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いま、そのとき、かんがえつつあること。

日本の障害学における、もっとも重要な文献『見えざる左手』

2008-02-25 | 障害学
1999年に『障害学への招待』という論文集が出版された(明石書店)。この本の登場によって、日本における障害学研究が促進された。なるほど、それは ただしい認識であるだろう。

だがである、大路直哉(おおじ・なおや)によって1998年に発表された『見えざる左手-ものいわぬ社会制度への提言』三五館が これほどまでに無視されている現実は、なんとも ふがいないとしか、いいようがない。

おおじは、つぎのように のべている。
左利きそのものが、障害でも異常でもないと強調すればするほど、社会の関心として後回しにされやすい(213ページ)
どうだろうか。これは、トランスジェンダーが性同一性障害と認識されることによって社会の認知と理解が促進されたことと、まったくの対照をなしている。

障害学研究者が、ときとしてジレンマとして あげているのは、「性同一性障害」のように、障害化(病理化)することで社会で権利が保障されるようになるという回路、戦略、現実である。

たとえば、倉本智明(くらもと・ともあき)は、「性同一性障害」と題したブログの記事で、つぎのように のべている。
性同一性障害:小2男児、「女児」で通学OK--兵庫の教委

http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/bebe/news/20060518dde001040004000c.html [記事はすでに削除されている-引用者注]

 報道された内容事態は歓迎すべきことだと思うんだけれど、これ、性同一性障害と認定される、つまり、disorderというカテゴリでもって語ることによって初めて実現できたわけだよね。トランスジェンダーとかトランスセクシュアルではたぶんだめで。

 思いっきり単純化して言うなら、多様性の肯定ではなく、病気だからしゃあない、という論理によって可能になったってことになるんじゃないか。だとすると、ちょっと複雑。

 この件にかかわった個々の人たちが、実際、どのように考えていたかはまた別の話だし、disorderってカテゴリを受け入れちゃいけないって話でもまったくない。当人にとってしっくりくるならそれでいいし、本当は受け入れたくないけど戦略的に有用だから利用するってのもありだと思う。

 ただ、そうしたリアクションのあり方はともかく、disorderという概念を受け入れる、つまり、自分の身体(含む大脳の活動)に対する否定的な意味づけの受認とワンセットでなくちゃ、社会からの適切な取り扱いが期待できないという状況はどうなのだろう。性同一性障害というカテゴリがしっくりくる人はまぁいいとして、そうじゃない人だっているだろうわけだし。

 このあたり、impairmentをめぐる障害者・障害学のディレンマとも重なり合う問題なんじゃないかな。
この障害学のジレンマの逆方向をすすんできたのが、ひだりききという身体的マイノリティであった。そして、ひだりききの障害学ともいいうる論考を発表しているのが、大路による『見えざる左手』なのである。この本は、内容の水準の たかさとは うらはらに、ほとんど注目をあびることなく時間が すぎてきた。

このように かんがえてみると、「見えざる左手」とは、皮肉なまでに この社会の実態をあらわしている。

最後に、『見えざる左手』から もっとも印象的な箇所を引用しておきたい。
合理性を追求すればするほど、利き手をめぐる周囲の環境が右利き向けになってしまう。「たかがこのぐらいの操作なら」という意識が芽ばえたとき、〈右利き社会〉が強化されていくのだ。
車いすの使用、色弱、盲目、天才、サヴァン症候群、読字障害、左利き…。いずれも、人間社会において少数派だ。ある一定の社会で求められる“ふつう”という人間の平均像ではなかったりする。けれど、そうした人間の特徴が異常かどうかの基準は、多くの場合、社会にとって損か得かという、しごく功利的で単純な理由から決定されがちだ。
典型的な例が左利きである。異常だとみなされなくなってきたのも、〈右利き社会〉のなかで左利きがお荷物とされるような要因が、減りつつあるか見えにくくなっているからだ。
いったい人間にとって“ふつう”という感覚は、どこから生まれるのだろう。とにかく、そうした意識は、多数派の原理でなりたっている〈右利き社会〉のなかで承認される。ことの善悪に関係なく、多数派であれば、それが“ふつう”なのである(161ページ)


もちろん、現時点において障害学の基本かつ最重要文献は、論文集としては『障害学の主張』(明石書店)であり、単著としては、杉野昭博(すぎのあきひろ)『障害学-理論形成と射程』東京大学出版会であろう。だが、これらの本は、わたしが紹介しなくとも、興味のあるひとは よんでいるし、たくさんのひとによって紹介されてきた。ひとと おなじことをしても、しかたがないではないか。

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http://www.geocities.jp/syakaigengogaku/abe2003.pdf