烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

トクヴィル

2007-02-11 19:56:47 | 本:社会

 『トクヴィル』(小山勉著、ちくま学芸文庫)を読む。アレクシス・ド・トクヴィル(1805-1859)の政治哲学を解説した書物で、『旧体制と大革命』(小山勉訳、ちくま学芸文庫)も買ったので、解説書の方から手をつける。
 巻末の年譜を見ると、母国のフランスでの民主政治の激動期に生きたことが分かる。その中で母国と大西洋を隔てたアメリカのデモクラシーを比較検討しつつ怜悧な分析を生み出した彼の洞察力には驚きを禁じえない。民主主義の激動期にもかかわらずこれほど本質をついた分析ができたといっていいのか、激動期だからこそできたといっていいのかわからないが、自由と平等という共に民主主義の理想でありながら、同時に満足させることはできない条件を実にバランスよく考察している。

 ヒトは完全に自由であることなしに絶対的な平等に達しえない。したがって、最も極限的な段階では、平等は自由と一致するにしても、両者を分かつのは理由のあることである。人間が自由を好む気持ちと平等に惹かれる気持ちとは、実は二つのもので、別なのである。それどころか、私は、民主的な国民においては、それらは釣り合わない二つのものだと言うことさえ憚らない。

という冷静な発言や、政治社会体制における習俗の重要性を見抜いていたこと、権力の絶対性、無限性、無謬性を悪であると断じる彼の姿勢の根柢にはフランスのモラリストの系譜が息づいていることが分かる。

 全能はそれ自体悪であり、危険なものと思われる。その行使は、行使者がだれであろうと、人力を超えるもののようにみえる。なんらかの危険なしに全能たりうるのは神のみである。神の叡智と正しさとがつねにその力に等しいからである。それゆえに、地上には、なんらの抑制もなく行動させ、なんの障害もなく支配させてよい、と私が思うほど、それ自体が尊敬に値し、あるいは神聖な権利をもった権威など存在してはいない。

とくに彼の洞察で現在にまで通じる重要なことは、民主的な社会状態での危機を暴力などのアナーキーな状態は「一時の兆候」であり、恐れるべきものではないが、安定した状態から派生する次のような状態と指摘していることである。

 今日の人々は情熱に燃えず、その習俗は柔弱であるが、教育が普及し、純真な宗教心と穏やかな道徳をもち、堅実で勤勉な習性を身につけている。善行をなすにしても、非行をなすにしても、彼らはほとんどすべてに慎重である。これらのことを考えると、彼らが暴君を頭にいただくにいたる危惧はないが、恐ろしいのはむしろ後見人が彼らの指導者となることである。

 彼が指摘した「後見人」による穏和な「包括的抑圧」こそは、「「人間の尊厳」を失わせ、「個人の意志・思考・イニシアティブ」と責任の精神を弱め、他方で依存精神を病状化する」ものだという。外に向かう関心を萎えさせ、ひきこもらせると同時に無関心を引き起こさせるこの後見人は、個人を尊重するふりをしながら個人を骨抜きにしてしまう権力なのだ。
 トクヴィルは公共精神を尊重していながら、盲目的な愛国心は排している。彼は愛国心を「本能的愛国心」と「理性的愛国心」の二つにわけ、前者は、

 思慮を欠いた、無私無欲の、名状しがたい感情に発し、人の心を出生の地に結びつける。この本能的な愛は、旧習好み、祖先崇拝、過去の記憶と溶け合っている。(中略)このような祖国愛はそれ自体まさに一種の宗教であり、理性を排し、信念・感情・行動に訴える。

 これに対して理性的愛国心は、

 知性から生まれ、法律に助けられて発展し、権利の行使によって高まり、ついには、いわば個人的利益とも融合するようになる。

前者は「臣民」としての愛国であり、後者は「市民」としての愛国である。現代の私たちが国を愛するとすれば当然後者としての愛でなければならないが、これがややもすると前者になりがちであることをすでにトクヴィルは見抜いていたのである。建国記念の日に読むにふさわしい本だった。