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いま、そのとき、かんがえつつあること。

鳥もものジャスミン茶やき

2005-10-31 | 料理
おおきな鳥ももがあったので、まるごと やくことにした。

鳥ももをビニール袋にいれて、酒、塩こしょう、乾燥バジルをすこし、ジャスミン茶のはっぱをいれて、全体にまぶして よく もんでおく。しばらくしてから、フライパンで油で表面をやく。白ねぎをすこし。それをオーブンで やく。皿にもって、も一度こしょうを。これだけでも、うまーーー。

まぁ、肉料理は やきかげんがイノチですね…。むずかしいや。

おまけ:まかないで つくったクリームソース。→バターと生クリーム、肉汁、塩、すこしだけトマトソース。なかなか濃厚でうまい。

グーグル:「ジャスミン茶風味」 / 「ジャスミン茶 料理」

『火葬場の立地』

2005-10-29 | ほん
人が死ぬ。のこされた周囲の人は、とむらいの儀式をする。人の死を個人的なものとして とらえるなら、とむらいは周囲の人だけのものであり、部外者に対しては排他的な儀式であるといえる。けれども、当然のことながら人が死んだときに とりはからわれる作業は社会のシステムによって とりおこなわれている。

人の死を宗教的な視点からだけ とらえるのは一面的だろう。死体は、処理の対象でもあるのだ。「鳥葬の今」という記事があるので よんでみてほしい。「野生のハゲタカが遺体を食べなくなる現象が広がっている」とは、なんとも現代的ではないか。死体は「処理」の対象であり、鳥葬においては、死体は(ハゲタカの)「食料」でもある。

うえにリンクした記事は、「死体」が現代的な環境問題に密接にかかわっていることをおしえてくれる。

チャットでそんな話をしていると、いくつか本を紹介していただいた。『葬儀の歴史』『死者たちの中世』。この2冊もなかなか おもしろそうなのだけど、なんといっても『火葬場の立地』は、グッとくるものがある。

死体というのは、なかなか興味のつきないものだ。臓器移植のために脳死が発明されてみたりね。

グーグル:「火葬場の立地」
リンク:「火葬研究協会」

エビ、アサリ、ムール貝のチリソース

2005-10-27 | 料理
最近、週に2回ほど店で まかないをつくっている。ほかの作業もしながら合間につくるわけだし、材料がいつも豊富なわけでもないので、なかなか むずかしい。

きのうの まかないは、かなりパパッと ひらめいた感じだ。ちょうどブラックタイガーがある。ちいさい むきえびも まぜて、あれでエビチリにしよう。おまけでアサリとムール貝も まぜちゃえば うまそうじゃないかと。

まずは、ソースをつくる。タカノツメ、たまねぎのみじんぎりをいため、トウバンジャンたっぷりと すこしの生姜。酒をいれて、トマトソースも くわえる(ケチャップでもよし)。あとは、酢と砂糖をいれて、水で すこし うすめておく。

エビに下味をつけて、油どおしして油をきる。貝類も いためて、すこしフタをして火をとおす。で、おなじく油をきって、ソースのなかに いれる。ソラマメなども いれて、からめていく。すこしだけ ごま油をふって、完成。トウバンジャンと酢と砂糖などの割合が味のきめて。こーゆーのは、その人のセンスですわね。

いやはや、うまかったですよ。エビとか貝とか あんますきじゃないけども、たまにはね(笑)。

グーグル:「エビチリ」

岡山市が「自転車と共存するまちづくり」

2005-10-26 | 国家と権力
自転車でいつものように、駅周辺にいく。

ちょうどクレドについたあたりで、びっくりした。クレドの前にいつも、ずらーっと とめてある自転車がないのだ。わたくしも、岡山市内の「迷惑自転車」の共犯者であり、それは もうしわけないことである。そのへんをぐるりと まわってみた。丸善の周辺にも自転車がない。すごいぞ、これは。いままで みたこともない光景だ。「自転車と共存するまちづくり」という旗があちこちに たっていて、そこにお目付役の方が いらした。たいへんご苦労さまです。効果があったようで、なによりです。実施期間は、今月の16日から28日だそう。この期間がおわってしまうと、また もとどおりになってしまうのかもしれないが、それでも教育的効果はあるだろう。わたしも、クレド専用の自転車おきばがあるなんて、しりませんでしたから。

「自転車と共存」か。表現の仕方で、印象も かわるもんですね。「迷惑自転車をゆるさない」とかっていう強硬な感じのでも いいのだろうけど(笑)。ま、「自転車と共存」というのが、役所的な表現でしょうね。まぁ、それは いいんですよ。

気になるのは、なんでこの時期にするのか?という点だ。

先週の土曜日(22日)だったろうか、京山中学校の前にさしあたったとき、なにやら歩道に集団がいる。ん、なんだろうと おもうと日の丸をもっている。なるほど、天皇見物か(おかやま国体の秋期大会は今月22日から27日まで)。臣民のみなさま、ごくろうさまです。岡大の生協にいこうと、その道をまっすぐ いっていたのだが、それほど大勢ではないものの、見物客のみなさまが あつまっていらっしゃる。ケーサツの方々も おみうけする。あら? 見物客の前で拡声器もって説明してる人がいる。両陛下がご通過のさいには、こうして あーしてください、とかなんとか いっているように きこえた。ふーん。

わたしは そういった見物趣味はないのでスルーしたのだが、ナンシー関さんの名作、『信仰の現場』の「御成婚パレードの人波にもまれて」をおもいだし、なんだか わらってしまった。ナンシーさんの名言どおり、「こいつら思い出づくり野郎だな」と(145ページ)。

まぁ、それも いいんですよ。

でだ、坂口安吾(さかぐち・あんご)のエッセイに、「天皇陛下にささぐる言葉」というのがある。でだしの部分を引用しよう。
天皇陛下が旅行して歩くことは、人間誰しも旅行するもの、あたりまえのことであるが、現在のような旅行の仕方は、危険千万と言わざるを得ない。
「真相」という雑誌が、この旅行を風刺して、天皇は箒[ほうき]である、という写真をのせたのが不敬罪だとか、告訴だとか、天皇自身がそれをするなら特別、オセッカイ、まことに敗戦の愚をさとらざるも甚だしい侘びしい話である。(『日本論』263ページ)
どーでもいい憶測だが、天皇は いまだ、ほうきである。

ちなみに、点字ブロックは岡山県立岡山盲学校の付近の横断歩道が発祥の地でございます。点字ブロックの付近に自転車をとめる悪習は、天皇制とおなじく、やめるべきであります。

グーグル:「国民体育大会 天皇制」 / 「岡山 放置自転車」

スタイルシートを編集

2005-10-23 | ブログ
ひさしぶりにスタイルシートをいじった。カレンダーなどを右にうつして、左に本文がくるようにした。

ふがいないことに、これまでのデザインではネットスケイプの7.1での表示が いちじるしくダメなことになっていたのだ。カレンダーやら最新の記事やらの表示が左側にずらーっと でて、その下にやっと本文が表示されるという具合に。ただたんに、スタイルシートの知識がたりなくて、きちんと記述できていなかったのが原因だった。わかってて、なおさなかったのだから、おはずかしいことだ。ネスケでご覧のみなさん、すいませんでした(まだスタイルシート、完全には わかってないが)。

で、IE(インターネット・エクスプローラー)とネスケ7.1でしか確認をしていないので、不都合が あるやもしれません。そのときは、まことに すみませんが、ご指摘くだされば さいわいです。

倉本智明(くらもと・ともあき)さんのブログで説明されていることですが、音声ブラウザではブログの題のあとに、すぐ本文がくるようになっているほうが のぞましいと(「ブログと音声ユーザと「できるけど面倒なこと」」)。いわれてみれば、なるほど、そうですねという感じだ。けれども、自発的に気づくのは、かなり むずかしいことだな、とも おもう。きちんとマニュアルなり用意されていれば すむ問題でも ありますけどね。

だれでもアクセスしやすいウェブ環境をつくっていくというのは、けっこう大変なことだ。HTMLだ、スタイルシートだなんてのを、ある程度しっておく必要があるからだ。文字は相対フォントにするだ、画像には代替テキストをつけるだ、どのブラウザでも きちんと表示できるようにだ、機種依存文字は つかわないだ、まことにルールは たくさんある。けれども、ほとんどの人に無視されているルールが。

Valid CSS!

グーグル:スタイルシート / 「ブログのアクセシビリティ」

『心は実験できるか』

2005-10-22 | 心理学
ローレン・スレイター『心は実験できるか-20世紀心理学実験物語』をやっとのことで よみおえた。

この1年ほど心理学についての本をあれこれ よんでいるけれども、この本が一番よかった。著者は心理学者/臨床心理士にしてノンフィクションライターだ。サイエンス・ノンフィクションってのは、よみごたえがあるもんですね。

著者は、10の心理実験を物語風に記述している。実験者や被験者、その実験の支持者や批判者など、さまざまな関係者に対してもインタビューをおこない、なおかつ、「自分」をその物語に うめこみ、自分の内省をまきこんでいくかたちで読者に かたりかける。

どれもが(すくなくとも心理学者にとっては)有名な心理実験であるだけに、手垢にまみれ、風評とステレオタイプにとりかこまれ、その実像は むしろ ぼやけてしまっている状態にある。著者は、その現状を把握したうえで、ちがった視点を提示したり、インタビューのなかで逆に提示されたりしながら、ふたしかで二分法ではわりきれない、さまざまな心理実験のもつ意味を模索し、なにが あきらかになり、なにが いまだ不明なのかを確認しようとする。

そのほとんどが、倫理的な観点から問題のあるものばかりなのだが、著者は「倫理的観点だけ」に たとうとはせず、人間というもの、生物というものが どのような存在であるのかを、実験結果から みつめようとする。それだけではなくて、「そのような実験が おこなわれたこと」をも、人間のありかたをみつめる手がかりにする。

この本であつかわれている すべてが実験室における心理実験というわけではないが、どちらにしても、心理実験/心理学の研究成果には、とほうもない疑問が いやおうなく あてがわれる。――「だから どうしたのか」と。そう、いちがいには いえないのだ。「それが どのような意味をもつのか」、「だったら、どうだというのか」については、人の数だけ意見が わかれてしまうのである。

この本で著者が とっているスタンスにしても、評価が わかれることだろう。心理学というものが、歴史的に、あるいは いま現在、どのように位置づけられるのか。わたしは どのように位置づけんとするのか。それをぬきにして、この本の評価は さだまらない。

読者に もとめられるのは、この本で かたられた物語だけに満足したり、なんらかの結論をだすことでは ないだろう。それぞれの研究結果が、どのようなかたちで社会で受容され、消費され、また、ひとりあるきしてきたのか。それをきっちりと把握していく作業ではないか。つまり、この物語を自分なりに うけとめたうえで、この物語では かたられなかったことを、自分なりに つむぎだしていくことではないか。

そんな めんどくさいことを…。とも感じられるだろうが、この本には それだけの魅力があるということだ。完結しえない物語をつむぎだしていく。それは、人が いきていくということ、人生そのものだからである。

グーグル:「心は実験できるか」 / 「完結しない物語」

対等に議論するということ

2005-10-21 | 議論
たまにはパターナリズムも必要なのかなぁと、そんなふうに感じるときがある。上の視点から、「おしえてあげますよ」という説明の仕方。あるいは、下から「おしえてください…」という態度。どちらも ありかなと。「おなじ目線」に たつだけが能では ないなと。

対等な関係を維持して議論をするというやりかたは、どうしても途中から無理が生じてしまう。ごくごく一部の人となら、ほんとの意味で対等で、なおかつ おたがいにとって有益な議論になるのだが、なかなか そんな状況には めぐりあえない。議論するときは、「なにかについて」話をするわけで、その話題についての知識や省察の量が対等であるということは ありえない。もちろん、知識のある人が概説をかたり、それをきいた相手が、「それは こうで、ああだね」というふうに考察をくわえるという議論の仕方もありうるし、そうしたカタチであれば対等な議論といえるだろう。けれども、たいがいの場合は知識量のある人のほうが、頭の回転も よろしいわけで。やっかいなもんだ。

学会などに いってみると、ぱぱっと頭を整理して的確なコメントをしている人をみかける。おぉー、すげぇって感動してしまうのは わたしだけでしょうか。おもわず尊敬したくなる人って いますよね。

「そーゆー ひとに、わたしは なりたい」。ということで。

グーグル:「対等に議論」 / 「対等な議論」

問題なのは親玉

2005-10-19 | ブログ
下の記事ですが、茶番の張本人(いいだしっぺ)の名前すらだしてなかったですね。

名前は、江本 勝(えもと・まさる)。どれだけ駄本をだしたのか列挙しておこう。

『水は答えを知っている―その結晶にこめられたメッセージ』
『水は答えを知っている 2―結晶が奏でる癒しと祈りのメロディ』
『水が伝える愛のかたち―愛はこんなに美しい』
『水は語る―魂をうつしだす結晶の真実』
『結晶物語』
『水の「真」力―心と体のウォーター・ヒーリング』
『自分が変わる水の奇跡』
『モーツァルトに聴く水と音楽のことば―水の結晶』
『水が伝える愛のかたち―愛はこんなに美しい』
『水は音楽を聴いている―心とからだに共鳴する『水の結晶写真・83点』』
『波動時代への序幕―秘められた数値への挑戦』
『なつかしい日本の歌に聴く「水と音楽のおくりもの」―水の結晶』
『波動の幸福論―最先端科学が生み出す新しい哲学』
『波動の真理―人間・地球・自然の未来のために』
『波動とは何か―科学と心の共鳴エネルギー』
『甦る潜在記憶―新しい自分を求めて』
『波動の食品学』
『波動と水と生命と―意識革命で未来が見える』
『波動革命―“新たな科学思考”が人類と地球を救う』
『波動学のすすめ―新世紀思考への意識革命』
『波動の人間学』

順不同。もーちょっとあるけど、めんどくさくなりました。

グーグル:「江本勝 科学とは」
リンク1:江本勝の頁 株式会社アイ・エイチ・エム
リンク2:江本勝のウェブサイト

「水の結晶」が どうかしました?

2005-10-18 | ブログ
ううむ。すえおそろしい。

問題になったようで、すでに削除されているが、こんなウェブページがあったようだ。「文字の持つエネルギー」。すげぇ。
<発問> (2枚の写真を提示して)この氷の結晶はどのようにしてつくられたでしょう。[中略]
<説明> きれいな方は、バッハのゴールドベルグ協奏曲を聞かせて凍らせた。この曲は、バッハが ゴールドベルグ氏への感謝の気持ちをこめて作った曲だそうです。 きたない結晶の方は、世の中に罵声を浴びせるようなロックの曲でした。
バッハは健全で、ロックは悪なんですって。そーゆーステレオタイプのほーが、よっぽど悪だし、不健全じゃねーか。「世の中に罵倒を浴びせるような」か。わたしのブログも、そんなもんじゃないか?(笑) やっべ。
・結晶は、ちゃんといいことか?悪いことか?が判断できて、悪いことばかりしている人間よりすごく素晴らしい。つくづく悪いことはいけないと思う。悪い言葉の上でできた結晶はかわいそうだ。 一言、強く思ったこと。「結晶って素晴らしい!」
っていうのに(笑)。小学生に、こんな発言をさせるなんて…。

このページをみて、唯一ほっとしたというか、やすらぎを感じたのは、
<発問・指示> 「ばかやろう」のような言葉がほかにありませんか。3つノートに書けたら先生に持ってきましょう。黒板に書いてもらいます。
○あほ、どじ、まぬけ、何言ってんの、何だお前、クソヤロー、ぼけ、死ねバカ、消えろ、うるせえ、はあっ?、 いやなものにたとえられること、存在感ねえぞ、など。
………。「ひどいこと ゆっちゃだめよ(はぁと)」ってのが趣旨なんだろーに、わざわざ列挙させなくても いいのに(笑)。まぁ、それも大事だろうけどね。けれど、こーゆー罵倒語もさ、もちろん、状況によっては すっごい ひどい発言になるんだけど、でも、すきだな。インチキ話よりかは、よっぽど!

結果として、サラシアゲになってしまうのだけれど、それはもちろん、もうしわけありませんが…。それでもやはり、「はあっ?」と、一言くらい いわせてください。

グーグル:「水 結晶」 / 「水 結晶 トンデモ」
リンク1:「TOSSランド」(教育技術法則化運動)へのコメント
リンク2:kikulog (ニセ科学についてのブログ)

どうでも いいこと

2005-10-17 | 国家と権力
かなしいくらいに どうでもいいこと。あぁ、そんなことがニュースになりますね。

なんて いいましょうか。どこまでも どうでもいいこと。こだわっちゃ いけない。こだわってちゃ だめだ。

参拝しましたとニュースが ながれる。ニュースくらいは いいだろう。けれども、どうでも いいことだ。問題だから批判すると。あぁ、そうですか。よくやった! 感動したから ほめたげる。あぁ、そうですか。

そもそも、どうでも いいことなんだよなぁ。葬式だの、墓だの。追悼だの、儀式だ、神だ。うるせーよ。

ヤスクニで戦争動員ですか。はぁ。かなしくなりますね。そんなことが可能であったということが。戦死してもヤスクニで神さまになれるだのなんだのなんていう、くそくらえな話を、たったひとりさえ信じはしなかっただのだと、そう おもいたい。わたし ひとりだけでも そう ねがいたい。ヤスクニで戦争動員しただなんて、ヤスクニバンザイな人たちの妄想にすぎない。ヤスクニが はたした役割があったとしても、問題なのは、「なにをしたのか」だ。ヤスクニは、客よせみたいなもんだろ。「客」じゃないけど。

ヤスクニのうそっぱちを信じた人が山ほどいたとしても、みつめるべきは、そんな かなしき人間の姿だけだ。

ヤスクニか。あんなもん、かなしき人の姿をうつしだす過去のカケラだろ。でも、かなしいことに「過去のカケラ」になれないでいる、「現在のカケラ」なのよな。それを直視することには まんざらでもない。けれども、そろそろ「どうでもいいことだ」っていうアッケラカン主義を発揚しないか。

「一体なにをしたのか」をみつめずに、ヤスクニ、ヤスクニいっているのは、はぁ。どういうことなのだろう? わたしがヤスクニを見物して、なにより感じたこと。それは、道のりは とおいなと。そんな、かなしい現実であった。なにをしたのかをみつめずにいられること。ヤスクニ是か非かなんてことで時間をつぶしていられるということ。あぁ、いかにも すばらしい世界であることよ。「悲劇、排除されるべし」。そうか。

めくらましばかりが幅をきかせて、あぁ、鏡だけは鮮明であることよ。おかげで、他人の姿は さっぱり みえないや。他人が みえずして、自分の姿が みえるわけがないのにね。

グーグル:「どうでもいい 靖国」

ゴキちゃん萌えー(うそ

2005-10-14 | ブログ
◆ゴキブリ君

台所でフライパンをとりだそうとしたら、ゴキブリ君がひょっこり。フライパンの上にいらっしゃるので、これは格闘せずにすみそうだと、外にポイ。ゴキブリが、うごきまわる姿は、どうも おっかない。べつにゴキちゃんに愛情があるわけでもないが、必要以上に ぶっころすのは、やめたげても いいかな、と前から おもってる。かえってこなくて いいぞ、ゴキちゃんよ。

◆害虫共存振興会

生瀬勝久(なませ・かつひさ)さんと三宅裕司(みやけ・ゆうじ)さんがやってた「ワークパラダイス」なんて番組をご存じだろうか。これが、めさめさ爆笑もので、だいすきだった。内容は、ありもしない職業をしている設定の生瀬さんが、自分の仕事を解説するというもの。ファンサイトがあるから、みてほしい。ウィキペディアまであるな(笑)。ビデオがでてたのか。2000年って5年前じゃねーか。ウカツだった。

◆なんの話だ

そのワーパラで、「害虫共存振興会」ってのがあって、おもろかったなぁと。それだけ。

グーグル:「害虫共存振興会」

『悲劇排除システム』

2005-10-12 | にんげん
業田良家(ごうだ・よしいえ)さんの『ゴーダ哲学堂-悲劇排除システム』をよんだ。

森岡正博(もりおか・まさひろ)さんの『無痛文明論』は まだ よんでないけれども、あつかってるテーマは共通してるようだ。

ゴーダさんといえば、やはり代表作は『自虐の詩』だろう(詩は「うた」とよむ)。典型的な共依存の関係(のんべぇの夫と ささえる妻)をえがきつつ、人生の賛歌をうたいあげた作品だ。

ネタバレあり↓。
結局、不幸な妻のほうが、妊娠して「親になる」ことで、わすれていた自分の母親の顔をおもいだして、ひとりで勝手に「人生には意味がある」だなんて結論づける。まぁ、こまった作品なのだが。けれども、最良の親友の熊本さんと再会するラストといい、後半の叙情詩モードは何度よんでも なける(あれは事実婚みたいなもんだろうが、夫と妻の関係ということにしとく←「結婚してなかったのでは?」という横やり対策。もとい、被害妄想的な先制防御)。

『悲劇排除システム』の内容は、『自虐の詩』よりは『詩人ケン』に ちかい感じがする。『自虐の詩』と くらべると、どちらも衝撃的な感動というものがないので、それほど衝撃はないし、とりたてて絶賛するほどの名作でもない。けれども、『排除システム』のほうは『自虐の詩』より社会をえがけている印象をうけた。べつに、社会をえがいた作品のほうが いいってわけじゃないけどね。『自虐の詩』は すきだし、評価してる。けれども、こまった作品でもあるってことでね。

悲劇を排除したあとに、なにが のこるのか。わずらしいこと、うつくしくないものを排除したあとに、なにが のこるのか。人がこれまで発見してきたものを、自分も再発見できるのか。なにかに注目し、あれこれ かんがえてみることの価値を、『悲劇排除システム』は えがいている。

悲劇? わずらわしいこと? うつくしくないもの? なんですか、それは。一体なんなのですか。自明ではないはずですよ。そう。そうなのです。それなのに…… それなのに、なのだ。それなのに、○○なのだ(○○は、テキトーな表現を各自あてはめるべし)。

なるほど、『自虐の詩』も『詩人ケン』も『悲劇排除システム』も、つながっているのだなぁ。


上記の感想文は、たまたま かいただけであって、「みなさん、これはオススメですよ!」ということではない。ひさびさに更新したんだから、よほど内容が いいんだろうとか、そういう誤解は なしね(笑)。すすめるなら『自虐の詩』かな。だって、衝撃的な作品のほうが、読者に かんがえさせるからね。

グーグル:「悲劇排除システム」 / 「自虐の詩 共依存」 / 「自虐の詩 熊本さん」

ことばのユニバーサルデザインの方向性

2005-10-05 | 障害学
ユニバーサルデザイン(普遍的設計 ←無理がある訳であっても、ゆるして)は、この社会には いろんな人が生活していることを大前提におく。白人で、若者で、男性で、異性愛者で、健常者で、中流階級以上で、マッチョで……なんていう、特定の人たちだけが生活しやすい社会設計を批判する。老人だろうが、コドモだろうが、妊婦だろうが、どんな身体的特徴をもっていようが関係なしに、だれも無力感をあじあわなくてすむ社会をめざすわけだ。

これは、ことばの表現様式の問題についても いえることだ。

たとえば、文字をかくこと=「筆でしたためる」っていう常識が一般化した社会では、字がかけない人が でてくる。まったく「かけない」ことはなくても、劣等感にさいなまれる人もでてくる。筆がきには、ある文化資本(文化的素養)と肉体資本(もってうまれた体)が条件として要求されるからだ。

本というメディアにおいても、拡大図書をよむ人がいたり、機械で字を拡大し、白黒を反転させて よむ人もいる。パソコンの画面で よむのが楽な人、スクリーンリーダーをつかう人もいる。老眼鏡をかけつつ読書する人もいる。しかしながら、ひとつのメディアだけが提供されている現状では、さまざまな排除が生じているわけだ。そうした制限された状況のなかで、なにが できるのかを検討するわけだ。とりあえずは電子テキストの提供によって、かなりの程度、問題を緩和することができる。文字をかくことにしたって、パソコンを最大限 活用すれば、かなりの程度、問題は解消するわけだ。

それでは、「ことば」をせまく定義して、言語ならどうだろうか。

同一性という観点にたってみよう。上記の例は表現形式にこそ ちがいはあれ、すべて表現内容は おなじである。だが、言語のユニバーサルデザインにおいては、問題は表現内容にかかわってくるのだ。ひとつの情報をつたえるのに、表現の仕方をかえた文書を複数つくったりできるかといえば、おのずと限界がみえてくる。コストを度外視したとしてもだ。気力がつづかないだろう。

そこで ふりかえっておくべきことは、どのような表現の仕方をすれば、どのような人が排除されるのか?ということである。そもそもだ、「ユニバーサル」だなんて意味しらないよ!という人もいるのである。文化資本なんて表現をみるだけで、こいつは表現に「つかわれてる」だなんて印象をもつ人もいる(あ、これは ちがう次元の問題か)。それは、こむつかしいという印象をうけるからであって、やはり排他的なのだ。さらに、「まったく理解できません」ということであれば、なんのために かいたんだ…と、かいた本人も がっくりすることになる。そうなのだ。なにかを表現するということは、だれかに なにかをつたえるということなのだが、同時に、だれかには つたえないということでもあるのだ。読者の選別だ。英語をまじえて文章をかくような人は、英語がダメな人を排除する。なおかつ、「英語がダメな人」を実体化する。いかにも罪な行為だ。こむつかしい漢字だらけの文章をかく人も、おなじような選別をやらかすわけだ。

ただ、原理的にいえば、完全に漢字ぬきの文章でなければ排除されてしまう層もいる。こどもや、ひらがなだけ学習した非識字者、ほかさまざまな漢字弱者などだ。こうした人たちは、ある意味では対処しやすい層だ(「対処しやすい」だなんて いってる時点でバリアフリー思想の問題点をひきずっており、差別的で対処療法的な発想であることを明記する必要がある)。けれども、いまだかつて きちんと対応されてきたことのない層でもある。

今回の障害学会で議論になっていたのは、知的障害者のケースだ。言語至上主義をこえて、絵による表現の可能性にも注目すべきだということだ。ひとつの表現形式と表現内容では、きちんと つたえることはできない。だから、表現形式を多様化することが重要だ。なおかつ、表現内容に気をくばり、完全に再現できないなんてことや同一性なんてことを度外視してでも、つたえる方法を模索する。それが どのようなものであるかは個別に検討していくとして、出発点は、「いまここで、どのような排除があるのか」におく必要がある。

グーグル:「ことばのユニバーサルデザイン」 / 「ユニバーサルデザイン」

障害学会、大会ルポ

2005-10-03 | 障害学
倉本智明(くらもと・ともあき)さんがブログで障害学会大会雑感をかいている。わたしも、いちお かいておこう。

障害学会の大会は、今回がはじめてでして、すなおに感じたことから。

◆情報保障の面

○手話通訳は、何人かで交代でやってました。森壮也(もり・そうや)さんがコーディネートしているだけあって、うまく機能しているように「みえました」。ま、それは ろう者の方が判断することですな。わたしゃ しらん(笑)。皮肉をいってるのではなくて、わたしには わかりえないってことね。○パソコン筆記は、6人で協力してやってました。二日目は、さすがにおつかれのようでした。ていうか、シンポジウムとかは大変だわね。怒濤のように しゃべられると、ついていけない場面もでてくる。本の題とかは、ゆっくり発言したほうが いいんでしょうね。「ゆっくりしゃべってください」と要求される方がちゃんといたのも、よかったと おもう。○あとは、デジタル補聴器の磁気ループもあった。てかまぁ、学会のウェブページの説明をみてもらっておこう。

で、今回の学会でひとつのキーワードになっていたのが、知的障害者の参加ということだった。とりあえず、大会プログラムをみてくださいな。まぁ、しょっぱなの特別報告で提起されたら、まぁ みんな意識するわけで。ともかく、知的障害者に対する情報保障については、言語至上主義をこえて、ほかなるメディアをかんがえていこうということで、杉野さんの表現を引用すると「言語に拘束されず、創造的な発表形態を探究する必要性」があると。まぁ、むずかしい問題ではあるけれども、むずかしい問題こそをきちんと かんがえるべきで、そこを放置して、なぁにが障害学会だなんて そしりは さけられない。まぁ、言語至上主義をこえるためには、いろいろ解放されるべきことがらが あって、それは、けっこう むずかしいことなんだが。英語帝国主義から ぬけだせないでいて、言語至上主義は克服しましたなんて話があるはずがない。

◆発表について

なぜに障害学会でそれを発表しますかという疑問をもってしまった内容もあった。障害学会の方向性と「思想信条」みたいなものが、きちんと反映された報告がそろってくると、おもしろくなるんでしょうね。障害学会がなにをどう議論する場なのかっていうのがまだ共有されていない、確立していないという指摘は、フロアからも でていた。

◆フロアからの参加について

司会者の話のなかで、「質問をしているうちに、自分がなにをいおうとしていたのか わからなくなる、自分でなにをいっているか わかっていない人がいる」というのがあった(一般論として、そういうことがあるから、そういう場合には、司会者の権限で○○する場合があります。といった文脈です)。これは、ほんとそうだよなと自分のすがたをふりかえったものです。質問するときは、メモしておいたほうが わたしなんかには よさそうだなと。で、やっぱりコメントなり質問というのは報告の内容をきちんと ふまえたものでないと、時間が もったいない。

なぜか? 時間には かぎりがあるからだ。時間の制約というものは、どこまで努力をかさねても払拭されない問題だろう。そして、時間の制約によって いろんな制約が派生してしまうわけだ。まぁ、限界があるということは、なにもしないことの弁明にはならないわけだけどね。

わたしも くだらないコメントと質問をしたのだけれど、あとで べっこに記事にします。

グーグル:「障害学会 ブログ」