烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

時間の民族史

2007-02-25 16:23:38 | 本:歴史

 『時間の民族史 教会改革とノルマン征服の神学』(瀬戸一夫著、勁草書房刊)を読む。
 ヨーロッパ中世の封建時代におけるローマ教会とノルマン王権の主導権争いに注目して、国家という幻想的運命共同体がいかに形成されていったか。そしてその形成においてキリスト教的時間概念がどのように関わっていたかを考究した本である。
 11世紀教皇グレゴリウス七世による「グレゴリウス改革」と呼ばれる教会改革のシモニア(聖職売買)とニコライスム(聖職者妻帯・蓄妾)に対する糾弾の背景には、教権による中央集権的支配を構想があった。ヘブライ・キリスト教的思想にある「約束の地」へ向かうという構図には、一方に外的時間を超越した「到達できない」神があり、もう一方にはそれを目指す自分たちの民族がいる。両者を結びつける存在として預言者がいる。預言者は、「外的時間をつうじて継おき、続する民族の歴史を、宗教的な意味に満たされた内的時間へと回収する」。過去から現在に至る出来事の連鎖としての時間(クロノジカルな外的時間の継続)と、その外的な時間を突然打破する「そのつどの現在」、神の啓示としての時の緊張関係の上になりたつ時間観念は、われわれにはない故に理解の難しい時間感覚である。両者が全面的に宥和うする「永遠の現在」となるとき、民族の固有の歴史はその中に回収されるがゆえに固有な時であるとともに、それを超えた時でもある。それを導いていくものが牧人である聖職者というわけである。
 かつて「約束の地」を目指して空間的に移動していた牧畜民は、定住農耕民へと転身した。このときその農業社会は、「約束の地」を空間の果てではなく時間の彼方、「来世に約束された天上のイェルサレム」として表象するようになった。

遊牧に代わる農業の時間的な旅は、シャルルマーニュの戴冠を大きなターニングポイントとして、司牧者と牧羊犬との明確な職務分担と協働による、群れ(=民衆!)全体の新たな統治態勢を緒につかせた。それは教会の「国家化 Einstaatung」がイデオロギー的に完成された、歴史上最大規模の結節点であったといってよい。聖職者と俗人権力者による支配機構の二元性はこのように、遊牧集団の農業社会版として成立したのである。

こうした歴史的背景からくる価値観による教会改革は、したがって通常の倫理的道徳的糾弾というよりは、ヘブライ的統治モデルに基づいたものであったという。

 こうした中イギリスではノルマン征服の後、当初はローマの改革教皇座と歩調を合わせつつ王国統治の基盤整備を進めた。この中心的役割を果たしたのがカンタベリー大司教のランフランクスという人物であったが、彼は改革の原則を保持しつつ(すなわち来世を保証するという権能についてはローマ教会と結びつきつつ)、イングランドへの干渉を排除して一つの「運命共同体=民族」を形成していったのである。
 この部分についてのランフランクスの論法は現在の私たちからするとはなはだ理解が困難なところである。現在の論理的矛盾を、救済される未来というものに依拠して止揚する。
 聖職位という「永遠の権威に留まる」ものは、世俗的な王権では裁くことができないが、「聖職位から切断された時間的(世俗的)な諸権利がなければ、ローマ教会を頂点として営まれる永遠の聖務に一瞬たりとも従事できない」。この論理を巧みに利用してランフランクスはイングランド<王国=教会>を確乎なものとしていく。

ノルマン征服により歴史のなかに忽然と登場したイングランドの新態勢は、人種の単一性にもとづくのでもなければ、血縁や地縁による人的な結びつきによるのでもなく、また文化や歴史の共通性、さらには単純な意味でも宗教的一体性にもとづくのでもない、ある特異な共同体へと転生して、すなわち救済を約束された「民族」へと転生して、地上における現世的=時間的な「国家」をかたどることになった。

 信仰の問題として考えるとなかなか理解するのが難しいのだが、著者も述べているように未来の時間を拘束するものとして、現代の我々が負っている経済的負債とその返済、その経済システムを支えているものとしての国家という枠組みでとらえてみれば、ぐっと身近に感じることができる。
 教会史も中世史にも疎い私としては、もう少しよく理解するためには読み直してみなければならない本であった。