著者はあとがきに記しているが、「大阪の盛り場ミナミが故郷」だそうだ。新陳代謝を続け生きている都市の中でも、盛り場を「都市のなかの都市」と彼は位置づけている。なぜなら最もアクティビティが高い場所のひとつだからである。
本書の中に「カフェーの誕生」を扱った章があり、日本人に「擬似的な西洋体験の機会を提供した場所としての意義を認めている。この中で村島帰之(のりゆき)という人の分類によれば、昭和初期のカフェーは、珈琲販売を主とする「純粋カフェー」、菓子販売を主とする「ベーカリー」、清涼飲料水販売を主とする「ソーダ・ファウンテン」、西洋料理を供する「レストラント」、飲食のほかに余興を用意する「キャバレー」の五種類に区別することができるという。「純粋(純)」ということばが「文学」や「理性」などと親和性があるように感じていたので、カフェーというものにも「純粋」と冠されるものがあるということに思わずうなってしまった。カフェーとは珈琲のことだから、それ専門に扱った店という意味だろうが、そういうふうにわざわざ純粋ということばで形容しなければならなくなるくらい、雑多なサービスを提供する店が短期間に急速に増えたということだろう。
日本で最初に「カフェー」と名乗った店は、明治44年3月に銀座に開業した「カフェ・プランタン」とされてきたが、著者の調査によればその前年に大阪に「カフェー・キサラギ」が開業しているという。前者の創業者は画家の松山省三で、命名は小山内薫であった。森鴎外や岡本綺堂、坪内逍遥、黒田清輝、松井須磨子などが常連だったという。
昭和になるとカフェーは営業形態が多様化して、女給をおいてサービスをする「風俗営業」という側面が強くなり、取締りの対象となった。「珈琲」を飲むのではなくアルコールを飲む場所となり、「エロチックなサービスを全面に押し出す大阪資本のカフェーが東京にも進出し盛り場を席巻する」のが関東大震災以降のことだという。こうした関西から関東への文化の波及現象は今もそうだろう。震災の影響もあっただろうが、景気の動向というものが大きく影響しているように思われる。この中の一節で大阪流の女給と東京流の女給の違いが比較考察してあり面白い。後者が客に対して個人主義的、秘密主義的であるのに対して、前者は「根本的に資本主義的」であるという。
大阪出身である著者の郷里への熱い思いが文章の端々に感じられる考察であり、特にこの部分は百貨店や電化を扱った章に比べ力が入っているように私は思う。