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いま、そのとき、かんがえつつあること。

自分が被害者だと錯覚できる権力

2005-06-20 | 障害学
自分たちが足をふみにじってきた相手を、なんの根拠をもってか「加害者認定」することがある。

権力とは、足をふみにじれる位置にいるということだけではない。「抵抗」を暴力だと みなし、相手を悪人あつかいできる位置にいるということでもある。まさに、おもうがままなのだ。

「危険な精神障害者」をどうするのか?という問題設定。そんな議論をできるという位置にいることこそ、権力者であることの あかしなのだ。そんな議論では、みずからの加害の歴史は ほうむりさられる。隔離するということ。それを、あちらこちらで乱用してきたのは、わたしや あなただ。ハンセン病を根拠に、精神病を根拠にして。衛生的で安心な社会をきづいていくために。こんにち、監視カメラを必要としているのも、わたしや あなたなのだ。すべては、安心できる社会のために。そう、「社会のために」だ。いや、社会という ことばは、なんだか ぼやけた表現だ。「国家のために」だ。

ちょっとばかり引用したい文章がある。
では、考えるべきバランスは一体どこにあるのか。それは、社会の安全と精神障害者の人権などという、まったくもっていかがわしい対立においてなのか。
そうではないだろう。社会が直視すべきは、百年、いやそれ以上にわたって人権をまったく無視し、精神障害者を閉じ込めてきた「歴史」ではないのか。そして、今なお社会からも法の世界からも精神障害者を排除している、そうした「現実」ではないのか(芹沢一也=せりざわ・かずや『狂気と犯罪』講談社+α新書、217ページ)。
ほんとうに「隔離すべき だれか」が いるというのなら、わたしたちが隔離すべきではなかったかもしれない人たちの一生を、直視してみたほうが いい。そして、もしかしたら隔離すべきではないかもしれない人たちを、それでも隔離すべきだと、こわだかに さけんでみれば いい。

なぜ、武器をもっている わたしや あなたが不安になるのだろう。武器をもっているが ゆえの恐怖から、のがれることが できないからだろうか。

グーグル:「隔離の歴史」 / 「隔離 精神」

付記:芹沢さんのブログを発見。「社会と権力 研究の余白に」。

4 コメント

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Unknown (夕日)
2005-06-22 20:05:56
正しさとは何か? あらゆる情報が飛び交う今の社会でその選択は難しい。

戦中においては敵を殺すこと、戦後においては有名大学を出て会社の出世に勝ち抜くこと、だったのかもしれない。

例えば、ちょっと便利に暮らす為に、今の日本やアメリカの一人は途上国の2,30倍のエネルギーを消費していると言われる。その結果、温暖化などの無意識の暴力とも呼べる状況があるのではないか? 

多種多様な価値観と無知が混迷する今、自分に出来る生き方は他者の存在を認め、謙虚に共存してゆく事ぐらいかもしれない。
他者とは、一体だれなのか (ひつじ)
2005-06-24 23:50:14
他者と謙虚に共存していく。むずかしいことですが、目標にしたいですね。そのためにも、他者とは一体だれのことで、そもそも「わたし」は一体どのような存在なのかをみつめつづける必要があるといえるでしょう。



ささやかながら、ひとりひとりが なんらかの目標をもち、それぞれの役割をはたしていけるのかが、とわれているんだと おもいます。それをとうているのは、じつは、それぞれの良心の声ではないでしょうか。
こんにちは。 (芹沢一也)
2005-07-29 13:56:15
「危険な精神障害者」をどうするのか?という問題設定。そんな議論をできるという位置にいることこそ、権力者であることの あかしなのだ。

おっしゃるとおりだと思います。

であるにもかかわらず、いわゆる人権派と目されている弁護士や、あるいは精神科医もまた、多くがそのような問題設定のなかで思考しています。

自分が思考している土台を意識化することは困難なのです。そうした土台を相対化するために、ぼくは歴史的な作業を行なっています。「危険な精神障害者」をどうするのかなどという問題設定そのものが、歴史的にかたちづくられたものであり、決して自明なものでないことを示すためにです。

困難なことだからこそ (ひつじ)
2005-07-29 21:01:13
すこしずつではあっても、芹沢さんのように地道な作業をつづけていくことが大切なんでしょうね。今後とも芹沢さんのお仕事に注目していきたいと おもいますし、わたしも自分のできることをみつけていきたいと おもっています。