烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

幼児期と歴史

2007-02-20 07:07:16 | 本:哲学

 『幼児期と歴史』(ジョルジョ・アガンベン著、上村忠男訳、岩波書店刊)を読む。
 人間はどうして歴史を必然的にもつ存在であるのかという問いは、さまざまに答えることが可能であろう。言葉を操る存在であるからというのはそれに対するひとつの解答である。言葉を使うことにより私たちは(たとえそれが存在しないとしても-これはデリダが好んで指摘したことであるが-)起源を語ることができ、過去・現在・未来を語ることができる。アンガンベンはこれに対して、言語をもつこととともに言語活動をもたない状態(題名にある「幼児期infanzia」)があること、そしてこの二つの層の不連続性(断-層)による差異を産み出す活動(軋み)こそが歴史を産み出すものであると指摘する。これはラングとパロール差異、すなわち記号の体系と言述との分裂といってもよい。人間というものが、言語という記号にその基礎が置かれるのでもなく、反対に言語以前の意識の流れというものに求められるものでもないこと、まさに二つの「あいだ」、「閾」に顕れるものであるということである。
 その意味で、題名にある「幼児期」というのは、少々不適切な訳語である(ここはきちんと訳者あとがきと解説のところでも断りがされている。インファンティアとそのまま題名にしたのではあまりにも分かりにくいという当然の配慮からであろう。アガンベン自身がこの言葉を拡張した意味で使用しているので仕方がないが、ここのところは非常に大事なポイントである)。インファンティアをクロノロジー的に言語活動に先行しているようなものと捉えてはいけない。

 この差異、この不連続にこそ、人間存在の歴史性はその基礎を見出すのである。人間のイファンティアが存在するからこそ、言語活動は人間的なものとは同一化されえず、ラングとディスクール、記号論的なものと意味論的なものとのあいだには差異がみられるからこし、このためにこそ歴史は存在するのであり、このためにこそ人間は歴史的存在なのである。

というのが、アガンベンの解答である。
 ラングとパロールの埋めようもない差異という点には、ラカンに通じるところがあるが、アガンベンは、これも無意識の主体エスをひとつの「人称」としてとらえているところからインファンティアとは違うとしてとらえているようだ。
 また、語ることのできないこととして、ウィトゲンシュタインに関連して著者はこう述べる。

 ウィトゲンシュタインが、『論理哲学論考』の最後において、言語活動の「神秘的」限界として立てているものは、言語活動の此岸または彼岸にあっていわゆる「神秘的経験」の霧のなかに位置している心理的現実ではないのであって、言語活動の超越的起源そのものであり、単純に人間のインファンティアそのものなのである。語りえないものとは、現実には、インファンティアなのだ。経験とは、あらゆる人間がインファンティアをもrつという事実によってうち立てるミュステーリオン[神秘]のことである。この神秘は沈黙および神秘的な語りえないことの誓いではない。そうではなくて、人間を強いて、言語と真理へと向かわせる誓いである。こうして、インファンティアが言語活動を真理へと差し向けるように、言語活動は真理を経験の宛先として構成する。

 言葉をしゃべることが、「真理を経験の宛先」とすることであるという表現は、非常に正鵠を得たものであるように感じた。