烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

トクヴィル-2

2007-02-12 12:21:51 | 本:社会

 『トクヴィル』を続けて読書中。中央集権を批判し、地方自治が自由の維持に必要であり、そのためにはアソシアシオンによる私的世界から公的世界へ赴くことが重要であることをトクヴィルは説いており、その主旨はJ・S・ミルの『自由論』とも一致していることが紹介されている。

 多くの場合に個人は、標準的に見て、特定の仕事を政府官吏のように巧みに処理することはできないが、それにもかかわらず、その仕事が、個人自らの一手段として、個人によってなされることが、政府によってなされるよりも望ましいのである。-それは個人の積極的諸能力を強化し、彼の判断を練磨し、また彼の処理に委ねられた問題に彼を精通させる一つのやり方である。これこそ、陪審裁判(政治的でない事件に関わる)や、自由で民主的な地方・都市の諸制度や、自発的な団体による工場および慈善事業の経営などの、たとえ唯一ではないにしても、主要な長所なのである。(中略)・・彼らに公共的な動機または半ば公共的な動機から行動する習慣を与え、また、彼らの一人ひとりを孤立させるのではなく、互いに結合させるような目的に向かって行動する習慣を与えるものなのである。このような習慣と能力がなければ、自由な憲法は運用されることも維持されることもできない。

 社会的結合をいかにして達成するかというのは難しい問題であると思うが、彼は、自由と相反するところもある社会的結合がないと「自由は無力であり、自由のない社会的結合はあらゆる精神力の喪失だ」と述べる。個性をのばせと一方的に叫んだだけでは、孤立した個人はできても独立した個人はできないだろう。自分で考えて行動する個人は、社会の中で練成されることで、本当の自立した個人となる。この練成課程は、中央集権的な政体ではなく地方自治の場こそが必要であると彼は考えていた。だから

 自由な人民の力は地方自治体のなかにこそある。小学校が学問に不可欠なように、地方自治制度は自由に不可欠である。地方自治制度は、自由を人民の手に届くところに置き、人民に自由の平和な行使を体験させ、その行使を習慣づけるのである。国民は、地方自治制度がなくても、自由な政府をもつことはできるかもしれないが、自由の精神はもてない。

 学校という比喩は面白いが、今その学校という自分で考える習慣を練成する場であるべきところがこの国ではますますその力を失い、責任を中央政府に丸投げ(すなわち放棄)しつつあるように思われる。教育を再生させるといわれているが、教育の管理統制がさらに強まるだけだろう。自立と自治の精神を失えば、学校は学校でなくなるだろう。これは小学校から大学に至るまで共通した現象である。

 トクヴィルは、また個人主義が両刃の刃であることも認識していた。個人主義は人間の尊厳と自律を強く主張する一方で、それが満たされると公共の場から個人を孤立させ、狭い関係(家族や友人)だけに引きこもらせる病的な力があることに注意を喚起していた。個人主義が民主主義には必要でありながら、公共精神を枯渇させてしまう恐れがあり、節度のない自己愛しかない利己主義に堕してしまう。それは市民的無関心を広め、民主的専制化を生む。
 この病気に対する彼の処方箋は、アソシアシオンであり、これにより「権力濫用に対する最善の防備策である責任の経験と、社会的相互依存の意識とを身につけさせる社会化された実践」がなされると診断する。重要なことはこのアソシアシオンがあくまで自発的になされることであり、上から強制されたり促されて行うものではないということである。これを生み出す土壌としてトクヴィルは社会の習俗ということに注目していたのではないだろうか。