坂口安吾(さかぐち・あんご)は、「親があっても、子は育つ」といった。どういうことか。
太宰治(だざい・おさむ)の自殺を批判した「不良少年とキリスト」から引用しよう。
安吾は、死ぬまぎわに こどもが できて、たいそう よろこび、親ばかっぷりを発揮していたようだ。
「戦争論」というエッセイでは、安吾は家族制度について、つぎのように批判している。
安吾は、「私は思うに、最後の理想としては、子供は国家が育つべきものだ」と結論づけている。
この主張が ずっと わたしのこころをとらえてきた。それでたとえば、森巣 博(もりす・ひろし)の こそだて論をよむと、安吾的なものを感じてうれしくなってしまうのだ。モリスの『無境界家族』集英社文庫のことである。
モリスは、「子供に説教をするという行為そのものがわたしにはできなかった」という(9ページ)。また、「「親」という、わかったようなわからないような権威のみを持ち出し、息子に対して「偉そーに」説教することなどわたしにはできない」という(11ページ)。つぎのような一節は、親に、人間に、反省をせまるようなところがある。
この『無境界家族』をよんだのは、何年かまえのことになるが、最近になって、またひとつ、いい本をみつけた。紹介したい。
武田信子(たけだ・のぶこ)『社会で子どもを育てる-子育て支援都市トロントの発想』平凡社新書だ。この本をかったときは、ひさしぶりに興奮しながら本をよんだ。ソーシャルワークという職業について、わたしが まったく無知だったからでもある。ともかく、よい本だと おもう。機会があれば、よんでみてほしい。
いやさ、この本をよんで、「やめなさい」とか、そういうことを連呼してしまうのは、日本のせまい居住空間ってのも背景としてあるよなあと あらためて実感させられたのでした。それにしても、「やめなさい」と「したいことだけをしなさい。やりたくないことはやらなくてもよろしい」というのは、なんという ちがいだろうか。
※ちなみに、熱心な安吾の読者だった野坂昭如(のさか・あきゆき)に『親はあっても子は育つ』という講談社文庫がある。どこに しまったっけな。
太宰治(だざい・おさむ)の自殺を批判した「不良少年とキリスト」から引用しよう。
親がなくとも、子が育つ。ウソです。なんという ぼろくそな いいようだろうか。わたしは、この一節を引用したことの罪により、いろんなひとからイジメられそうである。
親があっても、子が育つんだ。親なんて、バカな奴が、人間づらして、親づらして、腹がふくれて、にわかに慌てて、親らしくなりやがったできそこないが、動物とも人間ともつかない変テコリンな憐れみをかけて、陰にこもって子供を育てやがる。親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ。
安吾は、死ぬまぎわに こどもが できて、たいそう よろこび、親ばかっぷりを発揮していたようだ。
「戦争論」というエッセイでは、安吾は家族制度について、つぎのように批判している。
両親とその子供によってつくられている家の形態は、全世界の生活の地盤として極めて強く根を張っており、それに反逆することは、平和な生活をみだすものとして、罪悪視され、現に姦通罪の如き実罪をも構成していた。「誰の子でもない、人間の子供」というフレーズが、わたしは とても気にいっている。
私は、然し、家の制度の合理性を疑っているのである。
家の制度があるために、人間は非常にバカになり、時には蒙昧な動物にすらなり、しかもそれを人倫と称し、本能の美とよんでいる。自分の子供のためには犠牲になるが、他人の子供のためには犠牲にならない。それを人情と称している。かかる本能や、人情が、果して真実のものであろうか。…中略…
家は人間をゆがめていると私は思う。誰の子でもない、人間の子供。その正しさ、ひろさ、あたたかさは、家の子供にはないものである。
人間は、家の制度を失うことによって、現在までの秩序は失うけれども、それ以上の秩序を、わがものとすると私は信じているのだ。
安吾は、「私は思うに、最後の理想としては、子供は国家が育つべきものだ」と結論づけている。
この主張が ずっと わたしのこころをとらえてきた。それでたとえば、森巣 博(もりす・ひろし)の こそだて論をよむと、安吾的なものを感じてうれしくなってしまうのだ。モリスの『無境界家族』集英社文庫のことである。
モリスは、「子供に説教をするという行為そのものがわたしにはできなかった」という(9ページ)。また、「「親」という、わかったようなわからないような権威のみを持ち出し、息子に対して「偉そーに」説教することなどわたしにはできない」という(11ページ)。つぎのような一節は、親に、人間に、反省をせまるようなところがある。
自らを無辜(むこ)の位置に置くから、じつは説教というものが成立している。すなわち、他者の矛盾や不義や粗相を指摘、糾弾することによって、自分があたかもその矛盾、不義、粗相からまぬがれていると見なす想定があるからこそ、説教ができるのではなかろうか。なんとも あっぱれなことだと おもう。そして、なんとも すがすがしい。
わたしは、その悪から、まぬがれていない。矛盾や不義や粗相だらけの人間なのである。したがって、不登校であろうが何だろうが、わたしは息子に説教をというものができなかった。
——したいことだけをしなさい。やりたくないことはやらなくてもよろしい。
無責任なようだが、これを息子への教育方針とした(12-13ページ)。
この『無境界家族』をよんだのは、何年かまえのことになるが、最近になって、またひとつ、いい本をみつけた。紹介したい。
武田信子(たけだ・のぶこ)『社会で子どもを育てる-子育て支援都市トロントの発想』平凡社新書だ。この本をかったときは、ひさしぶりに興奮しながら本をよんだ。ソーシャルワークという職業について、わたしが まったく無知だったからでもある。ともかく、よい本だと おもう。機会があれば、よんでみてほしい。
いやさ、この本をよんで、「やめなさい」とか、そういうことを連呼してしまうのは、日本のせまい居住空間ってのも背景としてあるよなあと あらためて実感させられたのでした。それにしても、「やめなさい」と「したいことだけをしなさい。やりたくないことはやらなくてもよろしい」というのは、なんという ちがいだろうか。
※ちなみに、熱心な安吾の読者だった野坂昭如(のさか・あきゆき)に『親はあっても子は育つ』という講談社文庫がある。どこに しまったっけな。
「きょーいんが おっても がくせーわ そだつ」
てのと おなじね。えー ことばだ。
おやも、きょーいんも、いちばん だいじな しごとわ
こどもに いらん ちょっかい ださんこと、と。
てつだいお こわれたら、てつだう、と。
じつわ むずかしーんやけど。この スタンス。
いらんこと いろいろ してしまうのよね。
おやも きょーいんも。
あれこれ いわれてたら、そんなに ゆんだったら、おまえが わたしの じんせー いきろって いいたくなっちゃうだろーね。それわ だれにも できないのに。