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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

多数派という意識こそが差別を生む

2023年04月03日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

毎年、サクラの季節になると、どこもかしこもサクラの話題一色になります。

私自身も毎年、何箇所かの一本桜の開花情報を頼りに出かけることはとても楽しみにしています。

ところが春は、サクラばかりでなく、たくさんの花々が一斉に開花するときです。華やかさでは桜に劣るかもしれませんが、限りないほどたくさんの美しい花々をこの時期には目にすることができます。決してそれらの花々は、桜の脇役として咲いているわけではありません。

それぞれが掛け替えのない役割をもって、太陽と土と風と虫たちとの絶妙の共演バランスのうえでタイミングをはかって開花しているものです。


確かに日本人がサクラに対して特別の感情を持ち、それを愛でる長い歴史と文化を持っているのは素晴らしいことです。菜の花畑やダイコンノハナの群生をベースにした桜の花の美しさも格別のものがあります。

でも、これほどまでに桜一色になってしまう季節に咲いている桜以外の他の花々は、どうしても桜の圧倒的存在感に押されてしまうものです。それは決してサクラが悪いわけではありません。

圧倒的多数の存在そのものが、無意識に少数のものを圧迫してしまう関係にあるからです。それを通常、多数の側は意識しません。

 


自分たちが多数になることによってのみ、「正義」が実現できるかの従来型発想の図

 

ニッチという言葉があります。

ビジネスでよく使われる言葉で、隙き間産業、隙き間商品などに対して用いられる言葉ですが、このニッチという表現が生物学では「生態的地位」と訳されることを知りました。

 生物学でニッチは、「適応した特有の生息場所 (生態的地位)」のことを指す。生物は、種が生きていくために適した環境を求めるが、同じエリアに多くの種が存在する場合、生存競争を勝ち抜くか、エリア内で棲み分けをすることで、それぞれの種を存続させる(例:同じエリアで日中は昼行性のワシが活動し、夜間は夜行性のフクロウが活動する)。このように、その種に適応した生態的役割や位置のことをニッチと呼ぶ。

つまり、すき間などの少数、弱者の立場を表すというよりは、それぞれの存在固有の地位を表すという意味です。

ニッチをこの生態的地位とする解釈からは、ビジネス用語として用いられるニッチの隙間のような、それぞれの個体数の多い少ないといったイメージはなくなります。少数、あるいは希少な側にいるからニッチなのではなく、それぞれの個体が持つ固有の立場、条件こそ意味があるということです。

ニッチとは、隙間にある希少な存在、少数者ということではなく、それぞれに固有の立場であるとみると、多数派、あるいは少数派という数を軸にした分け方そのものの意味が消えてなくなります。

多数派であるか少数派であるかの問題ではなく、
それぞれの「あり様」こそが大事であることを図式化したもの

実は、最近、そうした多数、少数の力関係を示す典型的ともいえる歴史的な逆転劇起こっています。

ローマ帝国の誕生以来、長い間あたり前のようにまかり通っていた欧米中心の白人社会が、アメリカやヨーロッパの国内に移民が大量に流れ込む時代になってきたことで、それぞれの先進諸国内で白人社会が必ずしも多数派とは言えない環境が急速に広がりはじめました。

はじめは奴隷として自ら増やしてきたアフリカ系黒人に加えて、ユダヤ難民、肌の色を問わない戦争難民、イスラム系移民、中国、日本をはじめとするアジア系移民など、いつの間にか、欧米諸国のどの国を見ても、必ずしも白人社会がもう多数派とは言えなくなる変化が加速しています。

かつてG7の先進諸国が世界で占めるGDPの割合は7割近くもありました。
それが今では、G7の占めるGDP比は5割を切り、今後も間違いなくそれは下がり続けます。それは、もともと世界の人口比で見れば、白人社会などというのは3割程度の少数派にしか過ぎないという現実を確認するだけのことなのですが。

こうした変化によって、これまで長い歴史の間、当たり前のように思っていた欧米白人中心の社会観というものが、いつの間にか自国内での立場が少数派になりはじめていることに気づき出したのです。それが必然的に巻き返しを求めるエネルギーとして移民差別やナショナリズムの台頭などの姿として現れはじめたわけですが、トランプ現象などもその典型的な現れです。

社会や政治に対する関心が薄れて、投票率は最早議会制民主主義が機能しているとは言えないレベルになると、個々のマイノリティーの声に耳を傾けることよりも、より刺激的な保守発言の方が票を集めやすくなってくるものです。そうした変化、加速する対立が今後どのようになっていくか、私には分かりませんが、他方で、こうした変化には世界史的に見て今までには考えられなかったようなものの見方の変化をもたらしてくれていると思います。

 


それは、長い歴史の間ずっと常識と思われていた欧米白人社会の常識(=「正義」)が、とたんに揺らぎはじめたということです。

常識の側とか正義の側とかいった問題ではなく、今まで常識と思っていた立場が、その内容の真偽の問題ではなく、ただ少数派になったというだけで、根拠を失い、ただそれだけの理由で自分たちが圧迫や弾圧を受ける側になっていると気づいたことです。つまり、欧米白人社会が、理念上の平等を目指すかどうかに関わりなく、社会の中で自分たちがただ少数派であるというだけで必然的に不利な立場におかれ、様々な圧迫、迫害を受けることになるのだと、千年、二千年単位の歴史レベルではじめて気づきはじめたのです。

マイノリティーの人々の置かれてきた立場というのは、彼らに対する偏見や差別をなくして平等な社会と築きましょうなどという理念では解決しがたい、絶対的な少数側の不利を抱えている現実に、はじめて自ら白人社会の側が向き合うことになったのです。

 


ここに至ってようやく私たちは気づきはじめました。

少数者は、多数派になってこそ「正義」が実現できるものではないということを。

多数決で過半数をとりさえすれば、それで合理性を得たと判断できるものではないということを。

 


私たちは、性的マイノリティーや少数民族、あるいは身体障害者に対して、「差別することはいけません」、「平等でなければならない」といった感覚だけで接しがちですが、先のことを振り返ると、差別が起こる圧倒的な部分は、マイノリティーに対する様々な偏見よりも(もちろんそうした偏見も大きな問題としての実態もあります)、自分たちがただ多数の側に立っているという勘違いに端を発していることが非常に多いことに気づかされます。

これまでそんなことを言ってもほとんど説得力はなかった時代が長く続きましたが、欧米白人社会の地位の低下を彼ら自身が体験することで初めて、政権交代や革命などによる変化以上に、本質的なことを人類が学ぶことができているように思えます。

そもそもそれぞれ固有の価値を持つ生命体は、いついかなる場合でも数の問題や多い少ないで解決できるようなものではありません。それは多数決を単純に否定するという意味ではなく、社会という複雑な利害関係を調整する一つの「方便」や「知恵」として多数決はあるに過ぎず、それを絶対視してしまいうような「民主主義」観こそ克服していかなければならないということです。

 


決して春になると一斉に咲き誇るサクラが悪いわけではありません。

白人社会が悪いわけでもありません。

人間だけに起こる、自分たちの側だけが「常識」であり「正義」の側に立っているかの勘違いこそが、無意識のうちにマイノリティーに対する圧迫、差別を生んでいるということです。

社会そのものが、ある程度の均質性を前提とした横並び社会では、何を「する」かの比較で優劣が決まっていました。それが価値観の多様化とともに多極化した社会では、何をするかではなく、人びとはどう「在る」かに軸足を置くようになりはじめました。

異なる価値のもの、数値化が難しい質の問題を不特定の人に説明することは、そもそもとても難しいことです。それを数や量に換算することでこそ、それが可能になるものです。しかし、数や量に安易に変換することのできない質や価値というものを、私たちは面倒くさがらずに、よりあるがままに受け入れる努力というものを決して怠ってはなりません。どんな個体でも、数の問題ではなくそれぞれが固有の生態的地位を持っているということに今ようやく気づける時代になりはじめました。

 


日本社会の政治、経済分野の後退現象はまだまだとどまることがないかもしれませんが、世界史的な変化として今、こうした変化に少なからぬ人びとが気づきはじめたことが、私には嬉しくてなりません。

本当の民主主義に近道はありません。

必要な、より遠回りすべき価値のある道のりが、やっと見えて来たところです。



 #ニッチ #生態的地位 #マイノリティー #少数派 #多数決

 

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