烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

おもちゃの国

2007-02-21 00:05:25 | 本:哲学

 『幼児期と歴史』所収の論文「おもちゃの国」を読む。クロード・レヴィ=ストロースの古希に敬意を表して献じられている論文で、冒頭に『ピノッキオの冒険』の「おもちゃの国」を描写した文章から話は始まる。要するにおもちゃの国は、混乱のきわみであり、そこでは暦が麻痺し、破壊されている。ここで暦というものを確定するものとして儀礼があるという話からレヴィ=ストロースの「儀礼は暦の諸階梯を確定し、場所は旅の諸階梯を確定する」という引用がされている。時間の流れに刻みをいれる暦を固定し構造化するものとして儀礼があり、その対極に遊戯があるというわけだ。儀礼の背後には神話があるわけだから、儀礼と対立する遊戯というものは、それを否定するというよりも形式だけを残し、内容を無化するものであるといった方がより正確である。
 『野生の思考』の中には、アメリカン・インディアンのフォックス族の養子縁組儀礼を論じたところに、儀礼と遊戯の関係を論じた一節があり、それによると「儀礼は出来事を構造に変形するのにたいして、遊戯は構造を出来事に変形する」という。だから、

儀礼の任務は神話的過去と現在とを隔てている間隔を廃棄し、すべての出来事を共時的構造のなかに再吸収することによって、神話的過去と現在のあいだの矛盾を解消することであるということができる。これにたいして、遊戯のほうは、対照的で正反対の操作を提供する。それは過去と現在のあいだのつながりを裁ち切り、構造をまるごと出来事に粉砕してしまおうとするのだ。

しかしこの遂行は完成することがない、すなわち純粋な儀礼もなければ純粋な遊戯というものはない。純粋な通時態、純粋な共時態が存在しないように、純粋な遊戯、純粋な儀礼はないのである。この二つの態のあいだの「ずれ」が歴史、人間的時間なのだというのがアガンベンの見方である。ここで著者は図式的な理解として互いに直行する二つの軸の一方を共時態、他方を通時態とし、両軸に漸近する双曲線として表現している(本には放物線と訳されているが、文章の意味からすれば双曲線だろう。図では両軸に漸近する形になっていないのが不正確で瑣末なことながら気になる)。
 ここでレヴィ=ストロースの「熱い社会」と「冷たい社会」が引用され、前者は遊戯の領域が儀礼の領域を犠牲にして拡大していこうとする社会であり、後者はその逆であるという解釈がなされる。先の双曲線をy=xの直線で区切った際に一方が冷たい社会、他方が熱い社会になる。二つの様態へ相互に変形する操作functionが儀礼と遊戯というわけだ。そしてこの操作は完遂されることなく必ず残余を遺す。
 ここから葬送儀礼に話は移る。死者を「葬る」という儀式は、「亡霊」としての死者を完全に葬ること、すなわち通時態と共時態が混在する現世から共時態の領域へと置き固定化することである。この固定化がうまくなされないときに私たちの世界に亡霊は起ち顕れるのである。ラカンでいえば現実界の象徴化が失敗したときに亡霊が顕れる。この固定化がきちんとされたときに亡霊は祖先となる。これと反対の誕生という出来事、幼児という死んでいる生者、半分生きている者を生み出す出来事も亡霊同様不安定な指示記号であり、中和されなければならない。

 亡霊と幼児は、いずれもが通時態の指示記号にも共時態の指示記号にも属しておらず、社会システムの可能性を構成している二つの世界の指示記号のあいだに存在する対立そのものを指示した記号として出現する。すなわち、それらは、それがなくては人間的な時間も歴史も存在しないだろう、当の指示記号的機能そのものを指示する記号なのだ。

 ここでアガンベンは重要な点を指摘している。

 ある文化があまりにも自分の過去の指示記号に取り憑かれすぎていて、それらを埋葬するよりはむしろ、それらを「ファンタスマ」として際限なく維持しながら祓い清めをおこなうのは、また、現在の不安定な指示記号を極端に怖れていて、それらのうちに無秩序と転覆の担い手しか見いだすことができないでいるのは、健康の徴候ではないからである。

 わが国でいえば、靖国の英霊(すなわち亡霊)を巡る議論はまさにこの二つの態度を表したものではないかと思うからである。