「hituziのブログじゃがー」

それでは みなさま、hituziのブログ 無料体験コースを よんでくださり、ありがとうございました。ほんのすこしでも、なにか つたわったことがあれば、ひびくものが あったとすれば、すくわれる おもいが します。

「無料体験コース」というのには、いまのところ、ふたつの意味があります。

ひとつは もちろん、わたしがブログを やってみる、というものです。

もうひとつは、わたしなりの日本語のかきかたを かいてみる、よんでもらってみるということでした。あんまり漢字を つかわずに かいていることは、わかっていただけたかと おもいます。


まだデザインの こまかい修正を していくと おもいますが、このブログは「hituziのブログじゃがー」に移転しました。


いままで、ありがとう。そして、これからも よろしく。
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[ブログ移転します] とりあえず、コメントを とじました。

グーブログ(gooブログ)は、あんまり つかえないと おもっていたので、このブログは、移転します。

はてなダイアリーを 候補にしています。

で、移転さきは『hituziのブログじゃがー』になります。


このコメントをとじたのは、コメントするのに いちいち画像認証なんてのをしないといけなくなってしまったので。数字が かいてある画像が でてきて、この数字をうちこめ、そしたらコメントさせてやるって、あれですよ。そんな機能は いりませんからー。

コメントを くださるかたは、記事のアドレスとコメント内容をメールで おくってくださいまし。abeyasusi@gmail.comに おねがいします。トラックバックは、とじてないので、よろしくおねがいします。
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「当事者意識」

わたしのはてなブックマークを みてください。いろいろ興味ぶかい記事やページにリンクしています。

どれもこれも、よんでみる価値が あるものばかりです。


そのなかでも、さっき みつけた記事は、最高に すばらしい内容です。

臨床してて思うこと(精神科)というブログの、「うさんくさいやつら」という記事です。

この記事に かいてある内容を、わすれないようにしたいと おもいました。


自分の問題として。
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もうすぐ できるのかな

ふんぎりが つかない。これで いいんだろうかと、だれに きくわけでもなく、ただ、とほうに くれる。

わかるわけが ない。「これで いいんだろうか」だなんて、ああ、そんなことは なやまなくても いいんだろうよ。

はきださないことには、「どんなふうに うけとられるか」なんて、わからないんだから。

はきだしてみることで、やっと わかることがある。


でもさ。うまく、じょうずに はきだしたいのよ。それは、わかってもらえるはず。ああ。わかってもらいたい。けれども、そういうことを こえて、「わたしは、なにを いいたいのか」。それを こだわらなくっちゃね。

わたしなりの「ものの みかた」を、えがいてみせなくては。


ああ、ひどいもんです。だって、「まだ かきかけです」とは いえないんだから。でも、「とりあえずとして」なら、いえるだろうよ。

そういうものとして、はきだしても、それは じゅうぶんに、いいでしょうよ。

あしたまでに、ぜんぶ だす。こまかい てなおしは するでしょう。けど、あしたまでに、とりあえず、ぜんぶ おくることにする。
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権力者は、バカであることから にげることができる

mojimojiさんのバカ論議によせて、ちょっと おもったことを かいておきます(バカへの信を問う - モジモジ君の日記。みたいな。)。

権力者は、「バカであること」から にげることができる。なぜなら、権力者であるから(笑)。いや、じょうだんでなしに、そういうもんですよ。

まえに「才能って なんだ」って文章をかきましたけどね、けっきょくさ、才能にせよ、能力にせよ、権力をにぎっていることで、確保できるものです。

時間やお金に余裕があればこそ、いろんなことを いうことができる。ただ「いう」のでなしに、「論じる」ことができる。

『理解のおくれの本質』という著書もある村瀬学(むらせ・まなぶ)は、2006年に『自閉症-これまでの見解に異議あり』ちくま新書で、つぎのように主張している。
 文明の中では、私たちは例外なく「おくれる存在」なのである。障害があろうがなかろうが、そんなことには関係なく、私たちは「おくれる存在」なのである。私たちの「前」に文明がある以上、私たちはそれにつねに「おくれ」まいとしてきているのだが、すでに後から「文明世界」に入るものとして、私たちは本質的に「世界」からは「おくれ」ているのである。…中略…
…世界の中に「おくれる人」と、「おくれない人」がいるなどと考えるのは馬鹿げている。「おくれない人」がいるというのは、「いる」のではなく、「いる」ように見せかけているだけで、そういうふうに見せかける権力機構の中で「おくれていないように見せる位置」をキープされているだけにすぎない。…中略…一見すると「世界」の最先端をすすんでいて、「おくれ」とは無縁のように見えている人たちがいるが、彼らもりっぱに「おくれ」ているのである。ただそれを隠して、自分は誰よりもすすんでいるんだと見せかける術(権力的な位置)をもっているにすぎない(224-225ページ)。
「バカじゃない人」というのも、そういうふうに「見せかけているだけ」なんですよね。

関連する記事:「おのみちで「読書」をかんがえる」
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新刊紹介『調査されるという迷惑―フィールドに出る前に読んでおく本』

おもわず拍手しました。

宮本常一(みやもと・つねいち)/安渓遊地(あんけい・ゆうじ)『調査されるという迷惑―フィールドに出る前に読んでおく本』みずのわ出版

宮本さんの文章は、「調査地被害――される側のさまざまな迷惑」だけで、あとは、あんけいさんの文章。序章が「宮本常一先生にいただいた言葉」ですから、その敬意が うかがえます。

もくじを はりつけておきますね。

はじめに(安渓)
序章  宮本常一先生にいただいた言葉(安渓)
第一章 調査地被害――される側のさまざまな迷惑(宮本)
第二章 される側の声――聞き書き・調査地被害(安渓)
第三章 「バカセなら毎年何十人もくるぞ」(安渓)
第四章 フィールドでの「濃いかかわり」とその落とし穴(安渓)
第五章 種子島にて・屋久島からの手紙(安渓)
第六章 まぼろしの物々交換を知夫里島に求めて(安渓)
第七章 「研究成果の還元」はどこまで可能か(安渓)
引用文献
初出一覧
索引(フィールドでの指針として)


ああ、こうやって まとめられると、圧倒的ですね。

あんけいさんこそが、わたしに「シチメンチョウ(七面鳥)は すごかった」という経験をえるチャンスをくれたひとです。


こんなに すばらしい本が、税こみで1050円で出版されて、ほんとうに うれしい。

リンク:安渓遊地(あんけい・ゆうじ)さんのウェブサイト
リンク:みずのわ出版
リンク:みずのわ編集室(はてなダイアリー)
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本を かいました

デヴィッド・グレーバー『アナーキスト人類学のための断章』。いい本ですね。ほんとうに。

森政稔(もり・まさとし)『変貌する民主主義』ちくま新書。いいテーマですよね。森さんの文章は すきです。

竹内章郎(たけうち・あきろう)『新自由主義の嘘』。「能力の共同性を考えよう」ということが かいてあります。じっくり よみます。

笹原宏之(ささはら・ひろゆき)『訓読みのはなし—漢字文化圏の中の日本語』光文社新書。

永野潤(ながの・じゅん)『図解雑学 サルトル』ナツメ社。わーーい。おかやま大学の生協でゲット。まだサルトルが かいた本は いっさつも よんでないし、もっていない。

サルトルも よみたいが、辻潤(つじ・じゅん)も よみたいな。

ジャン・ジグレール『世界の半分が飢えるのはなぜ?』。まえから よみたかったので。

『ケアという思想2』岩波書店。やっぱり自分の仕事について かいてある本は、関心をもって よみますね。


うほ! くるりのライブのDVD、もー でてんじゃん!
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要するに、いきたいように いきろ

あーあ。ベジタリアニズムのはなしは、しばらく うちどめ。やめた。


要するに、いきたいように いきれば いいよ。


でも、それをみいだすのは、それほど かんたんなことではないだろう。そこが肝心なところだ。

わたしは、どのように いきたいのか。いろんなことを かんがえつつ、んーーーっと なやみながら、こたえをだす。こたえが でないまま いきる。

なにが なんだか わからない。ほんとうに そうだよ。坂口安吾(さかぐち・あんご)は、
「続堕落論」で「まず裸になり、とらわれたるタブーをすて、己の真実の声をもとめよ」と のべている。「己の真実の声」というものが はたして あるもんだろうかとも おもうが、いいたいことは わかる。わかるけれども、それが なしがたいことであるということも想像できる。だから、安吾も「我々のなしうることは、ただ、少しずつよくなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしかあり得ない」とする。「人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない」からである。そんなものだろう。(自己犠牲よりはエゴイズムを
これをかいたのは2年まえだが、いまでも そう おもっている。

「まず裸になる」ということは、かんたんなことじゃない。

「とらわれたるタブーをすてる」ことも、かんたんじゃない。

「己の真実の声をもとめる」ことも、なにが なんだか わからない。


わかりませんよ。わかりますか。
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ベジタリアニズムは、思想にもとづく生活実践

タカマサさんにトラックバックをいただいたので、一点だけ おかえし。

資源消費という次元でくらべれば、農産物/畜産物/魚介類は連続体である - タカマサのきまぐれ時評2
■問題はだね。こういった問題をかんがえるために、「ベジタリアニズム(vegetarianism)」といった思潮群をもちだす必要があるかだ。■はっきりいってないとおもう。「動物性たんぱく質消費の政治経済学」とでもいうべき問題群は、「ベジタリアニズム」といった理念・実践とは別個になりたつし、せいぜい健康問題について参考になる程度じゃないか?
ベジタリアニズムは、なんらかの根拠にもとづく生活実践ですよね。たんに思想にとどまるものではない。わたしは、問題をかんがえるだけで満足したいのではなく、問題に とりくみたいわけです。ご承知のとおりね。
政治経済学的な貧困問題、格差問題、収奪問題として、「肉食」の個々の是非をとえばよく、そこに、地理学・民族学・歴史宅・社会学等による食文化の歴史問題を参考程度にからめればすむだろう。
それこそ、ベジタリアニズムだと おもうのですが。

それがベジタリアニズムでなければ、「政治経済学的に肉食をとう」という作業は、なんというものでしょうか。

わかった。

「肉食の政治経済学」ですね? わかります。そして、そこに とどまることなく、「環境の政治経済学」に つきすすむわけですね? すっごく いいと おもいます。

わたしには、あんまり じょうずにできそうにないですが、ものすごく賛同します。
あ、タカマサさんの記事に「動物性たんぱく質消費の政治経済学」って明確に かいてあった。ともかく、わたしが いいたかったのは、いま現に「動物性たんぱく質消費の政治経済学」をやっているのは、まさにベジタリアンです、ということ。
わたしはベジタリアンなんですから、ベジタリアンがベジタリアニズムをかたるのは、当然というか、そうなるほかはないものです。「もちだす必要があるか」と いわれたら、ちょっと(笑)。
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責任とか、うえから目線とか

おもしろい記事を紹介します。ニセ科学批判は いいけど、その やりかたをかんがえようよという内容だと おもう。

十字軍はバカに勝てるか - モジモジ君の日記。みたいな。

この記事に、わたしははてなブックマークで「観客席に いこうとしてませんか。/そんなことはない。んだろうけど。/"バカと向き合いながら暮らす覚悟を"というのは、やさしいようにみえて、神様やろうだよ。十字軍の上から、おまえもバカ、あいつらもバカって」とコメントしたのですが、どうにも いごこちが わるいです。

わたしがmojimojiさんにたいして感じたのは、ニセ科学批判を自分の課題として、ひきうけたら いいんじゃないかなあということです。mojimojiさんも、自分なりにニセ科学批判をしているわけでしょうし。自分と きりはなす必要はない。

で、自分は どういうふうにやるのか、その やりかたを提示すればいい。


ともかく、mojimojiさんの問題提起を、「こういう視点もある」というふうに うけとめるなら、なるほどなあと納得ができるものです。もちろん、いや、この点に関しては異論があるよ、と意見をなげかけることも、もちろん あるでしょう。ともかく、ひとつの視点を提示するものとして、うけとめるようにしたいなあと、あとになって おもいます。

じっさい、mojimojiさんは この記事でニセ科学の批判を「自分は どういうふうにやるのか、その やりかたを提示」している。で、自分は自分、他人は他人と つきはなすのではなく、かかわろうとしている。とてもじゃないけど、「うえから目線」ではない。


わたしが かいていることだって、ほかのひとが かいていることだって、ある視点を提示するものでしょう。

どのような視点にたつか。どのような方向に議論をすすめるか。

どのような議論であれ、ある視点や方向性を提示する議論は、たし算の論理で とらえる必要があるのではないでしょうか。

ある論点が だされたとき、だれかが「それだけじゃ解決にならないよ」ということがあります。

「それだけじゃ解決にならない」というのは、「論点の総体」、「かんぺきな議論」をもとめる視点に たっています。

もちろん、その論点をだしているひとが、これが こたえだ! これで かんぺきだ!と いっているなら、それは批判されても しかたないかもしれません。

けれども、ある視点、ある論点をだしているだけなのであれば、それは ありがたいことであって、感謝してしかるべきなのではないだろうか(わたしは感謝されなくても いいけど)。そんなふうに おもいました。


「うえから目線」の議論を批判することは、けっこう ありますよね。わたしも、している気がします。けど、どうなんでしょうか。

結局のところは、「いま、この社会をかたちづくっている社会の一員である以上、どのようなことにも それぞれに責任がある」ということを、きちんと意識することが必要なのではないでしょうか。そして、それさえ意識されていれば、あとは、なにをどんなふうに いおうとも、全然かまわないのではないでしょうか。

うえから目線だという批判は、なるべくしないようにしようかな、と おもうような、おもわないような、よく わからない地点に わたしは います。

自分の問題として かたっていないようにみえる議論でも、それについて見解をのべているという時点で、そのひとは社会の一員として責任をひきうけている。そのように かんがえるなら、だれも、問題を自分から きりはなしてなんか、いないのではないか。


いま、わたしは、自問自答として、この文章をかいています。それを公開することによって、ある視点を提示しています。その時点で、わたしは どのような問題からも きりはなすことのできない、責任をおびた個人であるのでしょう。


………。程度のひくい作文のように自分で感じますが、わたしが かんがえうることは この程度なので、「きょうは こんなことを感じました」という文章として、みなさまに公開します。
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新刊紹介 ましこ・ひでのり『幻想としての人種/民族/国民』

三元社から、ましこさんの新刊が でています。

『幻想としての人種/民族/国民-「日本人という自画像」の知的水脈』

160ページで1600円。たぶん、明確で わかりやすく かいてあるだろうと おもう。けど、かんたんには むきあえない本であったりするのかもしれない。こういった議論に なれていない ひとには。けど、そういう ひとにとって、「むきあうのは むずかしいけど、わかりやすい」本だったら、すごく いいなあ。


じっさいに よんでみたら、紹介文をかきます。
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メールひとつで元気になった

やっぱり、メールって いいね。

ブログは、てさぐりだから。はごたえが ないから。ブログも いいけどさ。


自分が かいていることに、まったく自信が もてなくなるとき、そっとメールで肯定されると、ほんとうに ほっとする。

観客席に いるのひとのことなんか、もう気にしない。なにをいわれても、もう気にしない。こちらに おりてこないなら、むきあうことは できない。

おりてきて、むきあうならば、いろんなことが いえる。かたりあえる。


もう、「神様やろう」のこえは、きかないことにした。幻聴は、無視して いいんだ。

批判をさきどりしなくて いいんだ。
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畜産物と農産物は、質的に ちがうものだ

「わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ」という記事で、一見さんに「「人間は誰もが選択的に食事をしている。ベジタリアンもその一に過ぎない。」という主張は正しいと思いますが」というコメントをもらいました。

タカマサさんは、トラックバックの記事で(「「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」というのは正論だとはおもうが…」)で、「「ベジタリアニズムは人間集団に普遍的で、むしろ これから完全に自由な存在はほとんどかんがえられない」というべきだとおもうんだね。」とコメントされています。

あと、コメント欄では、
■ただ、「ベジタリアンである程度が、それぞれ ちがう」という論理は、食文化の連続性をのべただけで、性差などとならんで、思想的に一見ラディカリズムにみえても、現実の政治性には全然影響力をもちえないかもしれないような予感がする。■はっきり境界線があるって信じている層にとっては衝撃的でも、そういった虚構にきづいている層にとっては、「みんな、それぞれ恣意的に肉食タブーをかかえている」っていう、現実的次元では、ほとんど政治性をもちえない結論と同義になりかねないからね。
というコメントや、
「みんな自由放題に肉食できているわけではなく、無自覚なタブーにとらわれている」っていう、実に正論な人類学的総括は、結果的に、「みんな人類おんなじだ」という、きわめて非政治的なメッセージと大差なくなり、逆説的に、ものすごい政治性を発揮しかねないという、不安がぬぐえないね。
というコメントをもらいました。

ここで、フレーズをならべてみたいと おもいます。
「人間は誰もが選択的に食事をしている。ベジタリアンもその一に過ぎない。」

「ベジタリアニズムは人間集団に普遍的で、むしろ これから完全に自由な存在はほとんどかんがえられない」

「みんな、それぞれ恣意的に肉食タブーをかかえている」

「みんな自由放題に肉食できているわけではなく、無自覚なタブーにとらわれている」
どれにしても、どうでも いいはなしですよね。わたしが いいたいことが、こんなことであるなら。この程度のレベルであるなら。

こんな どうでもいいことを、わたしは いちいち論じたり、あれこれ放言したりはしません。
こんなふうに解釈されてしまったという意味で、わたしは 頭が わるいのでしょう。もうちょっと、きちんと つたえていくようにしたいと おもいます。


わたしが いいたいのは、「あなたもベジタリアンになれる」ということです。そして、すでにベジタリアンであるひとが、「なんちゃってベジタリアン」とか「エセベジタリアン」と自嘲的に自称する必要なんかないということです(「なぜ「ただのベジタリアン」には なれないのか」)。

つぎのタカマサさんのコメントは、ほんとうに そのとおりだと おもいます。
■だって、言語体系の連続性=非連続性と同様、微細な差異の蓄積による決定的な断絶とか、微細な差異自体が、ものすごい政治性をおびてきたのだから。■「よくみれば、みんな大差ない」という普遍的総括は、徹底的にラディカルに追及されればいいが、中途半端におわったときに、逆に最悪の差別化装置に転化しかねない。
どういう意味でか?


「資源を消費するという意味では、農産物も畜産物も、みんな大差ない」


こういう発想を、わたしは ぶっこわしたいのです。


スーパーに いってみましょう。いろんな商品がありますね。野菜もあれば、肉もある。どれも値段が ついてますね。そうです。野菜も肉も商品です。どちらにしたって、「たべもの」という点で おなじです。

そうです。そういう発想で、わたしたちの日常は なりたっています。農産物と畜産物のあいだに、質的断絶をみいださずにいます。これが、わたしたちの「たべるということ」の、いびつな政治性です。

『世界の水危機、日本の水問題』というサイトの畜産と工業製品とバーチャルウォーターのところに ご注目ください。

バーチャルウォーターとは、仮想水と訳されます。ウィキペディア - 仮想水をご覧ください。「仮想水(かそうすい、virtual water)とは、農産物の生産に要した水の量を、農産物の輸出入に伴って売買されていると捉えたものである。ヴァーチャル・ウォーターともいう。世界的に水不足が深刻な問題となる中で、潜在的な問題をはらんでいるものとして仮想水の移動の不均衡が指摘されるようになってきた。」とあります。

ここで、「農産物」とあるのは、仮想水の議論の一部であって、工業製品や畜産物の生産に要した水の量も ふくみます。

ウィキペディア - 肉食には、
牧畜は、大量の資源を消費する。特に、直接間接を問わず水資源の消費が膨大である。例えば、小麦を1キロつくるには2トンの水が必要で、10キロの小麦から1キロの牛肉が採取できるため、牛肉1キロを生産するには20トンもの水を使用している。
と説明されています。

これは、常識的なはなしのはずです。あれだけ おおきな動物をたべるのですから、それだけの資源を消費することくらい、だれだって、おりこみずみでしょう。「そんなの しってるよ」という声が きこえてきそうです。

それでいて、それでもウシをたべるんですから、おそろしい、いびつな社会だと おもうのです。現代人の生活というのは、ほんとうに、なにに注目してみても、おそろしいものです。


ベジタリアンも肉をたべると いいましたけど、「ニワトリとかは たべないけど、ウシだけは たべるベジタリアン」というのは、あんまり いないと おもいます。

なぜって、農産物と畜産物のあいだにある断絶を意識しているからです。けっして、それを連続体とは、みなさないからです。


草をむしるようには、動物をころせないというベジタリアン。

あるいは、大量に資源を消費してしまう肉食には、制限をおきたいというベジタリアン。


どちらでも いいです。そういうベジタリアンに、なりましょうよ。

「ウシは たべない」だけでも十分です。ベジタリアンするのは、「たまに」でも いいです。「なるべく」でも、「なんちゃって」でもいいです。

農産物と畜産物を同列に とらえるのは、もう やめましょうよ。


これを いうためにでなくて、どうして、「人間とは、肉をたべるベジタリアンのことだ」とか「わたしたちは、わたしも あなたもベジタリアンだ」とかって いう必要があるでしょうか。
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わらって ころそう、ニワトリを!

高校生のとき、ある教員が矢ガモ(矢がささったカモが報道されて、「かわいそう」だと注目をあびていた)をさして、「あんなの かわいそうでも なんでもない。冷蔵庫みてみろ。死体置き場じゃないか」って いってました。だよねーと おもいました。


かんがえてみてください。

目の前に、いきたニワトリが います。さあ、ころして、たべようじゃありませんか。


そのときに、「命に感謝して」とか「ごめんなさい」とか、そういうことを いうのは やめましょうよ。

毎日さ、わらって肉をたべてるんだから、わらって ころしましょうよ。ほんと。たのしいから。これは、あてつけで いってんじゃないの。


だって、肉たべるの すきでしょう? わたしは、うほ!肉が くえる!って興奮しながら ころしますよ。わらいながらね。

いざ ころすときになって、気まずい気分になるなら、あなたは肉なんて、たいして すきじゃないんですよ。

いや、そんなことない。肉は おいしい。あなたは そう おもったに ちがいありません。ちがったら、ごめんなさいね。

けどね。だってさ。毎日さ、肉をたべててさ、「命に感謝して」とか「ごめんなさい」とか おもってないでしょ? そんなもんで いいよ。しょせんは、動物でしょ。たかが動物ですよ。

これは、皮肉では ありません。

だって、毎日たべてるじゃないですか。たかが動物だから、たべてるわけでしょ?


「ほんとうに、ごめんなさい。ご冥福をおいのりします。」とか、感じたことある? ないよ(笑)。しょせんは、動物なんですよ。


これを、ひどいはなしだなんて おもわなくて いいんですよ。


そーゆーもんだよねー。って、納得できるはなしじゃないですか。

ちがいますか? かわいそうだから肉をたべないってのは、わたしの趣味じゃない。
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なぜ「ただのベジタリアン」には なれないのか

みなさん、グーグルの時間です。検索の時間です。

「ニセベジタリアン」

「エセベジタリアン」

「なんちゃってベジタリアン」

「菜食趣味」

「ちょっとだけベジタリアン」

そんなこと、いわなくて いいのに。ただのベジタリアンなのに。なんで、自分で「なんちゃって」とか、「ニセ」とか「エセ」とか いわなくちゃ いけないのでしょうね。

『わたし、菜食と出会う』という本がでているようなのですが。本の説明が。

「友人の離反、家族の反対。それでも菜食に踏み切った人々の、真の目的は何か。菜食で生きる道を模索する人々の、自己に厳しく地球にやさしい体験集。」


「それでも菜食に踏み切った」と いわせるほどのことなんですね。この社会では。


リンク:「肉食 - ウィキペディア - 肉食と環境・食料問題」

牧畜は、大量の資源を消費する。特に、直接間接を問わず水資源の消費が膨大である。例えば、小麦を1キロつくるには2トンの水が必要で、10キロの小麦から1キロの牛肉が採取できるため、牛肉1キロを生産するには20トンもの水を使用している。

実際に大規模な畜産業が発達しているアメリカでは牛肉を大量生産するために地下水を大量に使用している。オガララ帯水層はこの牛肉生産を支えるための穀物生産により急激に水位が低下している。このように肉食は環境破壊へつながる場合がある。また他国から食肉を輸入する国は、すなわち水資源を輸入しているのと同じことになるため関連がある(仮想水)。

一方、先述の様に肉を得るにはその10倍の重量の穀物が必要であり、単純に考えて肉食は直接穀物を食べるのに比べて1/10の数の人間しか養えない事になる。特に欧米の大規模畜産による穀物の大量消費は食糧問題の観点からも問題になっている。

つけたし。

「なるべくベジタリアン」

いいね。けど、「なるべくベジタリアン」だって、ただのベジタリアンだよね。ま、ともかく まえむきだから、いいと おもいます。

「ゆるベジ」

そうそう。ゆるベジも あったね。これも ただのベジタリアンなんだけどさ。
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