2010/12/5upわかる目次 |
フジ子・ヘミングコンサート |
<たしか2007年7月某日>
フジ子・ヘミングはピアニストだ。
テレビの特集を二回見た。
二回目が、先の日曜だった。
「このまえ、ヨーロッパでコンサートしたとき、
フルート吹いてるおじさんがさ、
途中で泣き出したんだって。あたしのピアノ聴いて。
で、最後までオイオイ泣いて、演奏できなかったそうよ。
あたしは、自分で弾いてて泣いたことないけどね」
「泣くなんていうのは、あおいわよ。
もう、あたしなんて若いときに泣いてばっかで、
涙なんてでない」
演奏シーンは短かったが強く心を打たれた。
すぐにネットで、上等なヘッドフォンを買い、
フジコ・ヘミングのCDを5枚買い、
公式HPから、某月のモスクワフィルとの公演のS席を取った。
コンサートを自分で買うのは二十年ぶりだと思う。
<そして2007年11月29日>
四ヶ月待ったフジ子・ヘミングのコンサート。
楽しみだなぁ。
たしか、モスクワフィルも
とても腕のいいオーケストラのはずだ。
チケットが届いた。
どれどれ座席は?
たぶん、1階席だな。
四ヶ月前に「S席」買ったんだもんな。
ネットで芸術劇場の座席イメージを見る。
1階席、すげーよく見える。
きっとこの席だ。どきどきする。
でも、2階席かも。
・・・ちょっと遠い。
ピアノがちっちゃい。
やっぱり、1階席だ。
「S席」だもんな。
そういえばチケットに座席番号があったぞ。
えーと、どれどれ・・・・・・
なにっ、3階じゃん。
3階って、こんな遠くだよ、見えないじゃん。
なんだよ、
なんのために4ヶ月前に「S席」買ったんだよ。
これじゃ、フジ子・ヘミングの顔も見えないよ。
ひどいよ。
3階って、ココだよ、ココ。(画像省略)
なんでっだよっ。
すげー遠い。
あーーー。がっかりだよ。
2007年11月25日は、それでもやってきた。
開演は午後3時。
40分前には着きたいものです。
ゆっくりと座席で心を落ち着けて、
待ちに待ったフジ子・ヘミングの登場を待ちましょう。
地図はコピーしたし電車の時間もチェックしたし余裕余裕。
でも、その前に右脳を音楽でいっぱいにしとかないとな。
今まで左脳ばかり使いすぎたからなあ。
昨日の晩は「コブクロ」を聴きまくっておいたんだ。
ふっふっふっ。準備は充分さ。
やっぱり、せっかくだからフジ子・ヘミングのCD、
もう一度聴いとこう。
……「ラ・カンパネラ」は必ず聴けるだろうな。
ショパンの「英雄」が好きなんだ。
CDの中でいちばん好きだ。
やってほしいなあ。
おっ、待てよ、もうこんな時間だ。ヤバイ。
スーツ来て、駅まで早足で、時計を右手に持って電車乗って、
ハアハア。
池袋まであと何分だ?
23分・・・18分・・・3分。
もう、2時45分だ。
間に合うのか!
芸術劇場は駅のすぐ前だった。
劇場前でセミプロが余計な演奏やってやがる。
せっかく、頭をピアノでいっぱいにしてきたのに。
耳をふさいで劇場のエスカレーターに駆け込む。
人がいっぱいだ。
3階へどんどん上がる。
座席が中央なのが唯一の救いだ。
3階A列28番は、っと。あれだあれだ。
高いなあ、恐いよ。
んー、ステージ思ったより小さくはない。ラッキー♡
それに、3階の最前列は前に誰の頭も見えないのです♪
目の前はステージしかないって感じ。
コートを脱いでお気に入りのカバンを置いて座ってみると、
手すりのバーがちょうどステージと客席の境目にあるじゃぁないですか♡♡
(ステージ独り占めだ)
(劇場でここがいちばんだいちばんだ)
言い聞かせた。
しかし、まあ、遠いことに変わりはないなあ。
開演まではあっという間だった。
モスクワ・フィルがステージに現れる。
指揮はユーリ・シモノフ。
悲しいことにぼくはクラシックの人のことをぜんぜん知らない。
一曲目がすぐに始まる。
ピアノはまだなんだな。はじっこに置いてあるし。
曲名もわからない。
さっき入り口で初めて曲目が配られたのだ。
それに、プログラムには
もしくは、もしくは、
とたくさん書いてある。
直前まで曲目は未定だったのだ。
指揮、かっけーなあ。
バイオリンの女の人、きれいだなあ。
よく見えないけど。
でも、この席はオーケストラの楽器が全部見える。
ひとりひとりの手元が指先まで見えるのだ。
1階でも2階でもこんな見え方はしない。
ぼくのまっすぐ遠く目の下には、
オーケストラ以外の何も映らなかった。
これは、ほんとうに「S席」だ。
ほんとうに、いちばんいい席かも♪♪♪
二曲目の前にピアノが移動して真ん中に来た。
ぼくの鼻の先に、白と黒の鍵盤がまっすぐ縦に並んでいる。
あそこにフジ子・ヘミングが座ると、
彼女の弾く指先が、両手の動きがすべて見えるのだ。
1メートルずれただけで、
鍵盤はピアノに隠れるかピアニストの背中にさえぎられる。
最前列だから人の頭もない。
日本が生んだ限られた天才の演奏を、指の先まで見ることができる。
「ラ・カンパネラ」の指使いをじかに見ることができる。
そう思ったら体が震えてきた。
フジ子・ヘミングが現れる。
会場が拍手で包まれる。
オーケストラが二曲目を始める。
座に着いたフジ子・ヘミングの手が、
ゆっくりと鍵盤に置かれる。
そして、両の手の指が弾き始める。
ありがとうございますありがとうございますフジ子・ヘミングのピアノを聴かせてくれてありがとうございますこんなに四ヶ月も何かに焦がれつづけたことはずっとなかったなあ生きててよかったほんとうにありがとうございます
鼻水がするする流れ出して
ポケットから出したハンドタオルで押さえた。
目が痛くなるくらい力を入れて指と鍵盤を見た。
ピアノが二曲目に入り少し落ち着く。
一曲目でフジ子・ヘミングの左うしろには
女性のアシスタントがついた。
演奏中、時々楽譜を見せてフジ子・ヘミングは
大きくのぞきこんで演奏の場所を確かめた。
指揮者も後半気づいたのか、
ははばからず大きく振り向いてピアノの入りを手で示した。
フジ子・ヘミングが指揮者を見上げて、
その手に頼り合わせるのがよくわかった。
いっぱいいっぱいなのかな。
なぜだろ。
全盛期を過ぎているのはわかっているのだ。
もう75歳なのだから。
しかし、一曲目が終わると
立ち上がったオーケストラのバイオリンが何人か弓を振って拍手した。
十人ほどがバラバラの位置で弓を振るのがなんだか自然でリアルだった。
あとから考えると弓を振ったのはコンサートマスター側の人ばかりだった。
きっと弾く手が見えたのだ。
二曲目にはいる前、
客席に向かい肉声でフジ子・ヘミングが何か言い始めた。
あわてて耳に手を当てるとかすかに、
「皇帝の第二楽章だけやります。」
というのが聞こえた。
拍手。拍手。
テレビで聞いたとおりの声だ。
二曲目が終わると、また何か言い始めた。
「ノクターンと、ラカンパネラをやります。」
配られたプログラムに
ピアノの独奏はひとつも書いてなかった。
でも、みんな待っていたのだ。ラ・カンパネラを。
「ノクターン」はとても素敵だった。
「ラ・カンパネラ」はCDで聴いた中でもいちばん速い演奏だった。
フジ子・ヘミングは今度はピアノに向き合って、
自宅の居間にいるように弾いた。
速く力強く身体全体で踊るように。
75歳のフジ子・ヘミングは衰えてなかった。
心の中に浮かぶ言葉は何もなくて口があいたまま体がガクガク震えたこんなのはこんなのはなんでもないけど呼吸がくるしくて口がとじられないだけだでもいいんだいいんだこれでいいんだ
ぼくは今でも客席から離れて手すりを越えて飛び
ピアノの前に腰かけることができる。
鍵盤の目の前にいる自分をイメージできる。
指揮者の背中もグランドピアノの弦も
周りを囲むバイオリン奏者の息遣いもはっきりとイメージできるのだ。