烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

何が社会的に構成されるのか

2007-02-07 22:49:01 | 本:哲学
 『何が社会的に構成されるのか』(イアン・ハッキング著、出口康夫、久米暁訳、岩波書店刊)を読む。
 「Xは社会的に構成(構築)されたものである」という言い方がどのような意味を私たちの世界では持っているのかということを問いかけ、その意味づけを行っていこうとするのが本書である。この言い回しは、純粋に哲学的な意味だけではなく、社会的政治的な色がついていることは、ソーカル事件を初めとして科学者と社会学者の間で戦わされた議論からも明らかである。だから余計にややこしい。あるものが社会的に構成されたものだということは、直ちにそれがあるイデオロギーに染まった存在であり、公正な(といいつつ実はこれもまたあるイデオロギー的な)見地から正されるべきであるという主張を含んだものになる。ジェンダーにまつわることは特にそうで、例えば女性の生殖機能という純粋に生物学的な議論でも、この機能を前面に押し出した物言いとすると、悪しき本質主義であり、産む存在としてしか(すなわち男性的な観点から構成された存在としてしか)女性を見ていないとして糾弾されるのは、最近の事例からも明らかである。
 ハッキングはイデオロギー的論争に巻き込まれないように配慮しつつ、社会構築左派と本質主義右派の両者から中立的な立場にたち議論を進める。これは両者から見れば煮え切らない態度を映るかもしれないが、真実は往々にして中庸にある。とうかつにも「真実」という言葉を使ってしまったが、この言葉も曲者である。ハッキングは一般に社会的に構成されたといわれる事柄には「対象」、「観念」とともに、クワインの言う「意味論的上昇」(ある事柄について語ることから、それを表す「語」について語ることへのシフト)によって生じた一群の言葉があるという。彼はこれをエレベータ語と名づけているが、このグループには「真理」、「事実」、「現実」などが入る。これらの言葉はある対象や観念を指示するものではなく、それらを成り立たせている世界について語っている言葉だ。
 要するにあることが構成されたものであれば、それが現在の世界とは異なる別の可能世界では異なったもの、あるいは存在しないであろうし、そうでなければさまざまな可能世界でも同一の意味をもっているだろう。物理学者にとっては、クォークはどの可能世界でも存在するものだし、社会学者にとっては、それが存在しない物理学が考えられるようなものだ。科学の発達をどうとらえるかという問題にも関係するが、物理学者は通常どんな場合であれ、クォークはいずれ発見されるべき存在であり、物理学はどんな偶然性が絡んでくるにせよ、クォークを含む体系の物理学になるべく発達すると考える。一般に科学者はどの分野であれ最先端の知見はどのような科学史の経路をとろうがいずれは得られる知見であることを前提にしている。進化的なアナロジーでいうと、生命誕生からどのような偶然性が絡んでこようが、ヒトは進化するのだという考えかたに近い。
 ヒトの生物学的な特性というものは、進化的には偶然に備わった部分も多々あると思われるが、社会を構築する場合において、ある必然的な制約をそれに課しているはずである。何を偶然性の産物であり、どれを必然的なものとするのかの論争に決着をつけることはできないが、現在とは異なっていたかもしれない可能性を考えて現在を問う姿勢は持ち続けなければならない。
 

処女懐胎

2007-02-05 20:58:49 | 本:芸術

 『処女懐胎』(岡田温司著、中公新書)を読む。
 以前中公新書から出版された『マグダラのマリア』に続くキリスト教美術の図象を読み解いていくシリーズの第二弾というべき本で、今回は聖母マリアが取り上げられている。まず処女懐胎の神話的起源を遡り、ギリシャ=ローマ神話世界における処女の神聖性について紹介されている。しかし処女の神聖性が崇拝されているように思われるが、必ずしもそうではなく処女のままのマリアを孕ませた男性性の神秘な力のほうに力点が置かれていたことに著者は注意を喚起している。アリストテレス的に言えば、女性はあくまで子供の質料を提供するにすぎず、男性が形相を与えるのである。こうした生殖観は、福音書における語用にも現れているという。子を「産む」あるいは「宿す」という意味のギリシャ語は、「ティクトー」と「ゲンナオー」ガアリ、前者は母体に、後者は父系にかかわるニュアンスが強いという。英語では、前者がconceive、後者がgenerateに当たるのだそうだ。父方の系統によって子々孫々が生み出されていくというわけか。
 その後、受胎告知をテーマにした絵画にどのような図象学的特徴が見られるのかが解説されている。マリアが天使から受胎を告げられる場面というのは、数多く描かれているが、出産のその瞬間という(より劇的なはずである)場面は皆無に近いという。まああまりにも生々しいから聖母のイメージにはふさわしくないと芸術家は判断したのであろう。これは確かに現代においてもアイドル的存在の出産についてもいえることであろう。十六世紀後半に対抗宗教改革がさかんになると、キリスト教の神秘である「受肉」をマリアの膨れたお腹で表現することも憚られるようになり、ティッツィアーノやエル・グレコなどの絵では受胎告知の場面さえも神秘的に描かれるようになるという。
 つづく章では、マリアの「無原罪の御宿り」に関する神学論争を紹介し、それがどのような工夫で図象化されたかが書かれてある。絵画は描くことで存在を示すわけだから、「無」原罪という否定的なものは直接は描くことができない。そのため教父や神学者たちの議論の場面を同一画面に描いたり、マリアの純潔を示すシンボル(エッサイの若枝、染みなき鏡、谷のユリの花など)を同時に描くことが行われる。その後時代が下りバロック時代になるとそうしたある意味余計なものを排し、ひたすら美しいマリア像を描くということに焦点が合わされてくる。ここでマリア像が異教的雰囲気をまとってくるという逆説的な状況を著者が指摘していることは面白い。
 その後にはマリアの夫であるヨセフやマリアの母であるアンナの像がどのように描かれていたかを紹介している。面白かったのはまだマリアと性交渉していないのに妻のお腹が大きくなってきたことを目の当たりにしたヨセフという男性が当初冴えない老人に描かれていたのが、時代が下がるに連れ、「聖家族」の父親として大きな存在意義を持たされ、次第に立派に描かれるようになったという点である。ヨセフの復権を唱えられた後、この分野は「ヨセフ学」という進学分野にまで発展したことは初耳であった。一方アンナは、マリアの賢母としての役割が強調されていく。このあたりは、社会的状況に絵画の主題が大きく影響を受けていたことがわかり、引用されている絵画とともに比較してみていくと楽しい。
 それにしてもマリアが無原罪かどうかを巡って神学論争が戦わされたことは、現在からみると滑稽な感じがしないでもないが、超越した存在が世界の「中」から生まれるという構図においては、必ず出てくる問題であると思う。一方はマリアの無原罪を認めると、キリストは普遍的な贖罪者であるはずなのにそれが弱められると主張(トマス・アクィナス)し、他方は逆にキリストの卓越性こそがマリアの無原罪性を要請しており、無原罪はその結果であると主張する(ドゥンス・スコトゥス)。後者によればマリアは、原罪から身を守る(予防)するためにこそキリストの恩寵が必要であったとされるのである。これはわれわれのように事後的に贖罪をしてもらうのではなく、事前に贖罪をしてもらうということだから「予防的贖罪」というのだそうだ。イタリア語ではこの「予防の」は「プレセルヴァティーヴォpreservativo」というのだそうだが、これにはコンドームという意味があるんだそうだ(私はイタリア語は分からないが、確かにこの単語を打ち込んで検索するとそのものの写真が見つかった)。
 しかしマリアが原罪を免れていたとするならば、その母であるアンナも無原罪である子をどうやって孕んだのかという問題がでてきて、さらにその母は・・という無限後退になりそうだが、そのあたりはどのように議論されたのだろうか。


謎の解決

2007-02-04 19:07:34 | ことばの標本箱

 謎の解決において重要なのは、探し求められているのが解決だということを知っているだけでなく、どの点においてどのような仕方でそれが解決であるかをも知っていなければならないということである。たとえば人間がスフィンクスの謎の解決であることを知るという場合でも、それがなぜ解決であるかを理解していなければ、その解決を知ったところでなんの意味もないであろう。してみれば、まさに目の前に解決があるのに、さらにはずっと以前から目の前に解決があったのに、人はそれが解決であることに気づかなかったのかもしれない。ヴィトゲンシュタインにとって、まさにそれこそが、彼が哲学的問題の解決とみなすものにおいて生じている事態である


J.ブーヴレス(『言うことと、なにも言わないこと』)


スフィンクスの謎

2007-02-04 19:03:53 | ことばの標本箱

 スフィンクスの<謎>をかけられた人は誰であれ、答えをいわば眼前にしている。だが、ナゾナゾの答えが、眼前にありながら、なおかつその当事者がそれを認識していないようなものであり得るならば、我々はいかにしてあるものについて、それは答えではないと言えるのか。ある意味で我々は自分たちが求めているものが何か分からないならば、どうして我々は「これはそれじゃない」と言えるのか。

C.ダイアモンド「謎なぞとアンセルムスの謎」(現代思想1998年1月号p281-303)


<つまずき>のなかの哲学

2007-02-04 17:39:00 | 本:哲学

 『<つまずき>のなかの哲学』(山内志朗著、NHKブックス)を読む。
 スフィンクスの出した謎(「朝は四本足、昼は二本足、夕方は三本足で歩く動物は何か」)にオイディプスは「人間」と答えることでスフィンクスを自死に追い込んだが、本書はその謎かけを「解く」ということと「哲学する」ことの同型性を指摘するところから始まる。そして著者はその謎かけの解決者としてヴィトゲンシュタインを置く。
 「謎」はこれを「謎」と思わない人にはなんでもないこと、無意味なこと、どうでもいいことである。これを「謎」と気づくにはその「謎」に「つまずく」ことが必要であると著者は言う。そして謎の答えを見出すためには、論理的判断や推理では役に立たない(ホイジンガ)。謎にまつわる言葉の曖昧さを切り捨て、言葉を研ぎ澄ますことによって謎は消失するものではなく、謎が問われる場における意味の転移-それは謎解きの「規則」を生成すること、発見すること、これが必要だということが主張される。ここに謎の独特の構造がある(C.ダイアモンドとJ.ブーヴレスの言葉[言葉の標本箱参照])。
 第三章では、「私」とは何かというとびきりの謎が問われる。ここで問われる「私」というものが、単に指示される実体としてではなく、ひとつのプロセス、ハビトゥスではなないだろうかと著者は提案する。
 「私」というものが何かという問いに答えようとするならば、まず「私」を自分自身から引き剥がさなければならない。自分を迂回してみなければならない。その手段として自分を「表現する」ことが必要である。ここで著者はコリングウッドの見解を援用し、「表現する」ことは、技術としてではなく創造的な行為としてとらえなければならないと説く。あらかじめ目的が分かっておりそれに従ってアルゴリズム的な手順を踏めば目的(解答)にたどり着けるような技術的な行為ではないというのだ。この点で人生の意味を見つけ出すことは、アート(藝)と通じるものがある。ここで例として落語の話が挙げられているのだが、この例えは「技」と「藝」との違いがすっきりと飲み込める優れたたとえだ。
 「私」というものを表現することは「藝」であり、それは「ふるまい」であり、その基底には「ふり」がある(坂部恵『<ふるまい>の詩学』)。ここで「ならい(習慣)」という概念が導入され、「私」というのは突き詰めるところ、ハビトゥス(habitus)(「己を持する能力、したがって「己=身」を持することにつながる能力なのである」)であるとされる。
 己の樹ち立てた規則や規準の基底にあるものがハビトゥスとすれば、そうしたことを行えること、その立法能力が人間にはあるということになる。個人的な経験から普遍を見出す能力、これがカントの言う反省的判断力である。この反省的判断力の活用が「謎」を解くことに必要な能力であるというのが、著者の主張である(反省的判断力は、客観を吟味する判断ではなく、主観が自分自身を見るための<鏡>として機能している」)。
 ではハビトゥスとしての「私」は何から構成され、どこに起源があるのか。第五章では、ルネ・ジラールの『欲望の現象学』が援用され、「ハビトゥスとしての「私」を実質的に構成するのは、「私」が無から構築したものではなく、他者から移入したもの」であり、しかもそれは隠蔽されているという。ここで引用してあるジラールの批判、「人間はどんな媒介者とも無関係に自立的に客体へ働きかけることができるはずであり、またそうであることが望ましい」というこは虚偽であるということ(「ロマンチックな虚偽」)をきちんと抑えておくことは重要であると思う。

 「謎」に気づき、つまずくことは大いにすべきことなのである。


法哲学入門

2007-02-01 19:00:31 | 本:哲学

 『法哲学入門』(長尾龍一著、講談社学術文庫)を読む。『法学セミナー』に連載されたものをまとめたものが本書ということだが、原本あとがきに「法哲学の概説書など、書けるものではない」、「現在多くの人々は、何ものかを「拾う」ために読書する。この、バラまかれた著者の偏見の中から、拾うものがあれば、よし」と謙遜の辞を述べてある。まあ話は肩の力を抜いた感じで、まじめな講義の後に教授と一緒に飲みに行って本音を聴くような感じの本であった。本旨とはあまり関係ないところなのであるが、結婚について書いてある部分があり、そこから「拾って」みた。




結婚生活には苦痛が多いが、独身生活には何の楽しみもない。(Marriage has many pains, but celibacy has no pleasures.)(サミュエル・ジョンスン)


結婚生活の苦痛のほうも並大抵のものではない。



結婚は鳥籠のようなものだ。外の者は入ろうとし、内の者は出ようとする。(モンテーニュ)


 二人の人間が長期的にうまくやっていくなどということは奇蹟に近い。男女間とてその例外でなく、愛欲や性欲の満足が、遠心力に見合う求心力をもちうるとは限らない。それに、エロスというものは、プラトンのいうように、「暴れ馬」であり、それを一夫一婦制の結婚制度という枠内にとどめておくことは容易ではない。「愛は自然法で、結婚は実定法である。新憲法制定時には自然法と実定法が一致しているが、時の経過に従って段々ずれてくる。しかし、事実の惰性で、実定法は効力を持ちつづけるが、あまりに両者の距離が遠くなると、何らかの偶然のキッカケで革命が起こり、自然法に従って実定法が変えられる。これが離婚・再婚である。


実定法と自然法の対立関係のわかりやすい説明だと感じた。