東京も、ソメイヨシノが開花し始め、春のお花見シーズンになりました。
教室近くの三分咲きの桜
ちらほら桜の花が開花し始めた23日(日)、まだ明けやらぬ東京を後に、私は実家の用事で、新潟に帰省しました。
やはり、新潟は雪国。新幹線がトンネルを越えると、そこはまだ一面の銀世界。
私の実家は、以前新津市と呼ばれた町でした。
鉄道の町・石油の町として、その道のファンには知られた所でした。
日本における油田開発の発祥の地とも言うべき所で、私の幼少のころでさえ、秋葉山(あきはやま)の周辺では、ギーコ・ギーコと言う音を出しながら、石油の掘削の機械が動いていました。
町の中を流れる能代川(のうだいがわ)の川面は、油でギラギラしていたのを覚えています。
そんな川でもフナなどがいて、脂ぎった(いや、油ぎった)フナを、友達とよく釣ったものでした。
また、私の通った小学校の同級生の半数以上が、旧国鉄の職員の子弟でした。
新津は、信越線・磐越西線・羽越線が通り、交通の要衝として栄えた町でした。
以前は、町に操車場があり、線路をまたぐ渡線橋の上から、その下を行ったり来たりする汽車を見ることが出来ました。
子供のころ、その汽車からファ・ファと勢いよく出てくる煙の中に入るために、渡線橋の上を右往左往したものでした。
現在新津は、新幹線のルートからはずれ、昔の面影はありません。
しかし、時々都内のJRの電車製造場所を表すプレートが、新津になっているものがあり、嬉しくなります。
私の学年は、団塊の世代よりは少し後でしたが、それでも私の通っていた小学校は、1学年500名近くはいたのではないかと思います。
したがって、全校集会は、3000名ほどの生徒が、体育館に集合しました。
私は、小5の時、児童会の副会長をしていました。
児童会役員は、児童会で決まったことを、その全校集会で発表します。
あまりにも多い生徒の熱気で、後ろの生徒がかすんで見えるような感覚がした壇上で、私もその生徒の多さに緊張したことを思い出します。
子供達が大勢いて、至る所で子供の遊ぶ声が聞こえたのは、もうずっと昔のように感じます。
いまでは、少子高齢化の影響か、老人だけが目につく町になってしまったようです。
町の商店街は、私の子供のころは、結構賑わっていたように思うのですが、いまでは地方都市の例に漏れず、中心街は寂れています。
郊外に、大きな駐車場を持つ、ショッピング施設ができて、そちらの方が今では栄えているようです。
そんな私の故郷である新津市は、今は無くなり、現在では新潟市の秋葉区となりました。故郷が無くなったような、一抹の寂しさを覚えます。
今回、公園としてその周りが整備されている、秋葉湖の水芭蕉が満開だというので、見に行きました。
秋葉湖近くの水芭蕉
尾瀬まで行かなくとも、結構きれいに咲いた水芭蕉を見ることが出来ました。
秋葉湖近くの水芭蕉
また、その周辺には、ツクシやフキノトウなども芽を出していました。
ツクシが芽を出していました
私は、フキノトウを取ってきて、蕗味噌を作ってみました。苦みのある蕗独特の風味が、春の訪れを感じさせました。
ツクシも取ってきたので、ツクシの煮付けに初チャレンジしようと思いました。
ツクシのはかま(私もレシピで初めて知ったのですが、節ごとについているギザギザなもの)を取っているうちに、大きくなりすぎた、かわいらしくないツクシを見ているうちに、食指が動かなくなり、またの機会にすることとしました。
咲き始めた桜
そんな故郷の春を味わった翌日の午前中には、私は中央区にある教室に出て、仕事に就いていました。
あわただしい都会、のんびりした田舎。
めまぐるしく変化する都会、昔とあまり変わらない風景の田舎。
人口が再び集中し始めた都心、少子高齢・過疎化し続ける田舎。
その落差が、年々大きくなってくるようです。
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教室近くの三分咲きの桜
ちらほら桜の花が開花し始めた23日(日)、まだ明けやらぬ東京を後に、私は実家の用事で、新潟に帰省しました。
やはり、新潟は雪国。新幹線がトンネルを越えると、そこはまだ一面の銀世界。
私の実家は、以前新津市と呼ばれた町でした。
鉄道の町・石油の町として、その道のファンには知られた所でした。
日本における油田開発の発祥の地とも言うべき所で、私の幼少のころでさえ、秋葉山(あきはやま)の周辺では、ギーコ・ギーコと言う音を出しながら、石油の掘削の機械が動いていました。
町の中を流れる能代川(のうだいがわ)の川面は、油でギラギラしていたのを覚えています。
そんな川でもフナなどがいて、脂ぎった(いや、油ぎった)フナを、友達とよく釣ったものでした。
また、私の通った小学校の同級生の半数以上が、旧国鉄の職員の子弟でした。
新津は、信越線・磐越西線・羽越線が通り、交通の要衝として栄えた町でした。
以前は、町に操車場があり、線路をまたぐ渡線橋の上から、その下を行ったり来たりする汽車を見ることが出来ました。
子供のころ、その汽車からファ・ファと勢いよく出てくる煙の中に入るために、渡線橋の上を右往左往したものでした。
現在新津は、新幹線のルートからはずれ、昔の面影はありません。
しかし、時々都内のJRの電車製造場所を表すプレートが、新津になっているものがあり、嬉しくなります。
私の学年は、団塊の世代よりは少し後でしたが、それでも私の通っていた小学校は、1学年500名近くはいたのではないかと思います。
したがって、全校集会は、3000名ほどの生徒が、体育館に集合しました。
私は、小5の時、児童会の副会長をしていました。
児童会役員は、児童会で決まったことを、その全校集会で発表します。
あまりにも多い生徒の熱気で、後ろの生徒がかすんで見えるような感覚がした壇上で、私もその生徒の多さに緊張したことを思い出します。
子供達が大勢いて、至る所で子供の遊ぶ声が聞こえたのは、もうずっと昔のように感じます。
いまでは、少子高齢化の影響か、老人だけが目につく町になってしまったようです。
町の商店街は、私の子供のころは、結構賑わっていたように思うのですが、いまでは地方都市の例に漏れず、中心街は寂れています。
郊外に、大きな駐車場を持つ、ショッピング施設ができて、そちらの方が今では栄えているようです。
そんな私の故郷である新津市は、今は無くなり、現在では新潟市の秋葉区となりました。故郷が無くなったような、一抹の寂しさを覚えます。
今回、公園としてその周りが整備されている、秋葉湖の水芭蕉が満開だというので、見に行きました。
秋葉湖近くの水芭蕉
尾瀬まで行かなくとも、結構きれいに咲いた水芭蕉を見ることが出来ました。
秋葉湖近くの水芭蕉
また、その周辺には、ツクシやフキノトウなども芽を出していました。
ツクシが芽を出していました
私は、フキノトウを取ってきて、蕗味噌を作ってみました。苦みのある蕗独特の風味が、春の訪れを感じさせました。
ツクシも取ってきたので、ツクシの煮付けに初チャレンジしようと思いました。
ツクシのはかま(私もレシピで初めて知ったのですが、節ごとについているギザギザなもの)を取っているうちに、大きくなりすぎた、かわいらしくないツクシを見ているうちに、食指が動かなくなり、またの機会にすることとしました。
咲き始めた桜
そんな故郷の春を味わった翌日の午前中には、私は中央区にある教室に出て、仕事に就いていました。
あわただしい都会、のんびりした田舎。
めまぐるしく変化する都会、昔とあまり変わらない風景の田舎。
人口が再び集中し始めた都心、少子高齢・過疎化し続ける田舎。
その落差が、年々大きくなってくるようです。
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