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いま、そのとき、かんがえつつあること。

自閉症が わからない。人間像をぶちこわせ。

2008-02-12 | 障害学
自閉症について あれこれ かんがえているんですけど、よく わかりません。自分で みていること、感じていること。そして、本に かいてあるようなこと。

わたしは だれを自閉症というワクで とらえていて、だれは とらえていないのか。そして、それは なぜか。

自閉症という用語は へんなもので、あまりにも誤解をまねきやすい表現だと感じる。自閉症は孤立する性格のもちぬしってことじゃないのにね。コミュニケーションが すきなひとが ほとんどだし、ただそのコミュニケーションが奇妙にみえるというだけ。その奇妙にみえるというのも100人の自閉者と1年でも2年でも1週間でも いっしょにいれば、たんなる「ふつー」に かわってしまう性質のものですよ。

自閉症といっても100人いれば100人 みんな ちがう。あたりまえだけどさ。

わからないことを、わからないままに、わかろうとしながら、それでも わからないという状態を、ただ、うけいれるということが、なにより大事だと おもう。

わからないことを不安がらず、否定せず、わからないからこそ すてきだと おもえるようにしたい。

わたしは医者じゃない。心理屋さんでもない。わたしはただ、関係したいだけなのだ。自閉症が わからなくて、なにが こまるのでしょう。

だから、自閉症が わからないのでは なくて、「そのひと」が わからないのです。具体的な、ひとりひとりが わからないのです。厳密に いうと、「わからないということ」が どういうことなのかが わからないのです。

人間が わからない。そうとも いえるんでしょうね。けれど、人間という総体をイメージするのは まだ はやいんじゃないかしら?「人間」なんて どこに いるんですか。人間こそ、想像上の幻想にすぎませんよ。家族的類似による「人間」の ぼやけたイメージをもっていて、そのイメージに そっている ひとを人間だと認識するのでしょう。だから、さきに「人間という総体」を想定してはいけないのだと おもいます。

坂口安吾(さかぐち・あんご)は、「歴史」とは自分がうまれてから死ぬまでの間のことだと いいました。だから、人間とは、「わたしが関係した ひと」のことにすぎないのではないでしょうか。わたしが死んでも人間は存在します。それは もちろん そうでしょう。けれども、そういう「人間」と、いま現にわたしが関係している人間とは、ちがったものですよ。

具体的な人間に、定義など いりません。そのかたち、そのすがた。それだけで十分じゃない? これは、なきそうになりながら、ねがうように かいているのです。なきそうなのは、いま きいてる音楽が かなしいからです。音楽にアジられて、わたしは感傷的になっているのです。

けれども みなさん、きいてください。こころで よんでください。

もう一度かきます。「そのかたち、そのすがた」。それだけで十分じゃないですか。

具体的な人間。「そのひと」と「わたし」との関係性。わたしは、ただ、あなたと関係するのです。


はだかになろう。人間像をぶちこわしましょう。

「ただの人間」なんて、どこにも いやしねんだ。からだをもった、体温をもった、かたちのある、具体的な、そういうホンモノしか存在しないんだ。

体温を無視した時点で、わすれた時点で、わたしたちは、具体的な人間を、かんたんに ころしてしまえるようになるのです。死刑囚の体温を、はかってください、おねがいします。「体温計で」じゃありません。あなたの手を、死刑囚のわきに、はさんでみてください。

やっと わかった。わたしは、医者じゃないんだ。たったひとりの人間で、たった それだけのことで、それだけのことだからこそ、わたしは わたしが だいすきで、わたしは あなたを愛しています。