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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

もしも、わたしが一本の木だとしたら

2020年02月29日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

 

わたしが、一本の木だとしたらどのように、

根っこをはやし、えだを伸ばしてきたのだろうか。

 

早川ユミが『種まきノート』アノニマ ・スタジオ(2008年)の中で、こんな問いかけをしていました。

 

このところ、わたしの親の世代が相次いでなくなり、人の一生というものをこれまでになく、真剣に考えるようになりました。

そもそも人は何のために生きるのか。

容易ならざる問いですが、早川ユミさんのこの問い方は、とても共感できるものでした。

 

もしもわたしが一本の木だとしたら・・・・

 

 

考えてみました。

 

もしもわたしが一本の木だとしたら、
どれだけ深く根を張ることができただろうか。

どうやら、深く掘ることばかりに気がいって、広く根を張ることは疎かになっていたようだ。

 

もしもわたしが一本の木だとしたら、
どれだけ年輪を重ねて太い幹になれただろうか。

年輪は、年数とともに自動的に増えるものですが、夏と冬の寒暖の差を受けて、

密度の濃い丈夫な幹に育ったとはとてもいえない。

 

もしもわたしが一本の木だとしたら、
枝を広げることだけは随分やってきたといえるかもしれない。

でもそれにふさわしい幹や広くはった根を育てていないので、

強い風に煽られたら、いつ倒れてもおかしくない育ち方をしている。

 

もしもわたしが一本の木だとしたら、
どんな花を咲かせていただろうか。

枝いっぱいに花を咲かせることなど、

未だ一度もできていないような気がする。

美しく咲かせることができるのなら、老木になって一度だけでも良い。

 

もしもわたしが一本の木だとしたら、
どんな実を生らすことができただろうか。

子どものいない私にとっては、自身の種から芽が育つことはないかもしれないけど、

周りの木々のために、日陰を作ったり、風よけになったり、

やがて苔むして、朽ちて、

せめて他の生命の肥しになることができれば幸せなことだろう。

 

仕事で何かをなした達成感も大事ですが、

もしもわたしが一本の木だとしたら、という問いかけは、

より自然なかたちで自分を振り返ることができる、とても良い言葉です。

 

沼田市白沢の石割り桜

 

人間や動物は、足を持ち移動できるのだから、木とは前提条件が違うのではないかと言われそうですが、とんでもありません。

昭和・平成・令和という時代に生まれた私たちは、決して自ら選んでこの世に生まれてきたわけではありません。両親の遺伝子を受け継ぎ、この日本、この地球という現代の条件の中に、気がついたときには産み落とされていたのです。

この国に根を下ろして生きなさいと。

この時代で芽を出し枝を伸ばしなさいと。

この世界で花を咲かせ、実を実らせなさいと。

一本の木と全く同じように、自分の意志では動かしようのない決定的な自然条件、歴史条件のなかに生まれ育っていることを忘れてはなりません。

 



 

 

もしも私が一本の木だとしたら・・・

 

 

さらには、一代のみ、一本のみとして考えないことも大事でしょう。

 

 

         お花がちって 実がうれて、

         その実が落ちて 葉が落ちて、

         それから芽が出て 花が咲く。

         そうして何べんまわったら、

         この木はご用が すむかしら。

                 『木』 金子みすゞ

 

 

ぜひ皆さんも考えて見てください。

     「もしも、わたしが一本の木だとしたら」

 

 

 

 

 

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