かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

数をたのまず

2023年10月24日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

生まれてこのかた好景気を知らず、
たとえ投票率が劇的に上がったとしても、
自分たちが多数派になることはあり得ない今の若い世代。

そうした時代に生きる彼ら彼女らの思考に、私はここ数年、どれたけ大切なことを教えられたことでしょう。

 

今日の小選挙区制に代表される、51人の考えを49人に押し付ける多数決の考え方が、どれだけ民主主義そのものを劣化どころか破壊をしているか。

われわれ世代の、多数派を目指せばまるで「正義」が実現されるかの安直な思考が、いかに間違っていたか。

そもそもものごとというものは、多いか少ないかではなく、個々の存在価値を認め、それぞれのクオリティを高めることこそが大事なのだと彼らはいつも教えてくれる。

「正しい」を実現することよりも、まわりに良い影響を与えられる「個」になれと。

そしてそこには、理念や方針の正しさ以上に、プロセスの「丁寧さ」が不可欠なのだと。

われわれの同世代(一部の真面目なみなさんには申し訳ないけど)には、この「丁寧さ」というのが決定的に欠落しています。あまりにも、継ぎはぎだらけの足し算思考ばかりです。

この「丁寧さ」があれば、結果的に答えは見えていなくても、より着実に大きなものにたどり着ける。

「丁寧さ」の欠落したところに、「信頼」は生まれない。(ここが私には一番難しい😅)

それでも彼らのおかげで、わたしの働き方、暮らし方も随分変わってきたのを感じます。

世の中の軸足が、なにを「する」かの時代から確実に、どう「ある」かの時代に変わりだしているのを感じます。

 

心から若い彼ら彼女たちに感謝しています。

 

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あまりにも実態が知られていないインボイス制度と消費税

2023年09月23日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道
1000万円以下の零細事業者、個人事業者、あと副業事業者にとっても大変なことになるのに、ほとんどその実態が知られていないインボイス制度。
 
そもそも、「消費税は預かり税ではない」
国会できちんと確認されていることにも関わらず、橋下徹とかは、消費者から預かったお金を納めないのはおかしいなどと、未だにデマを流す。
 
もともと消費税は「売上税」として提案され、猛反対を受け、名前だけ「消費税」と変えて押し通した制度です。
 
ざっくりと言うと、
事業者の純利益に対して課税されるのが法人税。
事業者の粗利に対して課税されるのが消費税。
したがって法人税は、利益が出ていなければ払わなくてよいものですが、消費税は取り引きそのものに課税かれるのです。
この意味で、最初の「売上税」という表現が本来は正しかったのです。
さらには、粗利つまり、仕入れ値に上乗せされた利益に課税されるという意味では、ヨーロッパの「付加価値税」という表現の方がより実態にあった表現であるといえます。
 
それを事業者ではなく消費者が負担してくれるものかのように名前を変えて擬装したことが、今日の誤解をうむことになっているわけです。
 
 
かつて直間比率の見直しということが叫ばれていましたが、いつの間にか聞かなくなりました。
それは、直接税である法人税の比率を下げ、間接税の消費税を上げることが実現したからなのですが、大企業や経団連が消費税増税を大真面目に叫ぶ理由は、それだけではありません。
 
消費税は国内での取引に課税されるものであり、輸出や国際輸送に類似する取引では免除される。
具体的には、輸入貨物を課税対象とする一方で、輸出取引については免税とします。
 
これがどういうことになるかというと、
 
輸出企業は、輸出する商品やその部品を仕入れた際、すでにその対価とともに消費税分の金額は支払い済みだということになっており、その消費税分はほとんど還付されてくる。
その実態は、古い数字しかありませんが、2008年の消費税の還付総額は約6兆6700億円。
この金額は、同年度の消費税収約17兆円のおよそ40%。
これら内訳の大半は、輸出大企業によって占められています。
 
輸出企業の免税実態
輸出大企業に消費税1.2兆円超還付 税率10%で1810億円増大 | 全国商工団体連合会

輸出大企業に消費税1.2兆円超還付 税率10%で1810億円増大 | 全国商工団体連合会

元静岡大学教授・税理士 湖東 京至さんが推算  トヨタ自動車をはじめ日本を代表する輸出大企業10社に、2020年度だけで1兆2千億円余りの消費税が還付―。消費税10%への増...

全国商工団体連合会

 
日本の法人税が諸外国に比べて高すぎることが、かつて声高に叫ばれていましたが、見かけの数字とは違って実効税率が大企業ほど異常に低いことがこれらのことからもわかると思います。
 
 
この輸出大企業への消費税の還付金の問題は、明らかに企業一般の問題ではなくて、ごく一部の輸出大企業(=経団連)のために、多くの企業が払っている消費税が分配されているのだということが知られていません。
 
 
もともと、低所得者ほど負担比率が高くなる消費税の逆進性を少しでも是正するためにある免税事業者制度です。
これが実態としてなくなってしまうのですが、こっちの少ない額の方をイジメるセコさにも呆れるばかりです。
でも彼らの側には、自分達だけの利益を守ろうとする強い動機と巨額の献金を通じて政治を動かす力があることを忘れてはなりません。
 
税そのものが悪いという話ではなくて、この国がとことん低所得者たちから広く集めた税を、大企業優遇のために使い続けているために、ひたすら国内消費が冷え込み、企業自身が自力で成長する力も無くなってしまっていることをもっと理解すべきです。
 
先進国で日本だけが長引くデフレで落ち続ける原因は、消費税にこそあります。
消費税のような性格の税は、インフレの時こそ効果のあるもので、デフレの時期にその増税をしていることは真逆の判断を続けていることに他なりません。
 
インボイス制度などこれらは面倒くさい話かもしれませんが、こうしたことを一つひとつ理解していくことは、私は選挙の投票行動以上に大切なことと思います。
 
以下のYouTube動画がとてもわかりやすいので、是非見てください。

 

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「客観的公平」よりも、自分の主観、感性で決める覚悟と責任が大事

2022年11月12日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

幸せな働き方や幸せな暮らし方をしている人と、そうでない人との違いをみていると、自分の主観的な判断や個人的な感覚をとても大切にしているかどうかの差がとても大きいのではないかと思います。
もっとも、個人の幸せなんてまさに人それぞれで、他人が問題にすること自体が大きなお世話なのですが(^^)

得てして仕事では、何ごとも客観的、公平でなければならないと思われがちですが、ものごとを前にすすめるには、正しいかどうか分からないようなことを決める自分の勇気と覚悟こそが大事で、そこを回避した会議や集団は何も生み出さない。

組織のなかでは、一見どちらでも良いようなことでも、そこは譲れないという価値観、世界観の積み重ねこそが、のちの大きな違いとなってくる。

「客観的公平」という言葉が、教育の現場で、日常の仕事で、地域のあり方で、どれだけ目の前でつかめる幸せから遠ざかる方向に引っ張ってきたことだろうか。

個人的、主観的であることは、当然、責任と覚悟が発生します。
その訓練をずっと避けたままの「民主主義」が、いま制度疲労を起こしている時代のような気がしてならない。

「客観的公平」を求めない「民主主義」などあるのか?
と言われそうですが、そここそが人の幸せを考える側と社会のためと言われながら不幸を招いていく道の大きな分かれ目なのでは。

「正しい」と言われるようなことは、たいていは「灰色の男たち」が運んできます。


サラリーマンなのだから、組織の一員なのだから、とオーナーやトップの決定には逆らえないことが当たり前のように言われます。かつては、そういう面もあるくらいに聞き流していた言葉ですが、個人やまわりの幸せへの道を冷静に考えると、今ではそれははっきりと違うのだと断言できます。

もちろん、すべてが個人の主観優先という意味ではなく、問題によっては折り合いの付け方が大事な場合もあります。でもその場合であっても、個人の「了解」の仕方かとても大事であると思います。

これまでの「横並び社会」で済んでいた時代が終わるだけに、こうした主観性を大事にする社会は、一見、厄介で面倒な人が増える社会になるようにも思えますが、実際は、これまでの横並び社会よりも異なる世界観同士が絶えず対話することになるので、折り合いのつけ方などはずっと進歩するのではないかとも思います。


全国の問題解決の突破事例などを突き詰めて見ていると、組織の客観性よりも、個人の責任と判断のエネルギー量が上回っているところのみが、必ず何かをなし得ているのだと言い切ることが出来ます。

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「一票丸投げ民主主義」から脱却の道

2022年07月24日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

かつて人間は、自らのコントロールの及ばない圧倒的な大自然のなかで生きていました。
そうした環境下で人間は、「仕方がない」という言葉とともに何事も受け入れて生きていました。

それが都市の発達とともに人間は、自然の驚異から守られた人工物のなかだけで安心して暮らせるようになってきました。
そこでは何かコトが起こると、「誰がやったんだ」と責任を追及する(できる)社会になっています。

ところがいつの間にか、自然の脅威からは安全なはずの人工物だけに囲まれた都市のなかも、人びとのコントロールの及ばない、予測もつかない経済、国家、政治、民主主義、災害、近隣の人間関係などがあふれるようになっていました。もはや個人は、人工都市のなかでも、どの道を選択したら良いのか、どのレールに乗ったら良いのかもわからなく、何も保障されない社会に生きているかのようです。

大自然の脅威から逃れる場として発達したはずの都市の中でも、人間のコントロールの及ばないことがこれほどまでに増えた現代では、「仕方がない」との言葉とともに若者が政治離れを引き起こすのも無理もないことに思えてきます。

そのような時代の「民主主義」のしくみは、いまだに一枚の紙きれに個人の名前や政党名を書くだけで当選者にすべてを託してしまう「一票丸投げ民主主義」という実態です。現代の科学技術の進歩した世の中では、信じがたいほど硬直したシステムのなかで動いています。

台湾のオードリー・タンが提唱しているように、一人一票の多数決のみが民主主義ではありません。

ここで若者の投票率を上げましょうといったことは、必要な大事なことではあるものの、その結果は仮に成果が出たとしても「超超マイノリティーの若者が、超マイノリティーに格上げ」(成田悠輔)される程度のことにしかすぎません。

一票の格差の問題が憲法違反だからといって、それを是正するだけで今の日本の問題が解決するわけではありません。

そもそもこれだけ多様化している社会の諸問題を、一票の選択だけですべてを特定の政党や個人に一任してしまうこと自体が、相当な無理を強いられていると言えます。

教育、医療、福祉、外交、防衛、財政など多岐にわたる諸課題をすべてこの政党や個人の言っていることが正しいのでそこに一票を投じるのではなく、教育、医療、福祉はA党。外交、防衛がB党、財政政策はC党などと分野によって分けられるべき時代になっているのではないでしょうか。

現状の一票丸投げ民主主義の問題には、こうした多岐にわたる諸課題は一つの政党や個人にすべての項目を一任してしまう問題と、一度当選した政党や政治家個人に対して、その後に行っている行動をきちんと監視して、問題があったらすぐに是正させたり解任したりする力や権限を、次の選挙までの間、国民がほとんど持ち合わせていないという二つの問題があります。

こうした複雑な構図こそ、AIなどにまず問題を整理させ、自動的に導き出せる領域は答えを出した上で、われわれの判断に任せる仕組みが必要になってきているのだと思います。



失われた10年が20年になり、間違いなく30年を越えようともしている今、選挙で日本の根本矛盾を問うようなことは争点にさえなっていません。

本書では、これらのことについて、ノートのように思いついたことを列挙しており、こんなまとめ方で本になるのかとさえ思えるものですが、だからこそ、読者の思考を促がす格好の構成になっているともいえます。
ネット上では名の知れた方ですが、ちょっと体裁も提案の中身も前例のないものでありながら出足好調です。

日本の現状にウンザリしている方には、おすすめの1冊です。

#成田悠輔  #22世紀の民主主義

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人は図らずも正しいことをするようにできてる 〜性善説不要論〜

2020年02月10日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

こんなことを言っても、今どき信じてもらえないでしょうが、

人は、図らずも、正しいことをするようにできている。

 

これは、性善説ということではなく、人間に限らない自然界の根本法則です。

 

水は、考えることなく

岩に当たれば砕け散り、

大きな石があれば、迂回するものです。

 

その水は、やがて大地に染み込み、

大海に溶け込みます。

 

大地に染み込んだ水は、地下水となり、

海に溶け込んだ水は、水蒸気となって雲になり、

循環していきます。

 

また障害となった固い岩は、砕け、

長い時をへて砂となります。

 

つまり、万物は流動するときに、

絶えず変化をしながら、「安定」へと向かっていきます。

 

これが有機的自然、無機的自然を問わず、

自然科学、社会科学を問わず、

万物に共通する自然法則です。

 

この自然法則のが貫かれるので、

人は図らずも正しいことをするようにできてるのです。

 

これが、行われない時というのは、

動くべきところで動かず、

流れる時に流れないときです。

 

障害があれば水は迂回します。

長く抵抗し続ければ、岩でもやがては砕けます。

ものごとを短期的にぶつかる瞬間だけを見れば、

悲観論や性悪説になりますが、

長期的に見れば自ずと楽観論や性善説となります。

 

そこに能力の有るなしとか、

経済力があるからとか、

時間があるかどうかも関係ありません。

価値観の問題でもありません。

ただ、自然界の道理なだけです。

 

そんなことをこの本は教えてくれます。

 

エイドリアン・べジャン『流れとかたち』紀伊国屋書店 2013年 定価 本体2,300円+税

エイドリアン・べジャン『流れといのち』紀伊国屋書店 2019年 定価 本体2,200円+

 

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数をたのまず 〜心強い1%のリアルな力〜 (ダイジェスト)

2018年10月20日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

小さい頃から転校を繰り返してきた私は、自分の立場が常に少数派、マイノリティーであることには比較的慣れている方だと思っています。

それは少数派であるというよりも、むしろ100対1くらいの力関係の中で生きている感覚です。

ところが最近、ふと気づいいたのですが、同じ100対1という僅か1%の立場であっても、分母を100ではなく1000にすると、分子は10になります。

自分と同じ立場の人間が10人もいると思うと、ちょっと気持ち悪くなるくらいです。
 

だいたいは、同じ考えの人間が2、3人もいれば十分なもので、もしも「七人の侍」のように、それぞれ違う能力や芸のある仲間が7人も集まれば、完璧とも言えるほど強力な集団になることと思います。

 

このことに気づくと、自分が常に少数派、マイノリティーの側であることは、なんらハンディーや不利につながるようなことではなく、もともと何かことを始めるときには、当たり前の立場であることに気づかされます。

多数派になれないから不利なのではないとうことです。

どんなことでも、二人目、三人目を探し出すことこそが大事な一歩であるはずです。

多数を形成するために必要なのは、この一人目、二人目の「覚悟」こそが大事で、その覚悟を持った人の周りにこそ、多数の応援者やギャラリーがつくといった感覚です。

それを抜きにいきなり「皆んなで」とか「大勢」に多くを期待したり、多数の側の「正義」を信じてしまうような勘違いは避けるべきでしょう。

 

時代が、行動する前に正しいかどうかを議論することよりも、まず実践して試してみて検証しながら前に進むことの方が、はるかに大事であるということがわかり出してきたような気がします。

そんな時代に、多数派でなければ始められない、勝てないといった論理は馴染みません。

 

細かく考えると、それにはいろいろな但し書きも必要になってきて、それにこだわりだすと、また多数決型民主主義に戻ってしまうのですが、 

まずは、一刻でも早く

「やってしまえ」

あるいは、やることを「許容してもらう」ことが重視される社会になるべきで、今、世の中は着実にその方向に向かい始めているのではないかと感じています。

 

どんな環境にあっても、自分が1%の存在であることは、決して心細いことではなく、分母を1000にすれば、1%で十分な立場であることに気づかされました。


そもそも世の中というのは、たくさんの1%の積み重ねで成り立っているのですから。

 

 

        一人、覚悟をした人間がいれば、

                 それは過半数だ。

                     トム・ピータース

 


 

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心強い1%のリアルな力(多数決型民主主義からの脱却)

2018年10月19日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

以前どこかに51人の考えを49人に押し付ける民主主義が正しいといえるのだろうか、といったようなことを書いた気がするのですが、毎度のことながらどこに書いたのか確認できません。

このことは政治の世界だけでなく、企業組織や地域づくりなど、いたるところで直面しているので、私にとっては考える機会も多いテーマで、この間いろいろ考えてきてたどり着いた視点があるので、またつらつら書いてみます。

 

まず第一のポイントは、どうも現代の多数決型民主主義の前提が、独立した個人の集合としての多数決よりも、集団(組織や派閥)相互の対立を前提にした特殊な性格が強いことを忘れてはならないということです。

(日本の学校教育が、そうした独立した個人の集まりとしてみない集団管理型教育に留まっている後進性の問題も大きく関わっていますが、それはまた別の機会に書くことにします。)

そもそも過半数を取れば認められるという考え方、つまり51人の賛同が得られれば49人の意見は無効になるなどという論理は、極めて限定的な場合のみに適応されるべきことであって、それが通れば51人の立場は勝ったから当然かのような「正義」としてまかり通るなどというのは、絶対おかしな論理のはずです。

それがまかり通るという昨今の事例は、ほとんどが100人の個人のうちの51人の賛成と49人の反対という構図ではなくて、100人が所属している組織や派閥同士の争いを前提にしている場合が多く、組織相互の主導権争いの決着方法として機能しているにすぎないように思えてなりません。
極論すれば、初めから与党対野党の対立構図があり、与党の立場は初めから法案を何とか通す目的で臨む都合、妥協できる範囲の模索と十分審議は尽くされたというアリバイ確保のための審議であり、議論をしていたら立場や考えが180度変わるなどということは、初めからありえない構図で戦っているのです。

かりに立場が野党の立場であったとしても、そこは主導権を持っている側に対するアクションという意味で機能していることが多く、もしも、その100人を構成している個人が何の組織にも属さない独立した個人の集合として(現実にはそのような想定は難しいものですが、組織化されていない市民が一堂に会するような想定は徐々に現実味を帯びてきています)

こうした問題を一般論として語るのは無理があります。

 

しばしば地域で意見が真っ二つに割れる例として、ダム開発や基地問題があります。
どちらも巨大プロジェクトとなる事業を軸にしているため、地元でその利害(恩恵)に関わる人たちと、恩恵如何ではなく、安全や平和を求める人たちの間で、51:49の「正義」の攻防が繰り広げられます。

それが、ここ十年くらいの間に政治の世界では、小選挙区制と安倍内閣の登場とともに、どちらが51の側になるかに関わりなく、その51人の「正義」が絶対的力を持つかのようになってしまいました。

いつの時代でも国民の総数からすれば多数派であっても、議会で多数派になれない限り少数派に変わりはなく、弱者の側であり続けたわけですが、それでも少数派は生命が脅かされるような問題であれば、議会の多数決以外の様々な抵抗でその立場を守ることが、簡単ではありませんがしばしば可能であったと思います。


51人の多数派であっても、命に関わるような大事なことであれば、たとえ相手が49人はおろか仮に1人であっても、通常は蔑ろにはしにくいものです。
事実、わずか数人の少数派であったとしても、重要な問題であれば、世論に訴えたり、司法を頼ったり、デモなどの恣意行動をはかったり、様々な抵抗手段はあります。
また多数派の側も渋々かもしれませんが、そうした意見や抵抗がある限り、完全に無視することはできずに決定を見送ったり先延ばししたりすることもありました。

それがなぜか、長い議会制民主主義の歴史のなかでも安倍内閣に変わってから急に、49人の側の中身はいっさい問うこともなく、ただそこにあるのは、51人で多数派になったという主導権をとりさえ取れば、49人には構うことなく何でもありの世界になってしまいました。


近頃は、何かにつけて様々な活動で組織を相手にすると、物事を前に進めることが難しくなってしまい、結局は個人で自分の責任でするしかないのか、またはそうすることこそが正しいのか、と思うに至ることがとても多いのです。

異なる考えや立場の人同士が議論するときは、互いに積極的な意見を出し合っているにもかかわらず、議論のマナーやルールが未熟なばかりに意見が押しつぶされてしまったり、提案者自身が自らの意見を諦め投げ出してしまう場面を幾度となく目にします。

そもそも、民主主義というのは、最も効率が悪く手間のかかるやり方なわけですから、本来、相当な根気を持って臨まなければならないものですが、そうした訓練自体、大人になるまで現代日本ではほとんどされていません。

そんな民主主義の原点が、どこにあるのかさえも見えなくなってしまったかのようなこの国の姿がいまあります。

 

 

実践を優先する民主主義へ

そんな折に他方で、そうした難しい現実を突破している例もあることを知りました。

初めから組織を相手にして物事を進めようとすると、必ず意見が分かれて、妥協点を探ると内容が薄められてしまったり、目的そのものを諦めざるをえなくなったり、さらには説得し続けるうちにこちら側の心が折れてしまう、などの場合がとても多いのものです。

そこで「行動派民主主義」とでもいうような「論証」よりも「実践」を重視する活動の世界があります。

より早く一歩を踏み出すことによってこそ道が開ける活動なので、ことを起こす前の段階で、それが正しいかどうかを深く議論することにはあまり労力は割くべきではないという考え方です。

この行動前の不確実な要素が多い段階で、賛否の議論をすれば当然、未知の領域を不安視する意見が出て否決されてしまうのがオチです。ところが競争環境の激しい先進企業多くの現場では、そこを早く踏み出さない限り、良い結果を出せないのも目に見えています。

そこで役員会議で議論をした時に多数決を取れば、あえて少数意見の側を取り入れた方が、競合相手に真似をされにくく優位に立てると、あえて多数側の意見を排除したり、大勢の議論よりもトップダウンの決定を優先したりする方が良い結果を出せるというわけです。
もちろん、この選択は楽な道ではありません。
でも、そもそもより多くの付加価値を求めるならば、あるいはより強い競争力を求めるならば、当然の選択でもあります。

この「実践」や「行動」を優先する民主主義でより重要になってくるのは、結果の検証です。仮説で走り出すことを優先しながらも、その結果や経緯を見て絶えず検証と修正を行う力が求められます。

ここが行政と民間の最大の違いだと思うのですが、行政はほとんど企画書が通れば、あるいは予算が通れば9割の仕事は完了かのようにみなされます。
十分な結果が得られなくても誰も責任を取らず、危機感を持って修正されることはほとんどありません。 

ところが民間の場合は、企画が通ろうが予算が通ろうが、その商品やサービスが売れなければ何のゴールにもならないのです。

予算執行率ではなくて、目標(売上げや利益)の達成度こそが全てなのです。

本来、そこは行政であろうが民間であろうが同じことのはずなのですが、そこにオーナー(出資者、納税者)がいないばかりに、「行政」は結果に責任を取りません。クオリティーを上げる努力をしてこそ結果が伴うのに、予算執行率にしか関心が向かないのです。

多くの事業が、企画が通り予算を獲得してからは、民間などに丸投げされるだけで、監査を受ける内容は不正な支出がなされていないかをチェックするレベルに留まっています。 

いまだに予算を使い切ることこそが最大目標になってしまっているのです。

いくら経費がかかろうが時間がかかろうが、売れるかどうかこそが最大目標である民間企業とは、天地の開きがあるにもかかわらず、私たちの税金がそのような論理で今も大真面目に使われ続けているのです。

理論上の正しいかどうかや、その考えが多数に支持されているかどうかよりも、様々な現実の壁にぶつかり、必要な結果に至ることがいかに難しいことかを前提にして課題に取り組むことこそがどれほど大事であるかということを、これからの時代は十分認識しなければなりません。

 

 

1%がもつリアルな力

さらに、この現状への疑問に一層心強い後押しをしてくれたのが、現実の「1%のリアルな力」の姿です。

私は小さい頃から転校を経験してきたこともあり、もともとマイノリティー、アウトサイダーであることが「自然な?」立ち位置かのように育ってきました。
そんなせいか、いかなる組織でも100対1くらいのアウェイの環境であることに、好んでいるわけではありませんが、私の側にはそれほど強い抵抗はなく育ったような気がします。 

何事も1対1の関係こそが基本で、複数といえども2人目、3人目こそが大事であることに変わりがないと思っています。またどんなことでも、物事を始めるときというのは、「自分一人でもやる」という最初の覚悟が基本であることにも変わりがないからです。

にもかかわらず、確かに現実は自分が多数を背景にしていないことで、多くの壁にぶつかります。

 

そんな折、一見数字のトリックかとも思いましたが、現実的な大きな気づきがありました。

それは、先の100対1の関係でばかり、自分が不利な立場であると思っていましたが、分母を100から1,000に変えると分子は10になります。

分母を1,000に変えると仲間は10人もいるのです。

これは私には多すぎるくらいです。

分母が1,000人になったとしても私には7人もいれば完璧なくらいの数です。
たとえ分母が1,000人になったとしても、3人から5人もいれば十分なのです。 

「七人の侍」とは、よくできたもので、芸や技術、才能を持った人間が七人も集まれば、最強の集団になるのです。

つまり、1%を100分の1と見るのではなく、1000分の10と見ると、
そこには十分すぎる仲間がいることになるのです。 

何か新しいことを始める時は、だいたいは二人目、三人目のこころ強い仲間が見つかれば十分なものです。

この二人目、三人目を探し出すことを抜きにして、安直に「多数」でなければ始められないと考えてしまうのは、とんでもない勘違いと言えないでしょうか。

多数になればなるほど、「覚悟」や「責任」から遠ざかってしまいように思えてなりません。 

 

得てして「良い」ことや「正しい」ことであれば、誰もが参加してあたりまえかの感がありますが、そこに責任者、覚悟をもった人が一人いるかどうかが、極めて重要です。

 

ただ、現実には、この一人でもやる覚悟や少人数でまず試してみる行動優先型の多くは、その後の検証が甘くなりがちなのも事実で、残念ながらしばしば「独裁」への道にもなってしまうものです。 

この100人にひとりの行動や、1000人に3〜7人の行動が、その他残りの圧倒的多数の人びとから最低限の許容を得られるかどうかは、実践プロセスの公開性やその後の検証、他人の意見も聞きながら行えるか、などにかかっているのですが、そこでまたみんなの意見を聞いていたら、また多数決型民主主義に戻ってしまいます。

どんなに少ないたった一人の存在であっても、10代で一人、20代でひとり・・・50代で一人、60代で一人の存在が集まったならば、それが4人でも7人でも、こんなに心強いことはありません。

また地元で一人、隣りの地域で一人といった存在がつながることでも十分です。

これは少数エリート主義の発想とも根本的に異なります。
エリート主義というのは、えてして学歴や肩書きなど、ひとつのモノサシだけで測られるものです。
それに対して、この1%の力というのは、100人に一人、1000人に十人、1万人に百人のそれぞれ異なる特徴や能力をもった人たちで構成される1%という意味です。
商店主であったり、美味しい野菜を作ってくれているおばあちゃんであったり、ペンションのオーナーであったり、陶芸家であったり、デザイナーであったり、一匹狼型の公務員であったり、料理人であったり、まさにバリエーションが豊富なことこそが命で、その物差しは多様であること以上に、まさに計り知れない幅を持ったものです。(このような意味で、自己紹介ではじめから上場企業に勤めていましたなどと言ってくる人は、地域では意外と使いものにならない場合が少なくありません。)

 

ここは、ざっくりとした結論で申しわけありませんが、 100対1というレベルの少数派とも言えないマイノリティは、決して弱者であったりマイノリティーだということなのではなく、そもそも民主主義の原点に返れば、その一人こそが民主主義の一番の出発点であるのだという「覚悟」が、基本であるということです。

その「覚悟」を持った一人に、もしも、同じ覚悟を持った二人目、三人目があらわれたならば、
こんなに幸せで心強いことはありません。 

万が一、それが七人でも集まろうものなら、映画ならずともそれは「出来すぎ」と言いたいほどです。

ものごとの道理からすれば、多数派を形成しなければ始められない、というのではなく、いかなる場合であっても、一人から始まり、一人ひとりによって構成されている「多数」なのだということです。

多数決型民主主義も必要であることに変わりありませんが、これからの時代はそれが全てではないということも理解していかなければならないと思います。

 

 

   一人、覚悟をした人間がいれば、

          それは過半数だ。

                           トム・ピータース

  

実際に1%の力が社会全体に与る影響力を実証しようとした事例があります。

それは、ビートルズにも影響を与えた宗教家、マハリシによって提唱された「超越瞑想」による社会実験です。
その社会実験は、「一つの都市で、人口の1%の人びとが超越瞑想を行うようになると、集合的無意識が浄化され、ポジティブになり、その都市での犯罪発生率が有意に低減する」というものです。

これは、マハリン国際大学によってアメリカの各地域で様々な実験が行われ、統計的に有意ないくつもの結果を得ることができ「マハリシ効果」と呼ばれているそうです。

調査たデータの精度の信憑性はわかりませんが、感覚的には十分納得できることです。

この場合の1%とは、都市レベルのことなので分母は少なくとも1万とか10万人になるので、100人とか1000人規模のことになります。この地域の1%程度の住民が、公共に対して主体的にかかわるレベルが上がるだけで、その地域全体が明るく活発な地域に見え、他の住民も幸せに感じられるようになるというのは、元気なコミュニティの姿として十分想像がつきます。 

 

 

 なくてもともと

    一人か二人いたらば秀

十人もいたらたっぷりすぎるくらいである

 

       茨木のり子「友人」

     『おんなのことば』(童話屋)

 

 

 

ちょっとうまくまとめきれないので、
ダイジェスト版を作りました。 


関連ページ 

多数派という意識こそが差別を生む

 

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人を非難したくなったら気をつけよう。

2013年10月01日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

能力はあってもお金がなくて報われない人。

能力も、財力もありながら、健康に恵まれない人。

能力も、財力も、健康も備わっていながら、人望のない人。

 

世の中、ほんとうに人それぞれですね。

 

誰もがみななんらかの欠点をかかえて生きている。

でも、立派な人を見ると、これらはすべて言い訳にすぎないことがわかる。

 

人は欠点があるからこそ、それをバネにして頑張っている。

 

ほとんどの人びとは、生涯をその努力の途上で終わる。

 

自然界では、働かないアリすら立派な役割がある。

人間界も、ほんとうは同じ原理で動いてるのだけど、

人間はそれを「言い訳け」として使うから間違った方向へ行ってしまう。

 

この時代、

家族4人かかえて頑張っているような人

あるいはシングルマザーで頑張っているような人の仕事の内容に

いろいろ問題があるからといって、

どうしてそれを非難することができるだろうか。

 

必要なのは非難ではなく

努力すべき方法や方向の提案だ。

 

それは、決して知識や能力のあるなしだけで決まるものではない。

 

それは、屍累々、乗り越えていく覚悟のある実践者

のみに見えてくるものだから。

 

 

 

 

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ガラガラポンに期待しない ~ふたたび~

2012年12月17日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

久しく記事をアップできずご無沙汰したおりました。

新しい仕事の立ち上げなどに追われ、こちらに気がまわらなくなっていました。

 

さて、今回の選挙は追い風でもないのに自民の圧勝という結果になりました。

小選挙区制の弊害が指摘されていますが、目指すべきよりよい結果というものがどのようなものなのかが明確に見えていなかったことも事実です。

アメリカの大統領選挙などでも、毎回、共和党保守勢力の底力の根深さには驚かされるのと同じように、震災後、脱原発や増税で景気は冷え込むなどの世論が大勢を占めているかのような風潮は、いくらそれが正しいとしても、そう簡単に全体が塗り替えられるものではありません。

以前このブログで「ガラガラポンに期待しない」http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/4cdbad6d7ac200e1f409a78968dbc2e0/fbといった記事を書きましたが、今改めてこのことを思います。

 

最近、ある公共図書館を軸とした住民主体によるデジタルアーカイブ計画の企画書を書き、そのあとがきとして、同様の趣旨の文を書き添えました。以下にその部分を転載してみます。

 

 

 

今日の日本や世界の政治的・経済的行き詰まり現象は、加速する高齢化社会に深刻な不安をもたらしています。もはや「不況」や「デフレ」といった言葉では括りきれない次元で、世の中の根底から社会構造や価値観が大きくかわりはじめているのを感じます。

このような時代には、どこかでガラガラポンを期待したり、強烈なリーダーシップを求めたりする声も高まりますが、私たちは既に何度も、過去には考えられなかった大きな変化=ガラガラポン(政権交代、大震災、原発事故など)を経験しています。にもかかわらず多くの人々が求めている大事なことは未だに変えられないのです。

この変えられない現実とは、これまでの歴史を振り返れば、今や誰かの責任ではなく、社会を構成する私たち自身の力不足にほかならないことを痛感させられます。

これからの時代、真に求められる私たちの力とは、なにかウルトラCの解決策を得ることではなく、それは私たち自身の力をひとつひとつ高めていくプロセスの中にこそあります。

そうした力になによりも役立つのが市民のための情報の共有環境です。ネット技術の進歩などにより、こうした情報の共有環境は劇的に整いはじめました。

今こそ市民自身の手で、結論を急がずに大事なものをひとつひとつ手に入れ、身につける環境が求められており、そうした活動に公共図書館を軸とした市民の情報共有環境の整備は何よりも大きな力を発揮するものと確信します。

                 (引用はここまで)

 

書店よりも公共図書館というものの役割が発達したアメリカでは、ホームレスや失業者にこそ、図書館は開放されるべきだとして、そうした人びとにこそ役立つサービスを公共図書館は果たすべきだと考え積極的に取り組んでいます。

日本では、いかにパブリックといえども、ホームレスの人が館内にいたら注意され追い出されかねない雰囲気ですが、世の中で最も困っている人々にこそ、情報が公開され活用されるべきだという発想です。

わたしたちは、問題が深刻で大きいからと、政治家のリーダーシップに期待したり、抜本的改革の提言を専門家に求めたりしますが、今のゆれうごく政治を見ていると、必要なのは、たとえ小さなことでも私たち自身が与えられた条件のなかで目の前の問題をひとつひとつ解決していく力です。

自分一人の力ではどうすることもできないから、誰か力のある人にお願いすることも必要ですが、誰かにお願いすること以上に自分のいま出来ること探すこと、あるいは自分の能力を高める一歩を踏み出すことです。

また誰かに協力をお願いするにしても、丸投げではなく、より具体的な提案の仕方や問題の絞り込みなどしっかりと練り上げてこそ、成果に結びつけることができるものです。

 

そのためには学校や図書館などが、これまでの文化教養の砦としてのイメージではなく、今そこにいる人、一人ひとりが直面している問題そのものを解決していくための学びの場であり、調べて考えていく場であることが求められています。

趣味のカルチャー講座や教室が盛んになることは決して悪いことではありませんが、それ以上に、失業した人びと、リストラにおびえる人びと、独立・起業を考えている人びと、経営難で悩んでいる人びと、老後の生活に不安を感じている人びとにこそ役立つ図書館や学校がなければならないと思います。あるいは硬直した組織をどう動かすか、話の通じない相手にどう伝えるか、自分の感情をどうコントロールするかといった問題です。

より本を売りたい立場として、公共図書館の地域での役割を考えるものとして、生きていくため、食べていくための学びの場こそ築きたいと思っている者として思うことは、自分自身のかかえているその「やっかいな問題」に立ち向かうことこそが「生きる力」であり、目の前の人がかかえているその「やっかいな問題」を一緒に考えることこそが、より高い「知恵」であるということです。

現代人は、えてして「学ぶ」ことを口実にして、あるいは「みんなと相談すること」を口実にして、目の前の自分の問題から逃げていないでしょうか。

市民の権利や民主主義を、なにか誰かに文句を言う権利かのように誤解してはいないでしょうか。

政治家や市民団体などを通じて、誰かに圧力をかけて動かすことではなく(もちろんそれも必要な場合もありますが)、わたしたち自身の力で、ひとつひとつの目の前の問題解決能力を高めていくことこそが求められているのではないかと思うのです。

経済の問題など難しくてわからないとも言われますが、まさにその「わからない」ことで「自分自身を放棄」する習慣こそやめなければなりません。

その「わからない」ことこそが知る権利、義務であり、専門家にまかせるのではなく、専門家にわかるまで聞き続ける力なのです。

一見、時間と手間はかかるようでも、わからない人をターゲットにした方が、学校も含めて社会の知力、真の学力は上がるものです。

 

こんなことを書いても、田舎の暇人の戯言にしかすぎませんが、こうしたスタンスで今の世の中をみると、いくらかでも世間を悲観することなく、自分がおかれた環境に感謝する気持ちにもなれるものです。

確かに私には太刀打ちできないような現実に満ちていますが、自分のできることでひとつひとつ成果が上がれば、これに勝る幸福感はありません。

世界がどうなろうが、日本がどうなろうが、この小さな田舎で生きて行く俺たちは、勝手に楽しく生きて行ける展望がある。

ひと昔前に比べたら、お金がなくても、組織に依存しなくても、個人ができることは飛躍的に増大しました。

わたしはようやく世界的に「人類の本史」に入ろうとしているのではないかと感じています。

繰り返しますが、「私はガラガラポンを期待しません」

ただひたすら最も面白い時代に自分が巡りあわせたことに感謝しています。

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ガラガラポンを期待しない

2012年08月17日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

世の中、国を問わず、性別や世代を問わず、さらには業種を問わず、おそらくまだまだ厳しい時代がつづくことと思います。

このような閉塞感がただよった時代には、「政界再編」などという言葉とともに、一度、世の中をガラガラポン(リセット)しなければだめだなどという風潮が高まってきます。もっと確たるリーダーシップが求められる時代であるとも言われます。だからこそ総選挙だ、などという言葉を聞くとわたしはとても虚しく思えてなりません。

確かにひとつの自治体や国のトップが変わるだけでも、これまで成しえなかった大きな変化が起きているのは事実です。でも、誰かに何かを期待するという発想そのものが、とても危険であるばかりか、結果は社会の進歩をもたらさないものだということも、もっとよく考えおくべきだと思います。

政治の問題に限らず、今の日本は、戦争でもおきなければもう変わらない。

いっそ隕石でも落っこちて、一度世の中をチャラにしてほしい。

などといった空気が蔓延しているのも感じます。

このような思いは、私自身もかつて思ったことがありました。
実は、つい最近、引越しなどの環境の変化もあってか、気力体力ともに喪失してしまい、最近では考えられなかったような自信喪失スランプに陥っていました。そんなときは、どうしても自力では突破口が見えなくなっているので、いっそもう一度首都直下大地震でもおきて、日本をチャラにしてもらえないものだろうか、などと考えてしまうものです。

この間、自分自身がそのような情況に追い込まれてよくわかりました。
といっても、不調のどん底にいるときにはなかなかそうした発想から抜け出せないこともよくわかったのですが・・・

ガラガラポンへの期待、
戦争でも起きなければ世の中変わらない・・・などなど

ほんとうに、そう思うほど世の中閉塞感に満ちていることは確かです。

でもよく思い出してほしい。

わたし達は、すでにそうした大変化、ガラガラポンを既に何度も経験しています。

政権交代?
政界再編?
未曾有の大災害?

どれももう起きていることではないですか。
経験していることではないでしょうか。

十分に!

にもかかわらず変えられなかった私達の力の弱さがあるということの方を
もっともっとよく見据えなければいけないのです。

いや、それは我われの責任ではなく、上の連中が悪い?

いや、もっと大きな変化が起これば、みんな目が覚める?

ひょっとしたらそうかもしれません。

でも、もう一度よく考えてみてほしい。

もっと大きな何かが起これば、それは保証されることなのでしょうか。

真に変わることを求めるのならば、目先の変化を求めてしまうほど
後で大きな代償を払うことになるということも私たちは学んでいるはずです。

「他の何か」に期待するということ
もっと冷静に見なければいけません。

必要なもの、大事なことは
「誰か」の「他の力」ではなく
「私たち」の力なのです。


自分自身、元気なときによく言っていたことを思い出す。

会社であろうが、地域であろうが、国家であろうが、
その1構成員である自分は、肩書きにかかわりなく
自分のかかわるその問題に対して常に「全権」を持っている。

それこそが「一票」なのだ、
などとは申しわけありませんがあまり思っていません。

もちろん、その「一票」が大事でることに異論はありませんが、たとえその「一票」を持たない、すべての社会的権利を喪失した立場であったとしても、「生きている個人」であるならば、自分がどうするかということに関しては、常に「全権」持っているという原則のことです。

誰もがスーパーマンになる努力をしなければいけないということではありません。

いやならやめる、
自分に力が無ければ助けを呼ぶ、協力を求める。

こういったレベルのことです。

自分に必要な次の一手は、いかなる場合でも自分が握っているのです。

「それぞれの国民はその国民に適合しその国民にふさわしい体制(国家)を有する」
といったようなことをヘーゲルが言ってましたが、一部の人からこれは、不合理な体制を否定する権利をヘーゲルは見落としているなどとも言われました。

しかしここでヘーゲルの言っている論点は、国民に不合理な体制であったとしても、国民自身がそれを変えられない限り、そこにはまだなんらかの「合理性」が存在しているという点にこそ核心があるのだと思います。

弁証法議論に深入りする力は私にありませんが、閉塞感に満ちた情況から脱する手がかりというのは、難しい問題ではなく、自分に出来る次の一歩、一手をどう見極めるか、目の前のひとりにどう対処するかにこそすべてかかっているのだということです。

ほとんどの場合、すべての問題を解決する力は誰も持っていませんが、目の前のひとつの問題に集中さえできれば、多くの他の残っている困難な問題は、難問ではなくなるものです。

もちろんこれで日本が変えられるわけではありませんが、世界を変えるほどの自信がここから湧き出てくることは確かです。ひとりひとりが、自分の目の前のひとつの問題に集中することなく、国家や社会の問題が解決することは決して幸せな結末をもたらすものではないとうことを強く感じます。

マスコミに登場する人たちが、ガラガラポンを大いに議論してくれることは必要なことで、私も期待しています。楽しく見させていただいてます。

でも、私自身は決してガラガラポンには期待しません。

急激な変化や、特定の個人の力に依存した変化は、すぐに揺り戻しが起きて元に戻ってしまうからです。

 

 

次の本も、きっとこのようなことが書いてあるに違いない。

ヒーローを待っていても世界は変わらない
湯浅 誠
朝日新聞出版

 

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アジテーターとオルガナイザー

2010年12月12日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

以前どこかで読んだことです。
昔の左翼用語のイメージでとらえられがちな表現ですが、
「アジテーター」と「オルガナイザー」という言葉があります。
このふたつを区別する説明で、以下のようなうまい表現で説明されていたのを記憶しています。

アジテーターというのは、ひとつのことを10人の人に伝える仕事をする人。
オルガナイザーというのは、10のことをひとりの人に伝える仕事をする人。
というのです。

なるほどと思ったものです。
私たち本屋の仕事は、まさにこのふたつの方法をそれぞれ行うことが大事です。

あくまでもものごと原則は、1対1。
ハート・トゥ・ハートが基本ですが、それだけではビジネスになりません。
運動の輪も広がりません。

ただ有象無象のたくさんの本をいろいろな人に売るということではなく、
10人の人に伝えたいようなすばらしい1冊の本を見つけ出し、それを伝えること。

あるいは1冊の本の魅力が、10人に伝わるような売り方をすること、それが大事です。

本との出会いなど、まさにパーソナルなものです。
ひとりひとり、まさに千差万別の出会いによって成り立っているもので、私たちの仕事はそうした出会いに個別に対応していくことが求められています。
しかし、それをより多くの人にサービスとして提供して、ビジネスとしてそれが成り立つようにするには、ひとつひとつの出会いを個別の体験にとどまらせることなく、なんらかの仕組みづくりをすることが必要です。

それが、このオルガナイザーとアジテーターのふたつの方法論です。

特定のひとりのお客さんのためにすすめられる本を10冊選びだすこと。
児童書に興味のあるお客さん、
自己啓発書に関心の強いお客さん、
仏教関係に興味のあるお客さん、
海外のミステリー小説を読みあさるお客さん、
特に専門はないけれど強い読書意欲を持っているお客さん、
                          ・・・等など

あらゆる分野の顧客に対応することなど、普通の人間に出来ることではありませんが、店の一部のヘビーユーザー数人のこうした需要に応えること、またそうした見方をしながら日々の商品をみていること、お客さんをみていることが大切です。

うちのB型のパートさんは、こうしたことを実によくやってくれています。

時々、こんな本がよく売れたものだと驚くようなことがあります。
またこんな本いったいどんな人が買ってくれたんだろうと思うこともあります。
その本は、確かに2冊目が売れるようなことはまずあり得ない特殊な本かもしれません。
しかし、その本を買ったお客さんがどんな人かがわかると、その本の次に仕入れるべき1冊の本が見えてきたりします。

 ひとりのお客さんの指向やリクエストから10冊の本を導きだすこともありますが、
1冊の特殊な本を買ってくれたお客さの顔と名前を知ることで、それに続く10冊の本を見つけ出すこともあります。

 1冊の本を、文化として見るためにも、商品として見るためにも、このように
1冊の本を10人につたえるしくみづくり、
ひとりのお客さんに10冊の本を薦めるしくみづくりは
とても大事なことなので、日々心がけて、ブログやホームページ、メールマガジン、チラシニュース、POPなどで訓練し続けることが求められます。

現実には、1冊の本を10人の人へでなくとも、3人くらいの人の顔を想い浮かべるだけでも
日々そうした訓練が出来れば十分だと思います。
普通の相手であれば、ひとりの人へ薦められる3冊くらいの本を思い浮かべるだけでも、十分だと思います。

ただ「良い本」売るということではなく、売るためのこうした「エンジン」を持つことが、ビジネスとしてはとても大事なことです。

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経済と自治の基礎単位

2009年10月04日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

以前、社会の基礎単位のこととしてブログに書いた内容ですが、大事な基礎数字の意味を最近の同業者の集まりで再認識したので、もう一度整理してみます。

日本中どこへ行っても、郊外の幹線沿いは良く知れた屋号の看板が並び、他方、中心地では衰退した街中商店街が細々と営業をしている姿をみます。

たまには例外的に元気な商店街をみたい、ナショナルチェーン以外の看板の並ぶ道路を走ってみたいと思っても、すでにその望みはほとんど断たれてしまっていると断言しても差し支えないほどにまでなってしまいました。

今どき、衰退した商店街でいくら頑張っても、顧客の絶対数が足りないのだからどうすることもできないかの嘆き声が聞こえてきます。

しかし、わたしはその考え方、発想は、根本から改めなければならないと感じています。

いついかなる業種であっても、そこにお客が来なくなったのは、規模の問題でも、立地の問題でもない。そこに「競争力のある商品とサービス」が無かったからであると。

今では、その「競争力のある商品とサービス」がなければ、たとえ全盛を誇った郊外店であっても、巨大ショッピングセンターであっても、たちまちに衰退してゴーストタウンと化す時代なのです。

「顧客のために」という言葉のもとに生まれる新しいサービスは、古いものを駆逐し、やがて自らも駆逐され、次々と新しい廃墟を生みだしていきます。

そこには、必ず新しい希望に満ちた街ができるといわれながら、その一方でこれまでに作られ続けた廃墟の量に私たちはようやく気づきはじめました。

はたして、市場はどれだけ拡大してきたのでしょうか?

私たちは企業経営の側からの市場規模拡大の論理に、あまりにも引きずられてしまっていないでしょうか。

以下に紹介する数字は、そんなことを考え直してみるためのものです。

それは、


1億 → 2万 → 5,000 → 1,000 → 200 → 40 → 2~8 


という数字の流れのことです。

この話だけでも詳しく説明しているとかなり長くなってしまうので、今回は、この考えの軸になっている

1億 → 2万 

という部分に限定して書くことにします。

1億というのは、日本の人口のことです。正確には1億何全万かなのですが、
乳幼児や一部高齢者など市場に影響のない(実際にはそんなことはないのですが)人々を除いて、わかりやすい数字としておよそ1億人を基礎数字としました。

次の2万というのは、書店、もしくは小売その他の営業所数のことです。

一番わかりやすい業種で、コンビニの店舗数が全国でおよそ5万店といわれます。
どこに行っても頻繁にわたしたちが目にする業種です。

それよりも多いのが歯医者さん。
全国に7万人もいるそうです。
他の医療に比べると、ほぼ医者の数が診療所の数と一致します。

ところが、この歯医者をさらに上回る業種があるのを知って驚きました。
それは、お寺です。全国に約7万5千あるそうです。
一部、廃寺同然のものもあるにしても、神社に比べたらはるかに専業の坊さんのいる事業体としてきちんと成り立っています。

他方、わたしたちの書店業界をみるとピーク時には2万3千あまりもあったものが、今では1万6千店ほどにまで減ってしまいました。
なんと6千店以上、約4分の1といっても良いほどの数が減っています。

さらに少ない業種としては、最近話題になっている産婦人科があります。
産婦人科や眼科などとなると1万人レベルになってしまいます。

日ごろまわりでちょっと探すのが難しくなる業種というのが、この1万人代の数字になるのです。

これらの数字をみて、私たちの業界、書店を振り返るととても実感としてもわかると思いますが、
全国で2万を切ると、ちょっとした田舎になるとその業種がない地域が出てくるということです。

わたしのまわりでも、もう住んでいる街にはコンビニ以外本屋はないという地域が少なからず出ています。

こうした実感から、2万という数字が、全国どこへ行っても身近に存在するかどうかのボーダーラインであると思って差し支えないのではないかと思うのです。

これを前提に考えると、

1億 ÷ 2万 = 5,000

という数式ができます。

もちろん、都市部と山村部では人口密度におおきな違いがありますが、
大雑把にみれば、業種を問わずひとつの店が対象とする市場の基礎単位は
5000人であるとみて間違いないのではないかと思うのです。

なにも高齢化社会対策に限らず、人が地域で健康で文化的な暮らし、安心して暮らせる環境をつくるには、
人が歩いていける範囲内(半径600m以内)で生活に必要なすべてのことが満たされる社会というのが、
これからの社会を考えた場合、国や地域を問わず求められる基本思想であると私は私は考え考えています。(参照:アワニー原則)

この半径600m以内という目安とともに、大事なのが5000人規模ということです。
もちろんこれには、地域によってかなりの幅をもたせて良い数字であると思いますが、全国平均で考えるとこれはかなり妥当な数字になっていることと思います。

平成の大合併などの発想ではなく、本来の住民自治を考えるならば、あらゆるコミュニティーの基礎単位として、このくらいの規模をベースに地域社会を組み立てることがこれからの時代、とても大事なことであると考えられるのです。

現実には、どんな業種でも5000人すべてが顧客になるわけではないので、
この内の2割、つまり1,000人程度の顧客を対象にしてビジネスが成り立たないといけないと考えることが、理想の地域社会のイメージのなかでは重要になります。

今の常識からすると、それではやっていけそうにないと感じるかもしれませんが、
かつての日本社会では、決してこの数字は高いレベルではなく、あたりまえの数字でした。
いえ世界の大半では、ヨーロッパも含めて5000人規模の市場の1,000人の顧客というのは、
普通の事業規模で考える数字であると思います。

むしろ、大事なのは、5000人規模の市場で成り立たない、やっていけない業種というのは、市場規模が小さいからやっていけないのではなく、その地域の5000人の需要にそこの商品やサービスの質が応えきれていないと考えることの方が重要になってくることです。
ここが大事です。

5,000人規模の市場で1,000人レベルの顧客の需要にきちんと応えられないビジネスが地域で生き残れないのであり、規模や立地の問題は、短期的な影響は大きいものがありますが、長期的に地域に生き残っているお店をみれば、なによりも大事なのは地域の要望に応える「競争力のある商品とサービス」の開発であることに例外はないことがわかります。

新規客を増やすことよりも、今わたしたちにわたしたに求められているのは、1000人の顧客の不満を解消し、その需要にきちんと応えることです。
その能力がないまま、企画やイベント、あるいは値引きポイントで新しい客を増やしても、それが優良常連客になることはありません。

たしかに業界の問題、地域や行政の問題などもたくさんありますが、まず、自分自身の問題としてこのことをしっかりとおさえることが、なによりも重要なのではないかと思うのです。




次回に、この1000人の顧客の実質部分といえる2割、つまる200人のコアの顧客をしっかりと捕まえる店づくりの考え方として北海道の岩田書店さんのやっている顧客カルテのことや、顧客情報と結びついたPOSのことなどについて書くことにします。

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「行政」にとらわれない「社会」の基礎単位

2009年08月09日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

社会の基礎単位」というと、まず第一に思いつくのが「家族」です。

このことは過去に書いているので繰り返しませんが、大自然においても、人間社会においても、
環境保護や社会の経済発展云々の前に、
根底の考え方は、「生命の再生産」というべき構造の維持にこそ基本はあるとわたしは思っています。

子供を産んで育てることを基本とした生命の営みこそが、自然においても
人間社会においても、まず第一の条件であり、同時にこれこそが究極の目標でもあります。

「豊かな社会」については、精神面、物質面それぞれ様々な語り方があります。
しかし、より根源的にものごとを考えれば、この「生命の再生産」の構造こそ
なににも増して基調に考えられなければならないものと思うのです。

今回はこのことについて書くのがメインではなく、
その「家族」という基礎単位の次にくる「社会の基礎単位」についてです。

今、国や地域社会を考えるにあたって、地方分権がしきりに叫ばれています。
政権交代が現実味を持ち出したことから、その勢いも加速し、
道州制なども決して遠い先の目標でもなく思えてきました。

しかし、私にはこれらの議論は、どちらかというと以前から二次的な問題としてしか考えていません。
どれも行政上の問題としてばかり見え、地方分権をめぐる議論ですら、「自治」の核心からは、
まだ遠い議論にしか見えないからです。

何度でも言いますが、今の「地方自治体」のほとんどの実態は、
「地方行政体」といったほうが相応しい、「自治」ではなく「行政」の論議に終始しており、
平成の大合併に見られるように、小さいから合併する、力が弱いから大きいものに頼る発想ばかりで、
本来の力が無いからこそ、弱いものが助け合い、知恵を出す本来の自治ではおよそないからです。

こうした視点からは、現在騒がれている「地方分権」の議論ですら、
まだ総務省の手の上での議論にしかわたしには見えません。

さらには、ほとんどの問題の根底で言われる財政難など、大半は「行政ミス」の問題で、
そのミスの責任を取ろうともしないまま、住民に更なる負担のおねだりまでしている限り、
「自治」の力を発揮するにはほど遠い現状といえるでしょう。

これらのことは、また書き出すとまたきりがないので端折ります。

社会の基礎単位の問題を考えるとき、
先に指摘した「家族」がその一番最初にくることに異論はないかと思いますが、
その次にくるべきものは、今の行政上の「地方自治体」では、本来の自治や
住みやすい地域コミュニティに至ることは難しいのではないかと感じるのです。

では、戦時中の隣組制度や町内会のようなものが良いかといったら、そうしたものでもありません。

「行政」ではない、「自治」とは、
まず「より小さく」こそが基本原理であることを再度確認したうえで、
また「自治」とは、住民政治の基礎単位であるだけでなく、
地域経済の基礎単位でもあるべきこと、
さらにお互いの顔が見える規模の、限りなく全員参加に近い組織であること、
などをもう一度確認して話を進めたいのです。

そうした視点で私がなによりも頼りにしているのは「アワニー原則」と呼ばれる考え方です。

内橋克人さんの簡潔な表現にたよれば、
「人が歩いていける範囲(半径600mくらい)で、生活に必要なすべてのことができる街づくり」
といったことです。

アワニー原則の全文を見ると、なかなか面倒なことになりますが、上記の簡潔な表現で、
およそのことは表現され尽くしています。

スモールシティやコンパクトシティとかいわれるのも同類の表現ですが、
こちらの方がより根本的なことを表現しているので誤解も少ないと思います。

行政の単位をどうする、道路をどのようにひくかの問題ではなくて、
誰もが歩いていける範囲内に、まず学校があり、病院があり、八百屋があり、肉屋があり、
行政窓口があり、本屋!があるということです。

もちろん、半径600mというのは、ひとつの目安の表現で、都市部と郊外や山間部などでは
かなり条件が異なるのはいうまでもありません。

ところが、こうした小さいコミュニティの単位となると、その商圏内の人口だけで、はたして病院が、
スーパーが、、本屋がその経営を成り立たせることが出来るのかといった問題が出てきます。

前書きが長くなりましたが、平成の大合併の問題にもつながるのですが
ここが今回の話のポイントです。

「より小さく」というと、すぐに
やっていけない自治体、食っていけない商売、の話が出てきます。

ここからは、かなりざっくりと書かせていただきますが、
60年代、70年代頃までは、日本中どこでも個人経営の零細商店が地域をささえているのが普通の光景でした。
それが80年代を過ぎてから、コンビ二が全国に普及しだし、やがて郊外にロードサイド型の大型店が次々に出店しだし、
どこの商店街も例外なく、衰退の道をたどってきました。
さらに、今では、その郊外店ですら、次々に出来る大型ショッピングセンターに淘汰されています。
この流れは、まだとどまりません。
既にアメリカで始まっている現実ですが、
巨大ショッピングセンター同士の競争の果てに、郊外に巨大ゴーストタウンが次々と生まれているのです。
まもなく日本でもおきることでしょう。

これは常に「消費者のために」の結果だったのですが、この2,30年の間におきたことから
そろそろ何かを学んでもよいのではないでしょうか。

私は今、全国に見られる衰退しきった商店街のなかで、運良く仕事をさせていただいている者ですが、
常に衰退してきた店は、郊外店が悪い、大型店が悪いと人のせいにしてきました。
しかし、今、次々と淘汰されていく大型店をみると、衰退していったお店というのは
規模や立地の問題ではなく、
「そこに競争力のある商品やサービスが無かった」からにつきるのだと思います。

確かに、相対的には常に規模や立地の問題は、大きくのしかかります。
でもどんな条件でも生き残っているビジネスを見れば答えは明快です。

その上で、もう一度、大型化しなければ生き残れないという呪縛から脱することの意味を考えて欲しいのです。
業種によっては、必要なアイテムを充実させるために一定度の大型化が間違いなく功を奏するかにみえ、
そうした選択もあっても良いとは思います。
しかし、ほとんどの例は、「規模か小さいから」という言い訳が、
ビジネスの目的を喪失したうわべの判断にしかすぎなかったことはわかるのではないでしょうか。

最近、興味深い数字を見ました。

日本全国にあるコンビニの数。
約5万店だそうです。

一昔前、4万店と言われたのがあれよあれよと5万の数になってしまいました。
もう飽和状態で限界だと言われますが、これもビジネスを知っている人なら、そんなことはない、と言います。

私たちがどこでも目にすることができるコンビニですが、
そのコンビニよりもさらに多いことに気づかれていない業種がありました。
お寺です。
なんとその数、全国に7万以上。
しかも神社に比べたら、お寺というのは住職のいない建物だけのところというのはとても少ないものです。
宗教法人は楽だからといいたいのではありません。
あれだけ飽和状態と思えるコンビニをはるかに上回る密度で、業態が成立しているということです。

コンビニの飽和を上回る業種は他にもあります。
歯医者さんです。
こちらも全国に7万5千からの数がいらっしゃる。
一回の治療で何回も通わなければならない上手いビジネスですが、競争が厳しいといわれながらも
本屋ほどはつぶれていません。

そういう本屋の数は、一昔前には全国に2万3千店ほどあるといわれていたのが、10年ほどの間に
1万6千店ほどにまで減少してしまいました。

先ほどの歯医者さんの例からみると、同じお医者さんでも
眼科などはぐっと少なく約1万2千人。
さらにこのところ不足が指摘されている産婦人科医ともなると
全国に1万人程度!

およその数字のイメージはつかめたでしょうか。
全国で5万を超えると、かなり頻繁に目にする業種ですが、
1万程度まで少なくなった業種は、町を歩いていても、ちょっと探すのに苦労をします。
(今、私のやっている本屋はそのレベルに向かいつつあります。)

いろいろな業種、業態があるわけですから何事も一口にはいえませんが、
これらの数字から、どこへ行ってもそこそこにあるといえるレベルの業種としては、
やはり2万程度がボーダーラインのように思えます。

そこからこんな計算が思い浮かびます。
日本の人口を約1億(人口減少をシビアに見込み、業種によっては全人口を対象にできないものも多いので)とみて、
それを全国平均分布のボーダーライン2万で割ると、
5,000という数字が出てきます。

1億 ÷ 2万  = 5,000

これが、社会の基礎単位を考える私のもうひとつの目安の数字です。

「人が歩いていける範囲で生活に必要なすべてのことが出来る社会」をつくるには、
この五千人くらいの商圏人口のなかで多くのビジネスが成り立っていくことが大事です。

5千という数字をビジネスで大きく感じるか、小さく感じるか、もちろん業態によって様々だと思いますが、
顧客の実数ではなく、商圏人口ととらえるならば、この数字はかなり密度の濃いビジネスを前提にしていることになると思います。
現実にはおよそ5,000人といっても、場所によって1,000から1万くらいまでの幅は考えられますが、
その平均的な位置としての5,000人というのは、とても説得力があるように思えました。

5,000人の商圏人口は、およそ2000世帯程度の商圏ともいえます。
これも都会と田舎では、比較にならないほどの開きがありますが、
地域コミュニティの単位として考えると、先ほどの半径600m以内といった表現とあわせて
大事な指標になります。

地域で5,000人、2000世帯くらいを対象にしたビジネスとなると、
10年、20年も続ければ、かなり密な顧客との関係を結ぶことになると思います。
それよりも、これからの時代、川上から流れてくるメーカーの代理人としてのビジネスが通用しなくなり、
顧客の代理人にいかに徹するかが求められる時代になってきただけに、
この2000世帯の顧客の需要をつかむビジネスこそが、これからの王道であると感じます。

世界中で暮らす地域の人びとが、安心して暮らせる社会というのは、
同じ「規模のビジネス」といっても、こうした「より大きく」ではなく
「より適切な小さい規模」でそれぞれが自立した経済こそが必要なのではないかと思うのです。

5000人の商圏でビジネスが成り立たない、と思ったときは、
他の問題点を指摘するよりはまず「そこに競争力のある商品やサービスがないから」
と考えた方が間違いないのではないでしょうか。

そうしたビジネス環境と一体になることで、地域コミュニティの質というものもさらに高くなり、
そのコミュニティを「自治」「政治」「経済」「文化」の基礎単位とすることができれば、
相乗効果をともなって真に強い地域づくりが可能になるのではないでしょうか。

今の選挙でこんな話はどの政党からも聞こえてきませんが、
現行の行政区分にとらわれない、本来の「自治」の可能な地域社会、
お互いの顔の見える「信頼」の地域づくりの視点が、とても大事になってきていると思います。

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現実味を増す全員参加型直接民主主義

2008年04月23日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

前回、多数決原理の問題について書きましたが、その問題解決のひとつの手段として
代議制の否定としての直接民主主義の形態がうかんできます。

戦後民主主義の代表として多数決原理と代議制は不可分の関係で続いてきましたが、
代議制については、その多くの投票率の低さの問題だけではなく
民意の公正な反映方法としても最近では疑問がなげかけられるようになってきています。

構成員全員の民意を反映するには、小グループごとの総括を経て集約される方法こそが
現実的な方法であるとされますが、
集約化されない個々の民意というものの再評価が、今注目されだしています。

これまでの民主主義発展の主な原動力は
封建制に代表される圧制に対抗する手段として、
民衆の力を結集する側面に力点があったともいえます。

そこでは確かに代議制はとても有効な手段であったと思います。

それにたいして、時代の進歩とともに民衆の力や、個人の表現力が豊かになってくるにつれて、
民主の圧制に対する抵抗手段としてばかりでなく、
民衆自身の様々な要求の表現手段として、ひとつの相手に対する表現だけでなく
様々な相手に様々な要求を出すことが増えてきました。

こうした傾向が強まってくると
全体を限りなく集約、総括することよりも
個々のナマの声を具体的に伝えることの意義が見直されてきます。

しかし、いかに小さなコミュニティーといえども
数千人から何十万人もの声を直接伝えることは、確かに現実的とはいえませんでした。

ところが、インターネット技術の進歩などにともない
コストや手間をかけずに簡単なアンケートは選択枝から選ぶような表現が容易にできるようになったばかりでなく、テレビ会議などの技術はどんどん進化しています。

わたしはこのことに、ただちに直接民主主義への移行の条件をみることよりも、
現行の代議制民主主義の魅力と機能が、急速に衰えだすのを感じるのです。

代議制で一生懸命議論を尽くしている隣で
様々な具体的個々の意見が観られるようになり、
集約、総括を超えた思考、論理の飛躍が日常にみられるようになるのです。

必至になって情報公開、市民の傍聴をよびかける議会のとなりで、
それよりずっとスピーディーで面白いブログやフリーペーパーが飛びかうのです。

また、議員へ陳情のお願いをしている横で、
首長にダイレクトにメールで意見がとどき、
逆に市民ひとりひとりが何を考え、なにを望んでいるのかも見ることができるのです。

政治の世界でこうした変化がこれからどれだけ急速にすすむかどうかはわかりませんが、
ビジネスの領域では、すでに10年以上(もう20年くらいになるか?)前に
「リエンジニアリング革命」として中間管理職を除いたフラットな組織づくりとして浸透しました。
今では、組織内の問題にとどまらず、最前線の顧客情報をダイレクトにトップに伝えるシステムとして
さらに進化しています。

もちろん、企業のシステムと政治のシステムを同列に扱うことはできませんが、
中間集約を経ずにダイレクトにナマの声をトップに伝えることが、
決して不可能なことではなく、情報過多で混乱することもなく
よりリアルな真実の情報を得る手段として有効なことはすでに立証されていると思います。

そしてこの手法には、もうひとつ民主主義の大事なこと
全員の民意の内訳は、
大人から子供まですべての人々、
所得や地位に左右されないすべての人々、
能力や資質にも左右されないすべての人々
によってなされるものということが、体現されていることです。

進歩した時代の活きた社会では、
「優秀な」人に一任される決定よりも
それを構成するすべての人々によってなされる決定の方がより「正しい」決定に至れる。


こんな話をしていたら、
ある人から、そんなことできるわけない、
それこそ収拾がつかなくなるのではないかと言われました。
それももっともなことです。

しかし、誤解してほしくないのは、
すべての事項をこうした直接民主主義のスタイルで行う必要はないということです。
全体にかかわるより大事な問題だけを
集中的にすべてのひとをその討議に参加させ、議論を尽くすことこそが大事なのです。

それは、その結果出される結論が正しいかどうかという問題以上に、
その決定に自分がちゃんと関与しているという意識がそだつことが重要であり、
さらには、その参加意識が、さらに決定の遂行状況を見守るということにまで高まることこそが重要なのです。

議会で審議延長、時間切れ、強行採決といった失望の連続を日々見ていますが、
1年に一度、いや数年に一度だけでも大事な問題について
全員参加で長期にわたって議論を尽くすことができたら、
ことの結果以上に、人々の意識は大きく変わるものであると思います。

今から30年以上前になるでしょうか、
宮崎県の綾町の郷田実・前町長は、自治公民館運動として
照葉樹林の町を守る運動を軸に全住民を巻き込んだ論議を何年にもわたって続けているのです。

大事な問題こそ、期限切れ強行採決ではなく
必要なひとはすべて巻き込んで議論を尽くすことがとても大事なことだと思います。

全員参加型直接民主主義は
決して空論夢物語ではなく、
現実的で民主主義の本来の姿からは王道としての手法であることが
これらのことから少しでも伝わるでしょうか。




  正林堂店長の雑記帖 2008/3/4(火) より転載

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遅れた民主主義制度=「多数決」原理

2008年04月23日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

昨日のmixiのほうの日記でふざけ半分ながら
>多数決できめたろか
と、私らしくない言葉をつかって反省しておりましたところ、
そしたら早速、別な方からも多数決反対の書込みがあったので、
これも一揆の性格にもかかわる問題なので(またこじつけ?)
「多数決」原理のことについてちょっと書いておきたいと思います。

私たちは、戦後民主主義の教育のなかで多数決こそ
もっとも民主的な意思決定のルールであるかのような教育を受けてきました。

しかし、今、現実に多数決原理を意思決定の手段として使っている組織を見ると、
それは民主主義のルールとしては機能していない例の方がとても多く目立つように見えます。

その代表例が議会。
30~40%程度の投票率で選ばれた議員が、
49対51で決定した事項に正当性などどれだけあるといえるのだろうか。
それでも、限られた時間内でものごとを進めるには
これがベストの方法であると・・・。

しかし、伸びている企業や組織を見ればみるほど、
現実では多数決などほとんど使っていない。
役員会を多数決で決めているような会社ほど、むしろ伸び悩んでいる会社である場合が多い。

決して多数決原理のすべてが悪いというわけではありませんが、
現実の「多数決」を見ていると、私には

まず第一に
「多数の意見を少数に押し付ける」原理。

第二に
「多数派の決定側が誰も責任を取らなくて済ませる」原理。

に見えてなりません。

多数の言っていることの方が「正しい」という根拠はどこにあるのだろうか。
いや、私が一番強調したいのは、
その多数が正しいかどうかは、決定的な理由があるわけではないにもかかわらず
一度多数決で決まったことに対してなにも検証せず、
仮に間違っていた場合でも
誰も責任を取らない、
ということが問題なのではないかということです。

立派な業績を上げている企業や組織の意思決定を見れば見るほど、
多数の意見に従うということは、
イコール、付加価値が減ること、
もしくは競争力がなくなる決定に近づく
ことを意味しています。

それは、単に少数の意見を採用するということが良いのではなく
その少数の考えをリスクを背負ってやり遂げることの出来る責任者を据えることが
なによりも肝心なことなのです。

未来の問題、経験のない問題ほど、
いくら調査や議論を尽くしても、決定的に正しい道などそう簡単に出せるものではありません。
それよりも、より早く実践に移りその決定を「仮説」と位置づけ
行動しながら検証を続けたほうが、確実により多くのものを得られる。

これに対して、現行の「多数決」原理だと
その決定を絶対視してしまうことが多く、修正や改善を重ねてより良いものに近づける努力を怠る傾向がとても強い。
さらに、多数の決定であることが、その決定の責任者を明確にしない根拠とされることも多く、責任を取らないための言い訳システムになっている場合が多い。



前のブログで書いた映画「明日への遺言」(原作 大岡昇平『ながい旅』)
今夜、これから観てきますが、主演の藤田まことは、こんな経験もあったと話してます。

劇団での興行でいくら頑張っても、まったくお客の入らない芝居があった。
それで座長をつとめる藤田まことは、劇団員にこれからどうするかいろいろ相談を持ちかけたところ、大先輩のひとからこう注意されたそうです。

おい藤田、今回の興行は、どう考えても負け戦だぞ。
それをおまえは、わかっているのか?
勝ち戦のときは、みんなでその勝利を分けあえばいい。
しかし、負け戦のときは違うぞ。
それをみんなに分けてはいかん。
そのときは責任者がひとり背負って、団員たちが再起できる環境で
送り出してやらなければならない。
それが責任者の仕事だ。
それがおまえにはわかるか。


正確ではありませんが、およそそんなようなことを話していました。

またちょと話がずれたかもしれませんが
そうした責任を背負う覚悟があってはじめて、成功も失敗も活きてくるものだと思います。

そして、そこの責任とは、
そもそも多数に依存するものではありません。

数でものごとを測ったり決めたりする論理には
ことごとく抵抗を感じる私ですが、
だんだん世の中も個々の成功例から、多数決原理にまさる
ひとりひとりの行動があるのだということが広まりだしているのを感じます。




   正林堂店長の雑記帖 2008/3/1(土)より転載

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