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いま、そのとき、かんがえつつあること。

自己批判なんか するな

2008-03-30 | 議論
いやだなあと おもいながら、「わたしは悪魔であり、不平等を再生産している。」だなんて かいてしまった(「批判の対象は、「人間のありかた」であり、そこには自己批判もふくまれる。」)。とんだコメディーだ。わらわせるな。

なにが自己批判だ。「だいじなのは、どれだけ世の中をよりよくしていくことに貢献できるか」ということなのだ。

もう一度、坂口安吾(さかぐち・あんご)の名言をひいておく。
私は悪人です、と言うのは、私は善人です、と言うことよりもずるい。「私は海をだきしめていたい」より
自分を悪人だと いったところで、なんにも ならない。「社会につつまれた人間において、どこにも「外部」などはなく、安全地帯というものは存在しない」(「問題意識の温度差」)。それなら、善人など いるはずがないのだ。

それはつまり、「だれにも特権的ただしさなんて ありはしない」(「悪魔の代理人」)ということだ。
だれもが犯罪をおかす可能性があり、犯罪をおかすべく うまれた ひとなど どこにも いない。だとしたら、殺人も自殺も強盗も「くじ」に あたったようなものだと おもう。(「くじびき」
性差別でも なんでもよい、自分の おかれた特権的位置というものをふりかえり、自己批判をしようとも、そこには ある種の快感がともなう。
「男」が「男であること」をかんがえるとき、どれほどに ふかく ほりさげようとも、「自分のありかた」をつきつめようとも、いや、そうすればするほど、そこには快感がともなってしまう。そして、安心されてしまう。ほめられてしまう。そうして、自己批判は自己陶酔へと はまりこんでゆく。(「中村うさぎ入門 - 『私という病』」
理解をしめすというのは、ときとして危険をともなうが、それでも、共感しようとする姿勢をたもつことは、なにも危険なことではないはずだ。
役割分担。それぞれの社会貢献。おまかせしたり、まかせられたり。

すべてをひきうけることも できないわけで、結局のところ、ただ、自分の居場所をさがしながら、そのときその場所で、自分の仕事をこなしていくだけだ。そのとき、その場所で埋没するときもあれば、わかれ道で迷い子になるときもある。そんなこんなで、ひとつや ふたつのことを、ひきうけていくだけだ。

やさしい ひともいれば、おこりっぽい ひともいる。

けれど。

よくみてごらんなさい。どちらも、そういう役を演じてるにすぎないでしょう。「演技」ってことじゃない。そういう役まわりをあたえられているってことです。いやがおうにも、そのようにならざるをえない状況にいるってことです。

すきで やさしいわけじゃない。すきで声をあらげるわけじゃない。もちろん、度をすぎては いけません。バランスが とれていなけりゃなりません。

けどね。少々のことでしたら。

おこる気もちを、わかってあげねばなりません。やさしすぎる よわさに、理解をしめさねばなりません。

だから。

たぶん、あなたは あなたで、それでいい。バランスだけは みうしなわずに。状況を把握して、役まわりをさがすのです。状況に支配されずに、いや、支配されつつも、状況を支配する。いや、支配できなくとも、状況に参加し、ともに つくりだすのです。なにをって、社会をでしょ?(「ひきうける」
そろそろ まとめようか。
だれしも得意分野、苦手分野というものがある。得意なことには雄弁で、きびしい姿勢をもっており、苦手なことは、他人にも自分にもあまいことがある。それは当然のことなのだが、その点に注意することがなければ、ただの「えらそーなひと」になってしまう。たとえばそれ専用の知識を必要するがために、しらないひとは、なんにも しらないということがある。思想や方向性はおなじか、よくにていても、かさならない部分もふくむものがある。ある分野にくわしいひとも、まったくちがう分野ではなく、たんに関連分野であっても、基本的なことさえしらないということがある。

自分がくわしいことに、だれかが無知で、さらには問題をひきおこしている。それはだめだということで批判をする。しらないのは いいわけにならないとかいって批判する。

だれにでも わかる。だれもが しらないうちに、ある観点からみて問題のあることをしてしまっている。だれであってもそうだ。それは、「だから、えらそーに批判してはならない」ということを意味するわけではない。「だれかを批判するなど、だれにもできないことだ」とか、「結局、みんなの責任なんだ」とか、そういうはなしでもない。

どんな わるいことをしても、自分に はねかえってくるものだと いわれる。よいことをすれば、まわりまわって自分の利益になるとも いわれる。だが。

残念なことに、はねかえってこないひとがいる。まわりまわってこないひとがいる。それが、関係の非対称性であり、力関係なのだ(「批判的であること」)。
こうした現実をうけとめることでしか、みえてこないものがある。
どうすれば生産的な議論ができるのだろう。どうすれば おたがいのためになる対話ができるのだろう。わからない。わからないからこそ もがきつづける。ときおり不安になったとしても、それで いい。

だれもが すっきりとした生活をおくってないのだから、すっきりとした主張というのは どこにも ありえない。単純にAとBとに分類できるほど、人間は単純じゃない。でも、ある程度は単純化も必要だ。それぞれの役まわりを演じることも必要だ。相手のはなしをあえて否定することも必要だ。でも、自分を中立な安全地帯におくことでは議論はすすまない。

おたがいが自分をさらけだし、なやんでいることをすべて うちあけるような対話であれば、そこには共感がうまれる。信頼がうまれる。安心がうまれる。そして なにか変化がうまれる(「てさぐりで もがきながら」)。
もっと、おりていかないと いけない。もっと、かるいことばをつかっていいはずだ。かたくるしく かくのではなくて、もっと ことばをひらいて いかないと いけない。いまよりはもっと、わたしは おりていたい。てさぐりで、もがいていたい。