烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

お雇い外国人

2007-02-17 19:19:04 | 本:歴史

 『お雇い外国人』(梅渓昇著、講談社学術文庫)を読む。
 1965年に発行された本の文庫化だからもう四十余年前の本である。江戸末期欧米列強からの外圧が高まりつつあった頃からそれに対処する一つの方法として、欧米から技術者や軍人を招き順応する態勢をとったことは今から考えると正解であった。そのための招聘料として支払った金額は破格のものであったが、西洋化へ向けての軟着陸の投資としては安いものであったといえよう。しかしそうした技術を受け容れる教育と富の蓄積がなければ、おそらくは簡単に植民地化されていたであろう。
 本書では、フルベッキ、ボアソナード、モース、フェノロサなど有名なお雇い外国人の業績を紹介し、中には報酬に見合わない者もいたが、総じて日本への資本主義的生産技術の早急な移植に役立ったと評価している。もちろん西洋の技術的果実のみを輸入したものであるから、その基礎にある歴史や文化的背景や思想・哲学は二の次にされている。しかし技術導入の期間の短さを思えば、この爆発的ともいえる受容力の凄さには驚かざるを得ない。
 本書の中で紹介されている人物で重要な人物にフルベッキがいる。彼はオランダ系アメリカ人で、オランダ語、英語、仏語、独語に精通していたため政府に重用された。最初就職のために渡米し、エンジニアとして働いたが病気のため牧師を目指し、神学校に入学。卒業時に日本への布教のための宣教師として1859年に来日、布教するかたわら長崎英語伝習所の後身である済美館と佐賀藩が長崎に設けた致遠館で教鞭をとり、大隈重信、副島種臣、江藤新平、大木喬任、伊藤博文、大久保利通、加藤弘之などの門下生を輩出させている。その後東京に招聘され、教育に携わった後、政府の顧問として活躍している。彼は1869年に欧米への遣外使節派遣を進言している。この使節の派遣はわが国の近代化に大きな影響を与えているから、この進言は非常に重要であった。
 当時まだ過激な攘夷思想を持つ者がおり、外出には警護の者が必要で、常に拳銃をコートの右ポケットに入れて出歩いていたという。
 法制面ではフランスから来日したボアソナードがいる。パリ大学で古典学、法律学を修め、駐仏公使鮫島尚信の依頼により日本人留学生のために法律学を講義したのをきっかけに、司法省雇として来日している。彼のエピソードとして条約改正のおける貢献がある。井上馨外相が、条約改正のために「内地を開放し、法権については外国人司法官を任用して外国人も日本の法権に服するという案をもって、列国の同意を得るところまでこぎつけていた」ところを彼は、法律顧問として堂々たる反対意見を述べる。

 外国人司法官を任用するときは、日本人は外国人の裁判官によって裁判を受け、外国語で訴訟しなければならず、そうなれば天皇の名において行う日本の裁判所でなくなり、不当である。維新後日本は多くの外国人を雇っているが、それは陸軍、海軍、行政、教育のいずれの方面でも、雇い外国人または教師、顧問であって、官職につき官権の行使を許していないのに、最も重大な官権である司法権を委任するのは不当である。こうした日本の利益、面目を損じる井上案は、かえって国民の反対を受け、外国の干渉を招くであろう。

 これがきっかけで井上は引責辞職することになるのだが、日本人以上に日本のことを考え正論を立て、外交的失策を回避したというのは特筆されるべきだろう。

 また、憲法起草に寄与したドイツ人ロエスレルは、駐独公使青木周蔵の推挙により日本に招聘され、1878年に来日している(当時44歳)。彼は27歳の若さでローシュトック大学の国家学正教授になっている。伊藤博文の別邸で極秘に起草されていた憲法草案であったが、彼はその作業に呼ばれている。ロエスレルの草案は、「伊藤博文がとくに熱心に参照し、井上毅案の修正にさいしてこれに拠り、いわゆる夏島修正案を作った」。この草案作成段階で、ロエスレルは、明治憲法の第一条文の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇コレヲ統治ス」という神話的表現に強行に反対したという。彼の意見は長らく公開されなかったということであるが、

 言少ク不祥ニ渉ルノ憚ナキニアラスト雖モ今後幾百千年ノ後マデ皇統ノ連綿タルベキヤハ何人モ予知シ能ハザル所ナリ。然ルニ此ノ如ク漠然万世一系ト云フハ頗ル過大ノ称タルヲ免レス(中略)唯ダ漠然タル文字ヲ憲法ノ首条ニ置キ以テ天下ノ論難ヲ招クハ万々得策ニアラザルコトヲ忠告セント欲ス

と述べた。この意見は不採用となったのだが、これも特筆すべきことであると思う。