「Xは社会的に構成(構築)されたものである」という言い方がどのような意味を私たちの世界では持っているのかということを問いかけ、その意味づけを行っていこうとするのが本書である。この言い回しは、純粋に哲学的な意味だけではなく、社会的政治的な色がついていることは、ソーカル事件を初めとして科学者と社会学者の間で戦わされた議論からも明らかである。だから余計にややこしい。あるものが社会的に構成されたものだということは、直ちにそれがあるイデオロギーに染まった存在であり、公正な(といいつつ実はこれもまたあるイデオロギー的な)見地から正されるべきであるという主張を含んだものになる。ジェンダーにまつわることは特にそうで、例えば女性の生殖機能という純粋に生物学的な議論でも、この機能を前面に押し出した物言いとすると、悪しき本質主義であり、産む存在としてしか(すなわち男性的な観点から構成された存在としてしか)女性を見ていないとして糾弾されるのは、最近の事例からも明らかである。
ハッキングはイデオロギー的論争に巻き込まれないように配慮しつつ、社会構築左派と本質主義右派の両者から中立的な立場にたち議論を進める。これは両者から見れば煮え切らない態度を映るかもしれないが、真実は往々にして中庸にある。とうかつにも「真実」という言葉を使ってしまったが、この言葉も曲者である。ハッキングは一般に社会的に構成されたといわれる事柄には「対象」、「観念」とともに、クワインの言う「意味論的上昇」(ある事柄について語ることから、それを表す「語」について語ることへのシフト)によって生じた一群の言葉があるという。彼はこれをエレベータ語と名づけているが、このグループには「真理」、「事実」、「現実」などが入る。これらの言葉はある対象や観念を指示するものではなく、それらを成り立たせている世界について語っている言葉だ。
要するにあることが構成されたものであれば、それが現在の世界とは異なる別の可能世界では異なったもの、あるいは存在しないであろうし、そうでなければさまざまな可能世界でも同一の意味をもっているだろう。物理学者にとっては、クォークはどの可能世界でも存在するものだし、社会学者にとっては、それが存在しない物理学が考えられるようなものだ。科学の発達をどうとらえるかという問題にも関係するが、物理学者は通常どんな場合であれ、クォークはいずれ発見されるべき存在であり、物理学はどんな偶然性が絡んでくるにせよ、クォークを含む体系の物理学になるべく発達すると考える。一般に科学者はどの分野であれ最先端の知見はどのような科学史の経路をとろうがいずれは得られる知見であることを前提にしている。進化的なアナロジーでいうと、生命誕生からどのような偶然性が絡んでこようが、ヒトは進化するのだという考えかたに近い。
ヒトの生物学的な特性というものは、進化的には偶然に備わった部分も多々あると思われるが、社会を構築する場合において、ある必然的な制約をそれに課しているはずである。何を偶然性の産物であり、どれを必然的なものとするのかの論争に決着をつけることはできないが、現在とは異なっていたかもしれない可能性を考えて現在を問う姿勢は持ち続けなければならない。