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いま、そのとき、かんがえつつあること。

コミュニケーションに障害はありえない

2007-12-23 | 障害学
どのようなかたちであれ、ひとと ひととが接するならば、それはコミュニケーションである。「無言による応答」もコミュニケーションのひとつの ありかたであるように、どのような接しかた、応答のしかたをするにせよ、「コミュニケーションできない」なんてことは ありえないのだ。

だれもがコミュニケーションしているし、その よしあしを論じることはできない。


だれかを人質にとって、「ちかよるな! こいつをころすぞ!」と いっているひとにたいして、どのように接したら よいのか。そんなものは、よいも わるいも、正解もない。結果が うまくいけば、よかった、とは いえる。だが、そんなのは いきあたりばったりの、どのようにも評価できる しろものでしかない。

わたしは、あるとき語学の講師になり初回の授業で「コミュニケーションはなんでもあり!」とプリントに かいて くばり、「おはようと いわれて、バカと いいかえすのも、ありえることだ」などと、「一般的な語学の授業」を「なんとは なしに」おちょくったことが あるのだが、結局は そういうことだ。

「なんでもあり」だし、なんでもかんでもコミュニケーションなのだ。


だから。「コミュニケーションに障害がある」という表現は、視覚障害とか聴覚障害とか、そういうときの「障害」とは質的に意味が ことなっているということに注意したい。めが完全に みえないとか、みえずらいというのは、本質的なものだが、コミュニケーション障害というのは、相対的なものだ。

もちろん、めが みえないとか、みえずらいというのも「めが みえる」ことを基準にし、そこからの逸脱を指摘する表現であるから、相対的な側面をもっている。その点では、やはり「視覚障害」という表現にも権力関係が反映している。だが、めが みえないのは、事実でもあるのは否定できない。それに対し、コミュニケーションに障害があるというのは、事実でもなんでもない。あなたの主観による評価なのだ。たちのわるいことに、主観による評価が制度化されて、自明視されているケースがある。そうなると、もはや たんなる評価ではなくなり、絶対的な実体になってしまうのだから、おそろしいことだ。



いま現に、わたしたちは審査員です。「コミュニケーション障害」というものを、だれかから感じとってしまう以上は「審査員」に ほかなりません。けれども、審査員をやめましょう。おりましょう。たとえば、あなたはミスコンの審査員になりたいですか。なりたいひとは、そうでしたか。なるほど。なりたくないひとは、どうですか。審査員は いやでしょう? 審査員をやめましょう。

そして、コミュニケーションに点数をつけるのをやめましょう。ただ、わたしにとって こういうコミュニケーションは都合が わるい、わたしの利益に反する、だから いやだとか、そういう いいかたをしましょう。

コミュニケーションに障害は、ありえないのです。

3 コメント

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コミュニケーション障害 (tu-ta)
2007-12-25 05:21:58
以前、コミュニケーション障害という表現を使って、たしなめられたものとして、書きます。

コミュニケートするってどういうことでしょう。
手軽な英辞郎で調べてみる。
===
【自動】
1.連絡する、通信する、交信する
・I communicate with my mother by letter once a month. : 私は母親とは月に1度手紙のやりとりをしている。
2.〔場所などに〕通じている
・A hallway communicates with the cathedral. : 通路の一つが大聖堂につながっている。
3.聖餐にあずかる
【他動】
1.知らせる、伝える、伝達する、~に連絡{れんらく}する
2.〔病気などを〕移す
===

辞書を引用しておいて、いうのもなんですが、これらの意味はともかく、個人的なコミュニケーションというのは伝えたいことを相手に伝えることだと思います。
そこには「おまえを拒否する」というメッセージが違う言葉に含まれることもあります。
障害を「できないこと」という風にとらえたら、伝えたいことを伝えることができないっていうことはあると思います。

ひつじさんが言うように、聞きたくないことに耳をふさぐために「コミュニケーション障害」を持ち出すのは間違っていると思いますが。
理解されることは、永遠のゆめ (ひつじ)
2007-12-25 12:31:18
ありがとうございます。コメントはいつでも うれしいです。反応をもらえないまま文章をかきちらすのは、砂をかむおもいです。

坂口安吾(さかぐち・あんご)の「私は誰?」というエッセーから引用します。

「人はすべて理解せられることを欲し、そして理解されてはいないのだ。否[いな]、私自身が私自身を知らないのだ。」

ただたんに、「理解されること」をのぞんでコミュニケーションをとるならば、ひとはだれも、語用論的ことばづかいをしたりはしないでしょう。

皮肉だとか、ほのめかしだとか、お世辞だとか、「つたえる」と「つたえない」の つかいわけを日常的にしているわけで、「意図するわたし」のむこうには、「解釈するわたし」が存在し、おたがいが語用論的に はなそうとしたり、理解しようとしたり、そして、ことばどおりの意味で はなそうとしたり、理解しようとしたり。それで、いつも会話は ややこしいことになる。

「伝えたいこと」を伝えることがコミュニケーションなら、世の中、コミュニケーション障害であふれています。

だれしもが共有しているものを障害とよぶならば、これは公平な視点であり、なにも問題ではないと おもいます。ですが、基本的に、この世の不公平っぷりは、少数者だけに障害をおしつけています。

「伝えたいことを伝えることができない」ってことを障害とみなすなら、なぜに一部のひとたちだけが「コミュニケーション障害がある」と みなされているのか、ということをといなおす必要があります。
いじわるな いいかたをするなら (ひつじ)
2007-12-25 12:41:33
だれかにコミュニケーション障害があると みなすひとは、「自分にはない」ことを前提にしている。

「伝えたいこと」をつたえられないひとが どこかにいて、それには自分は ふくまれないのだと。

ほんとうに そうだろうかと かんがえなおすところから、障害学と健常学を同時にはじめることができる。


わたしが かきたいのは、包括的な観点にたった人間論であり、そのためには「すべてがコミュニケーションである」と定義する必要がでてくる。もし、だれかを排除というか、「否定」するために論じるのであれば、限定的な意味でコミュニケーションを定義することもできる。できるけど、わたしは そうしない。