地方のルポがないのはやはり疑問です。小生の稚拙な記事と、布台様のご意見を、そのまま訂正なしで残すことにします。ありがとうございました。
再びのご返信ありがとうございます。 (布台 一郎)
2019-10-04 17:10:04
 私も最初はシドモアさんが被災地に来たものと、何の疑いもなく先行している論文などで信じておりましたが、シドモアさんの伝記を書いている作家から、どうも被災地に行っていないようなので、調べてほしいと依頼され、様々な史料を見て、被災地に行っていないという結論となりました。根拠となる史料に当たり、更に批判的にその史料を分析する必要を学ぶことができました。
 ところで、シドモアさんの書いたナショナルジオグラフィックにはフランス人神父アンリ・リスパル師の殉教のことが簡単に触れられています。この方は盛に住んでいたカトリックの方に終油の儀式をしに行く途中、釜石で津波に飲まれて殉教しました。外国人としては最初の津波犠牲者になる方だと思っています。盛とはこういう記事の内容でつながっていることもありますので、ここでお知らせいたします。
ジョージ・ホーソン・シドモアについて (左居康雄)
2021-04-19 10:25:28
ポトマック河畔に桜植樹を提案したエリザ・R・シドモア女史の兄ジョージ・ホーソン・シドモアについて検索していたら本文書と出会いました。ワシントン在住の友から『ポトマックの桜』に関する日本での資料収集を依頼され、国会図書館、外務省外交史料館等々に行きました。2017年2月に『ポトマックの桜物語』と題して上梓致しました。また、資料を収集する過程でエリザの兄ジョージが米国領事館の外交官として滞在していたことがきっかけで妹エリザが来日し、向島墨堤の桜の美しさと桜を愛でる日本の文化に感動し、20数年かけてポトマック河畔に桜植樹の運動を為して実現しました。エリザが初来日したのが1884年、中央大学の前身『英吉利法律学校』が創設されたのが1885年(明治18)でした。この頃に兄ジョージは領事館員の傍ら英吉利法律学校の外国人講師として在籍し教鞭を執っていました。妹エリザの資料は多く残っていますが、兄ジョージの資料は少なくこの感謝状はとても貴重な資料と存じます。ましてや三陸町砂子浜の方による3人の米国人水夫の救助の歴史は如何にも日本人らしい姿と感銘致しました。
ジョージ・シドモアの写真は日本になく『ポトマックの桜物語』の著者海野君が米国議会図書館から探し出してくれました。また、私の母校中央大学においても創立時の外国人講師ジョージ・シドモアの資料を探している事情もございます。
つきましては、当該資料の詳細をご教示賜ればと存じメールさせていただきました。
宜しくお願い申し上げます。
ジョージ・ホーソン・シドモアについて (左居康雄)
2021-04-19 10:29:06
私のアドレスです。よろしくお願いいたします。
sakoyasuo@outlook.jp

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