羊のプチ冒険

フランス語と英語の通訳案内士(未年生まれ)が考える、こんな事、あんな事・・・

デジャ・ヴュ・・・déjà vu・・・既視感

2015-01-24 22:38:58 | 日本と日本人
もう、見飽きるくらい、ですね。同じパターンの、苦戦、あるいは敗戦。何のことでしょう・・・サッカーです。

アジアカップの対UAE戦。おっとりと試合に入ったところ、相手はハイテンションで一気に攻めてくる。速攻から、早々に失点。その勢いに気圧されたかのように、守備陣は下がり気味となり、前線との距離が少し開いて、得意の細かいパスがいつものようには繋がらない。横パスやバックパスが増える。攻撃陣は、焦るのか、いつも以上にシュートが枠に飛ばない。押し気味に支配を支配しているように見えて、ただ時間だけが過ぎていく。後半同点に追いつくこともありますが、結局1点が遠く敗れることもある。23日は、同点まではいきましたが、そこまで。PK戦で、敗退。

以前よりくさびのパスが良く入るようになったとか、内容面を評価する声もあるでしょうが、結果を見れば・・・何回見たことでしょう。監督が変わり、選手が変わっても、同じような試合展開。見飽きてしまいました。どうしてなのでしょう。国民性としか言いようがない・・・そう思えてしまいます。

サッカーは国民性を表すと言われます。きっと、他のスポーツでも言えるのでしょうが、個人競技より団体競技の方が、国民性が見え易いのでしょうね。なにしろ個人競技では、個人のキャラクターが立ってしまうこともよくありますが、10人以上のチームにもなれば、平均的国民性が現れやすのではないでしょうか。ラグビーは15人ですから、サッカーよりも国民性が出やすいと思えてしまいますが、しかしラグビーの場合、代表チームにその国のラグビー協会に所属している外国籍の選手も加えることができるので、状況がちょっと違ってきます。その点、サッカーは、国籍で縛りがありますから、その国の国民性が丸見えになってしまうのではないでしょうか。

その「サムライブルー」を通して見えてくる国民性とは・・・まずは、なんといっても、敗因の理性的な分析が少ないこと。誰がどこを怪我していたとか、湿度が高すぎたとか、日程的にきつかったとか、事前に対処すべき事柄、相手チームも同じ状況であったことが、原因として列挙されます。あるいは、トカゲのしっぽ切りで、誰かをスケープゴートとして排除し、傷をなめ合う。その時、排斥されるのは、外国人監督など、チーム内の多数派に属さない、いわゆる異質な人。異質を排斥する日本、ということは以前から言われてきました。排除されたくない、疎外されたくないから、長い物には巻かれよ、右に倣え、Me too・・・これが、二つ目の国民性でしょうね。

また、強い相手だと分かると、委縮してしまう。チャレンジ、冒険を、無謀と非難する、そんな冷めた目。怖じ気づきやすい・・・だからこそ、弱きに強く、強きに弱い。これが、三つ目。

こう書いてくると、まさに、天に唾するようなもの!!! 私の中にこそ、こうした気質がある。しかし、それは、至って当然です。海外暮らし16年と言っても、30過ぎまで、日本国内で生きてきたわけですから、純国産。フランスなどを鏡に日本を見るようになり、こんな点は変えて行った方がいいのではないか、そうでないと、幸か不幸か、国際化してしまった世界で、孤立してしまうのではないか・・・そんなふうに思ってしまうのですが、ふと、我が身を振り返れば、そこに映っているのは、わが姿。Oh my God、Mon Dieu・・・

私的問題はさておき、と日本的話題の変え方をして、ここで語るべきは、サッカー日本代表の今後。日本人選手の特徴を技術的な面のみならず、メンタル面も含めて理解しようと考える、しかも世界のサッカーに精通している監督が必要です。自分がスペイン・サッカーのファンだからスペインで監督をやっていた人、という決め方ではなく、日本人選手の内面にも光を当てる、あるいはメスを入れて、少なくともサッカーをやるときのメンタルを変えることができる、そんな監督が求められます。選手交代など、監督としての確かな手腕が前提として求められることは言うまでもありませんが。アギーレ現監督がこうした条件をクリアする監督であるなら、続投を。

そして、選手。より多くの日本人選手に、世界のサッカーを、その深さ、バラエティの広さを実感してほしい。そうでなければ、相変わらずの、井の中の蛙。内弁慶な選手で終わってしまいそうで、とても不安です。仲間でつるんでいれば楽しいですが、そこには刺激もなく、安穏あたる陽だまりがあるだけです。そこから成長することは、難しい。今まで以上に強い日本代表になってほしい。そのためにも、海外でのプレーを。そして、代表の試合も、強豪国とのマッチメーキングをより多く。しかも、アウェでの試合を。極東まで遠征してくれるのは、1軍半であったり、2軍であったりすることもあります。ぜひ、1軍同士のガチンコの試合を。強豪国との試合に慣れれば、委縮することも減るのではないでしょうか。スポンサーやテレビ局を説得して、ぜひとも、アウェで強豪国との試合を!! この仕事こそ、サッカー協会の焦眉の仕事なのではないでしょうか。

頑張れ、日本サッカー。もう、応援するのは止めた、と一瞬思ったものの、50年におよぶファン歴。そう簡単に、止められるものではありません。お願いですから、ぜひ、23日と同じような、いつもの苦戦パターンは今回を最後としていただきたい。そう、切に願います。

通訳案内士って、どんな資格?

2015-01-21 21:05:51 | 通訳案内士
最近、テレビのニュースやワイドショーで、よく外国人観光客の増加が取り上げられています。お気づきの方も多いかと思います。訪日外国人客が増え、その活発な消費活動が観光・流通業を中心に経済活動を活性化し、ひいては雇用等にも好影響を与える・・・ということで、訪日外客の増加は明るい話題として紹介されています。

しかも、その数が急増している・・・

「日本政府観光局は20日、2014年に日本を訪れた外国人が過去最多の1341万4千人だったと発表した。1036万4千人で初めて1千万人を超えた前年より29.4%増えた。円安の追い風に加え、アジア諸国のビザ緩和や免税品目の拡大、海外での観光PR強化など政府の取り組みも後押しした。訪日外国人が使ったお金の総額も前年比43.3%増の2兆305億円で過去最高だった。
 国・地域別では、1位の台湾が前年比28.0%増の282万9千人、次いで韓国が同12.2%増の275万5千人、中国が同83.3%増の240万9千人だった。」~1月20日:朝日新聞デジタル

「訪日旅行客の多い18か国・地域のうち、台湾、中国、タイ、マレーシア、米国、フランスなど16か国・地域がこれまでの最高を更新した。」~1月20日:読売電子版

急増する訪日外国人客のお世話をする職種の一つが通訳案内士。「通訳案内士」の文字検索で弊ブログにたどり着かれた方はすでにご存知だと思いますが、ご存知でない方もご訪問いただいているのではないかと思いますので、サブタイトルにある「通訳案内士」について、ちょっとまとめておきたいと思います。

通訳案内士は国家資格、それも語学系では唯一の国家資格なんですね。えっへん! と、自慢するほどではないのですが、合格者は「官報」に記載されます。よい記念にはなります。

どんな資格かというと・・・

「通訳案内士(英語 Licensed guide)とは、観光庁長官が実施する国家試験「通訳案内士試験」に合格して、通訳案内士として登録した者のみが従事でき、観光客に対して外国語通訳及び観光案内を行って報酬を得る職業。外国観光客相手のプロの観光ガイドのこと。」~ウィキペディア

「通訳案内士(通訳ガイド)を規定する法律は、平成18年4月に施行された通訳案内士法があります。この法律の目的は、「通訳案内士の制度を定め、その業務の適正な実施を確保することにより、外国人観光客に対する接遇の向上を図り、もって国際観光の振興に寄与すること」(第1条)となっています。つまり、外国人による訪日観光の重要性を認めた法律であり、そのためには通訳案内士の保護育成が重要であると定められたものです。
 通訳案内士の業務の内容については、「報酬を得て、通訳案内(外国人に付き添い、外国語を用いて、旅行に関する案内をすること)を行うことを業とする」(第2条)となっています。「報酬を得て」ということは、たとえアルバイトでもガイド料金をもらって案内すれば、ガイドの登録を受けていない限り、違反になります。外国人相手の仕事なので、「外国人に同行する」「外国語を使う」というのは当然ですね。また「旅行に関する案内」ということは、観光地、交通機関、レストラン、観光土産品店などを含む日本事情一般を示しています。
 この仕事をする資格については、「通訳案内士試験に合格した者は、通訳案内士となる資格を有する」(第3条)とあります。したがって「通訳案内士でない者は、報酬を得て、通訳案内を業として行ってはならない」(第36条)ことになり、違反すると50万円以下の罰金に処せられます。(第40条)」~日本観光通訳協会

ということで、要は、国家資格を有した後に、有償で外国人観光客に外国語で日本を案内するガイドの事ですね。通訳案内士法によって規定されている職業なのですが、その歴史は、明治初年に遡ります。

「我が国において、通訳案内士という職業が、その社会的な重要性から法令上、初めて正式に規定されたのは、実に1世紀以上も前の明治40年(西暦1907年)であり、その名称は「案内業者取締規則、明治40年7月内務省令第21号」というものでした。これは観光関係法令としては我が国、最古のものであり、これが幾多の変遷を経て、現行の「通訳案内士法、最終改正、平成25年5月10日法律第12号」となったものです。」~『通訳案内士の歴史』瀬口寿一郎氏:ハロー通訳アカデミーのブログに掲載

名称は幾度か変更になりましたが、100年以上の歴史を有する通訳案内士。その資格を得るためにはまず、通訳案内士試験に合格しなければならないわけです。現在、10カ国語が、対象になっています。

試験は年1回行われ、一次(筆記試験)・二次(口述試験)に分かれています。日本政府観光局のサイトには、次のように紹介されています。

<筆記試験>
外国語(出願者の選択する一カ国語)
英語・・・記述式とマークシート方式の併用
フランス語、スペイン語、ドイツ語、中国語、イタリア語、ポルトガル語、ロシア語、韓国語、タイ語・・・記述式
(ただし、今年度一つの外国語科目が免除となり、併せて他の外国語科目の受験を希望する場合、又は二つの外国語科目が免除となる場合は二カ国語の申請を可能とする。)
日本語による筆記試験 (マークシート方式)
(ア)日本地理 (イ)日本歴史 (ウ)産業、経済、政治及び文化に関する一般常識
<口述試験>
筆記試験で選択した外国語による通訳案内の現場で必要とされるコミュニケーションを図るための実践的な能力について判定

但し、一次の筆記を免除する制度もあり、例えば、英検1級、TOEIC840点以上、仏検1級などの資格を持っている場合はその外国語の、歴史能力検定や地理能力検定の1級あるいは2級に合格している場合はその科目の受験がそれぞれ免除されます。詳細は、日本政府観光局(JNTO)のサイトで紹介されています。

では、実際、どれくらいの人が受験し、合格しているのでしょうか。最終合格者は毎年2月上旬に発表になるため、平成25年度(昨年2月発表)が最新のデータになります。24年度、25年度を見てみましょう。

(24年度:25年度の順)~日本政府観光局
受験者数=5,000人:4,706人
最終合格者数=713人:1,201人
合格率=14.3%(英語は13.3%、他の言語は20%前後が多い):25.5%(英語は30.9%、他の言語は20%前後が多い)

ということで、昨年度、急に英語の合格者が増えました。オフィシャルには急増する外国人観光客に対応するためとも言われており、今年度は、英語の一次試験免除にTOEIC840点以上という条件が加えられたため、いっそう多くの受験者がありました。受験者数は8,038人(対前年度比41.9%増)、英語に限っては、5,929人(対前年度比77.1%増)。英語だけで、近年の受験者数を超えてしまいました。また、当然ですが、より多くの最終合格者が予想されています(今年度は2月5日発表の予定だそうです)。

しかし、試験に合格しただけでは通訳案内士の資格は得られません。居住する都道府県で登録をする必要があります。現在、どれくらいの通訳案内士が登録しているかというと・・・

平成26年4月1日現在=17,736人~観光庁
  英語=11,865人、中国語=2,202人、韓国語=964人、フランス語=811人、スペイン語=744人、
ドイツ語=538人、ロシア語=289人、イタリア語=190人、ポルトガル語=109人、タイ語=24人
(但し、一人で数カ国語登録している人もいますから、実際の人数は、17,736人より少ないのではないかと思います。)

合格者数と比べて、意外と少ないですね。通訳案内士試験受験者の中には、語学の資格の一つとしてチャレンジすることが目的という人も少なくないことが一因なのかもしれません。例えば、英検1級、国連英検特A級、TOEIC990点を取った、他に何か資格はないのか、ということから受験する方も多いのかもしれません。実際には、語学、特に英語の一次試験の敷居は低くなり、ここまでの英語力は求められていないようですが、いずれにせよ、試験に合格すればよく、就業するつもりはないので登録しない、という方も多いのでしょうね。

では、実際登録している通訳案内士のプロフィールは、というと・・・

年齢:50代=31%、60代=24%、40代=23%、70代以上=12%、30代=9%、20代=1%
*定年退職あるいはその直前の方、子育ての一段落した方が資格を取られるケースが多いのかもしれませんね。

登録地:東京=30.3%、神奈川=13.1%、大阪=8.7%、千葉=6.7%、兵庫=5.7%、埼玉=5.5%、京都=3.9%
*これら1都2府4県でほぼ75%を占めてしまいます。同じ地域の人口の総人口に占める割合は約40%ですから、通訳案内士にはかなり地域的偏りがあるようです。外国人旅行者が多い地域のためなのか、外国居住経験者が多いせいないか。いずれにせよ「外国」が身近にあるところほど、通訳案内士に興味を持つ人が多いのでしょうね。

また、登録はしたものの、実際には稼働していないという人も多いようです。

資格活用状況~観光庁
未就業=75.7%、兼業=18.1%、専業=6.2%

ということで、試験に受かり、登録もしたが、その資格を活かしていない人が4人に3人。もともと就業するつもりはないが、試験に受かったので、一応登録だけはしておく、という人が多いのかもしれないですね。兼業の人は、語学教師、翻訳などとの兼業が多いのではないでしょうか。

専業が少ないせいか、就業日数も少なくなっています。

年間就業日数~観光庁
1~10日=32.8%、11~30日=17.5%、31~50日=8.1%、51~100日=14.7%、101~150日=5.2%など

従って、収入も少ない。

通訳案内行に関わる年収~観光庁
1~9万円=13.2%、10~99万円=30.1%、100~199万円=11.3%、200~299万円=7.2%など

「ニワトリが先か、卵が先か」ではないですが、定年後や子育て終了後の社会参加を目的とする人が多いから、就業機会・収入が少なくてもいいのか、収入が少ないから、専業でやろうという人が少ないのか・・・たぶん、後者がそもそもの背景で、そこに海外経験のある退職者や語学が好きな子育て終了者が社会参加の一手段として加わってきた、というところではないかと思うのですが、資格を取って2年、実際に稼働し始めて1年弱の新人通訳案内士には、自信を持ってこうなんだと言い切れないのが残念ではあります。

ただ、いずれにせよ、資格を取得するにはそれなりのハードルがありますが、それを活かすのは試験以上に難しい、まして専業で食べて行くとなると・・・

これだけでも残念なのですが、通訳案内士をめぐる環境には、さらなる難問が・・・春秋の観光シーズンに外国からの観光客も集中するせいでしょう、繁忙期に、それも主要観光地において通訳ガイドが足りないという状況が発生することがあるようで、特区案内士(都道府県が行う研修を経て、その地域のみで有償で通訳ガイド業を行える)やボランティアガイドを増やすという動きが進展しています。京都府では特区案内士の研修を来年度から始め、再来年度にはデビューさせるそうです。また、東京都は、学生や主婦を中心にボランティアガイドを大幅に増やすとか。

試験を受けずに研修だけでなれる特区案内士の場合、報酬は押さえられるでしょうし、ボランティアガイドはあくまでボランティア・・・ということは、通訳案内士の報酬(日当)も減額される、あるいは、稼働日数が減るということが十分に考えられます。「民間外交官」とも言われ、「語学力」にプラス「日本文化に関する知識」、「おもてなしの心」、「旅行スケジュールの管理・危機管理といった添乗業務」をあわせ持つ通訳案内士、その立場が危うい・・・

「従来からガイドとして就業するためには、語学関連では唯一の国家試験に合格し、あらゆる分野の国情を把握し、それなりの専門知識を具備することが要請され、殆どのガイドはそれに応えてきましたが、それにもかかわらず、その社会的、経済的な地位は漸次、低下するのみでした。この原因は客観的にもいろいろとあり、ガイド自身の努力だけではいかんともしがたい点があった事実は否定出来ませんが、一方ではガイド自身でとるべき可能で妥当適切な対策、手段をとることを怠り自らその墓穴を掘った感が無きにしも非ずであったことも、これまた否定できない事実です。」「今まさにその公正妥当な職業存続の正念場にあるガイド」~『通訳案内士の歴史』瀬口寿一郎氏:ハロー通訳アカデミーのブログに掲載

事ここに至って、通訳案内士の団体が結束し、通訳案内士の立場を守る運動を始めました。その尽力がぜひとも実ってほしいものです。

勲章・・・ほしい人、拒否する人、無関心な人・・・あなたは?

2015-01-18 23:56:29 | フランス・メディア
昨年からの話題の本、それも経済に関する本と言えば、トマ・ピケティ氏の『21世紀の資本』(“Le Capital au XXIe siècle”、2013年刊)。和訳ももちろん出ていますが、私をはじめその厚さに恐れをなす人が多いせいか、ピケティ入門といった本まで数冊出ています。しかも、そうした本が売り切れて、数週間待ちの状況になっています。

また、NHKのEテレではピケティ氏が出演する「パリ白熱教室」を1月9日から6回シリーズで、金曜の夜11時から放送していますし、1月29日から2月1日まで、ピケティ氏本人が来日し、シンポジウムや講演会に出席します。まさに、ピケティ・ブームですね。

経済は門外漢の私がピケティ氏の著作や理論について何かを語ることは難しい・・・ここでは、ピケティに関する別の話題をご紹介したいと思います。

その前に、まずは、ピケティのプロフィールから。

Thomas Piketty・・・1971年5月7日、パリ郊外のクリシー(Clichy)で、裕福な家庭に生まれる。両親は、1968年の五月革命を契機に誕生した極左トロツキスト政党 « Lutte Ouvrier »(労働者の闘争:LO)の党員で、後、南仏、スペインとの国境に近いオード県(Aude:県庁所在地はカルカソンヌ)に移り、ヤギを飼育する畜産農家となる。トマは、バカロレアC(Mathématique et Sciences physiques:数学・物理)に合格し、数学の準備学級を経て、18歳で高等師範学校(l’Ecole normale supérieure)に入学。しかし、興味・関心が経済学へと向かい、社会科学高等研究院(l’Ecole des hautes études en sciences sociales)とロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学ぶ。1993年、22歳で経済学博士号を取得。その博士論文は同年の最優秀学位論文賞(le prix de la meilleure thèse de l’année 1993)を受賞。

1993年から2年間、MIT(マサチューセッツ工科大学)で教鞭をとる。その後、フランスに戻り、研究・教育に邁進。主要分野は、経済的不平等の研究(l’étude des inégalités économiques)。2002年には、フランス最優秀若手経済学者賞(Le prix du meilleur jeune économiste de France)を受賞。2013年には、経済学の理論・運用でヨーロッパに多大な貢献をした45歳以下の経済学者に贈られるユルヨ・ヨハンソン賞(le prix Yrjö Jahnsson)を受賞。なお、1993年に創設されたこの賞の第1回受賞者には、昨年のノーベル経済学賞を受賞したジャン・ティロール氏(Jean Tirole)も名を連ねている。

政治的立ち位置は社会党(PS)に近く、リベラシオン紙(Libération)の編集委員を務めるとともに、ルモンド紙(Le Monde)にも寄稿をしている。2007年の大統領選挙では、社会党公認候補だったセゴレーヌ・ロワイヤル女史(Ségolène Royal)を支持。経済顧問を務める。また近年では、その研究・思想が、2011年の“Occupy Wall Street”(ウォール街を占拠せよ)に大きな影響を与えたとも言われている。

こうして、いくつもの賞を受賞した高名な経済学者であるトマ・ピケティ氏のプライベートは・・・プライベートは仕事に影響しない限り問題とされないフランスですが、門外漢としてはやはり、興味がありますね。

かつてパートナーだったのは、社会党所属の下院議員で作家、そしてオランド大統領の下、2012年5月から14年8月まで文化通信大臣(ministre de la Culture et de la Communication)を務めていたオレリー・フィリペティ(Aurélie Filippetti)女史(1973年6月17日生まれ)。かつてのパートナーということで、既に解消しているのですが、どうも、2009年、ピケティ氏はDVでフィリペティ女史に訴えられたようです。氏の謝罪を受け入れて、訴えは取り下げられたそうですが、順風満帆の人生のように見えて、プライベートでは、それなりに、いろいろあるようですね。

なお、フィリペティ女史、2012年から14年の夏までは、かつて中道・右派のUMP(Union pour un mouvement populaire:国民運動連合)に属し、シラク大統領の下、担当大臣などを務めたド・サン=セルナン氏(Frédéric de Saint-Sernin)とパートナー関係にあり、同年秋には、社会党の下院議員で2014年8月まで経済相(ministre de l’Economie)などを歴任したモントブール氏(Arnaud Montebourg)との関係が、パリマッチ誌に暴かれてしまったようです。“Vive la République ! Vive la France ! et vive l’amour !”(共和国万歳。フランス万歳。そして、恋愛万歳:前の二つ、大統領の演説などの最後に言われる、言ってみればスローガンのようなものですね)といった、感じですね。さすが、フランスです。

さて、さて、肝心のトマ・ピケティ氏をめぐる話題ですが、1月1日のルモンド紙電子版に“Thomas Piketty refuse la Légion d’honneur”(トマ・ピケティ、レジオン・ドヌール勲章受賞を拒否)という見出しの記事が出ていました。もう半月以上も前の話題で恐縮ですが・・・

プロフィールにあるように、多くの賞を受賞してきたピケティ氏は、なぜ、レジオン・ドヌール勲章の受章を拒否したのでしょうか。記事が伝えるには、「私はこの勲章へのノミネートを拒否する。なぜなら、誰が受賞にふさわしいかを決めるのは政府の役割ではないと思うからだ。国家はフランスとヨーロッパの経済活性化に打ち込むべきだ」ということだそうです。

ピケティ氏を推薦したのは、高等教育研究担当大臣であるフィオラゾ女史(Geneviève Fioraso)で、ピケティ氏の研究・業績とその国際的名声はフランス共和国によって称賛するにふさわしいと推薦理由を述べていますが、同時に「この賞を受け取るか否かはピケティ氏次第だ」と述べています。さすが、「自由」の国、フランスですね。

記事はまた、国際的に評価の高い『21世紀の資本』が本国フランス、特に政府関係者の間であまり大々的に称賛されていないと伝えています。なぜか・・・ピケティ氏は政治的には社会党に近いものの、オランド大統領による政策を非難している。特に、大統領選挙時の公約、高額所得者への累進税率を上げることによる財政状況の根本的改革を葬り去ってしまったことを、支持していただけに残念に思っている。「オランド大統領の財政及び経済政策にはその場しのぎがあるように思う。まったく嘆かわしい」と述べている。

ということで、オランド政権への期待が裏切られたと非難しているピケティ氏、その非難を快く思わない現政権。そのために、『21世紀の資本』への賛辞にもフランス国内と国外では温度差があるようです。

であれば、受賞拒否の真の理由は、レジオン・ドヌール賞の受賞者を決めるのは政府ではない、という一般論ではなく、自分の期待を裏切ったオランド政権からの賞は受け取らない、ということなのではないかと、思えてきてしまいます。以前には、多くの賞を受賞してきたわけですからね。さすが、「個人」を大切にするフランスです。

レジオン・ドヌール賞の受賞を拒否したのは、もちろんピケティ氏が初めてではなく、氏はその長いリストに新たに加わった、ということだそうです。記事が紹介している、主な受賞拒否者は・・・

・レオ・フェレ(Léo Ferré):歌手、“Avec le temp”“La Solitude”など。
・ジョルジュ・ブラッサンス(Georges Brassens):シンガー・ソングライター。“Chanson pour l’Auvergnat”“Les Amoureux des bancs publics”など。フランス国内では、絶大な人気を誇った。
・ピエール・キューリー(Pierre Curie):科学者、有名なキューリー夫妻の夫。
・ジョルジュ・サンド(George Sand):作家、ショパンとの逃避行などでも名を馳せる。
・クロード・モネ(Claude Monet):画家、『睡蓮』の連作がとくに有名。
・ジョルジュ・ベルナノス(Georges Bernanos):作家、『田舎司祭の日記』(Journal d’un curé de campagne)など。
・ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre): 哲学者・作家。1964年には、ノーベル文学賞受賞を辞退・・・「いかなる人間も生きながら神格化されるに値しない」
・シモーヌ・ド=ボーヴォワール(Simone de Beauvoir):サルトルのパートナー、作家・哲学者。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」(『第二の性』)
・アルベール・カミュ(Albert Camus):作家、『異邦人』など。1957年、ノーベル文学賞を受賞。
・ジャック・タルディ(Jacques Tardi):漫画家、“Aventures extraordinaires d’Adèle Blanc-sec”など。
・アニー・テボー=モニー(Annie Thébaud-Mony):労働に起因する癌など、職業病の専門家。

辞退、拒否の理由は・・・恥辱と不幸のリボン(フェレ)、受け入れ難いとんでもない運命(ブラッサンス)、その必要を感じない(キューリー)、年取った食堂の女将のような雰囲気をまといたくない(サンド)などさまざまですが、自分の芸術、あるいは研究の成果は、政治家なんかに分かるものか、そんな気分というか、気概といったものが感じられますね。王制を自らの手で打倒し、帝政を自らの手で終わらせたフランス人ならではの、意気軒高さでしょうか。現政権への批判があるとはいえ、こうしたニュアンスはピケティ氏にもきっと、あるのでしょうね。「誰がレジオン・ドヌール賞にふさわしいかを決めるのは、政治家ではない」・・・文化勲章は、誰が決めているのでしょうね。

なお、文化勲章辞退者は、河井寛次郎(陶芸)、熊谷守一(洋画)、大江健三郎(小説)、杉村春子(舞台演劇)の4人だそうです。それぞれに、筋を通した辞退だったようです。見習いたい、と思いつつも、同じような状況には絶対ならないだけに、ちょっとさびしい・・・

芸者、芸妓、舞妓・・・はたして、その実体は?

2015-01-11 23:48:38 | 通訳案内士
「ゲイシャ、フジヤマ」の国から、「マンガ、技術、おもてなし」の国へ。しかし、それでも、「芸者」人気は衰えないようで、外国人観光客の中には、芸者さんに会いたい、あるいは、せめて見てみたい、という方も多くいます。

京都の祇園界隈で舞妓さんや芸妓さんを写真に収めたいと待ち構えている観光客の方も多いですね。それも、男女問わず。中には一緒に写真を撮りたいと、お願いする人たちも。

しかし、最近では“和服で京都観光”がちょっとしたブーム。一見舞妓さん風ですが、その実、観光客ということもあります。何しろ、着物からかつら、かんざし、下駄までセットでレンタルしてくれる店もありますから、日本人女性はもちろん、アジアからのお客さんの場合でも、一見本物の舞妓さんのように見えてしまうことがあります。もちろん、着物の着方や立ち居振る舞い、歩く早さなどで、見分けはできますが・・・

さて、東京では「芸者」、それが京都では「芸妓」。しかも、「舞妓」もいる・・・その違い、またどのような修行をしているのか。二つの通訳案内士団体による研修が昨年12月と今年1月に京都でありました。花街、京都では「かがい」と発音されますが、その花街ウォーキングツアー研修、そして、舞妓さんの踊りを楽しみ、お座敷芸を試してみる研修、その二つの研修に参加してみましたので、その復習を兼ねて、「これは、知らなかったな~」、とか、「う~ん、これは面白い」といったことを、両団体のベテランガイドの方々がまとめて下さった資料を基にまとめてみます。


(がんこ高瀬川二条苑の庭の夜景、舞妓さんの舞を見ながら食事することもできます、広告ではありませんが)

今でも、舞妓さんを目指して花街に飛び込むのは、中学卒業後すぐ。しかし、高校卒業を望む親御さんも少なくなく、「宮川町では高卒資格を得るための通信制課程の受講を支援」(朝日新聞:2014年12月3日)しているそうです。また、以前新たに門をたたく希望者が減ったこともあり、リクルートに力を入れ、今ではウェブサイトを活用しているところもあるとか。花街も世につれ・・・ですね。また、増える外国人のお客様に対応しなくてはと、「講師を招いての英会話講座も始めて」(朝日新聞:同上)いるそうです。伝統としきたりの花街も、ずいぶん変わって来ているんですね。逆に、一見時代の先端を行っているような業種ほど遅れている、なんていうこともあるのかもしれません。

さて、中学校を卒業して花街へやって来て、いきなり舞妓になれるほど甘い世界ではないのは、言うまでもないですね。まずは、「仕込みさん」として置屋に住みこんで、舞妓としての立ち居振る舞いや芸事(舞・鼓・太鼓・三味線・琴・笛・能楽・長唄・常磐津・浄瑠璃・小唄・華道・書道・絵画など)、そして京ことばを学びます。今日では京都以外の出身者が大半を占めているそうで、京ことばの習得も一苦労。服装は普段着で、ノーメイクでよいそうですが、厳しい修行が10カ月から1年ほど続くことになります。そのあまりの厳しさに、舞妓への夢を断念し、故郷へ帰るというケースも少なくないそうです。そうした挫折がかなり見られる現状から、中学3年の夏休みに、1~2週間の実体験をしてもらうインターン制度を始めたところもあるとか。民間企業並みですね。

無事、1年近くの「仕込みさん」を卒業すると、「見習いさん」に。1か月ほど、見習い茶屋へ通い、お座敷を見学させてもらうことになります。見習いさんになると、地毛で髪を結い(割れしのぶ)、普段着から着物へと変身。しかし、舞妓さんと言えば「だらりの帯」ですが、見習いであることが分かるようにその帯を短くまとめて「半だら」にするそうです。

お客さんの前に出しても大丈夫だろうとなると、「お店出し」。舞妓としてのデビューですね。振り袖にだらりの帯、おこぼ(厚底の下駄)を履いて、髪には花かんざし。しかし、1年目は、紅をさすのは下唇だけ。また、「花かんざしの『ぶら』と呼ばれる飾りがあごのあたりまで下がっている」(朝日新聞:同上)ことで、舞妓1年生であることが分かるようになっています。なお、割れしのぶに結った地毛は1週間結い直すことがないので、崩れないよう、寝る時も首に当てる高枕を使うそうです。

舞妓として修業と経験を積むこと4~5年で、芸妓へ(襟替え・・・舞妓の朱い襟から芸妓の白い襟に替わる)。20歳を過ぎる頃ですね。芸妓になると、かつら着用、着物の袖は短くなり、帯は「お太鼓」、履物は草履や下駄へ。化粧も含めて、少女のかわいさから、女性としての美しさへと変身します。

芸妓として数年経つと、置屋の「おかあさん」が立て替えてくれた着物代、修行代などの費用相当分を稼ぐ、つまり年季があけて、「自前さん」になる。フリーランスの芸妓さんになるわけですね。しかし、それでも、修行が終わるわけではなく、一生、修行。日本舞踊専門の芸妓である「立方」(たちかた)、あるいは三味線や唄専門の芸妓の「地方」(じかた)となることが一般的ですが、中には、置屋やお茶屋を経営する人も出てくるそうです。

こうしてキャリアを積んでいく舞妓・芸妓。現在どのくらいいるかご存知ですか。昨秋の時点で、京都にはお茶屋が137軒あり、そこに舞妓が66人、芸妓が179人いるそうです。昭和初期には総勢1,800人ほどいたそうですから、随分少なくなったような気がしますが、それでも、20~30年前からは微増傾向にあるそうです。

舞妓さん・芸妓さんが活躍するのは花街。現在、京都には五つの花街があります。

・祇園甲部
最大の規模を誇る花街で、お茶屋66軒、舞妓22人、芸妓67人、と言われています。江戸時代初頭からの花街で、幕末から明治初期には、西郷、高杉、桂など多くの歴史上に人物が密談の場所に利用し、中には木戸孝光、伊藤博文、山形有朋、陸奥宗光など芸妓を娶った要人もいました。踊り(花街ごとに流派が異なります)は井上流、「都をどり」を毎年四月に祇園歌舞練場にて開催しています。修行の場は、八坂女紅場(やさかにょこうば)学園。なお、華道は五花街ともに裏千家です。


(祇園地区にある小路)

・祇園東
12軒のお茶屋に、舞妓6人、芸妓10人。1881年に祇園甲部から分かれた花街です。舞は藤間流。京都の花街で唯一、秋に舞踊公演「祇園をどり」を祇園会館で行っています。

・宮川町
お茶屋20軒、舞妓23人、芸妓37人。祇園祭の際にお神輿を鴨川のこのあたりで洗うことから宮川という名がついたそうです。出雲阿国が歌舞伎を始めた場所に近く、芝居町や茶屋街として発展した地域。舞は若柳流。毎年4月に、宮川町歌舞練場で「京おどり」を上演し、修行は東山女子学園で行っています。


(三味の音が聞こえてくる宮川町界隈)

・先斗町
舞妓8人に芸妓41人。鴨川沿いの三条通りから四条通りの間の約500mの地域。18世紀初頭、お茶屋、旅籠ができ、茶立て女が働き始めたのが起源とか。舞は尾上流で、修行を行うのは、鴨川学園です。

・上七軒
舞妓7人に芸妓22人。15世紀中頃、北の天満宮の火災後の修復作業で残った建材を払い下げて七軒のお茶屋を建てたのが起源という、京都最古の花街。西陣に近く、「旦那衆の奥座敷」とか「外の居間」と呼ばれていたそうです。舞は花柳流。

ところで、舞妓さんには複数の「おかあさん」と「おねえさん」がいます。置屋とお茶屋の女主人が「おかあさん」。おかあさんが日常の立ち居振る舞いから、お座敷に出る際の衣装などを指導してくれます。また「仕込みさん」から舞妓として「お店出し」するまでで3,000万円ほどかかるとも言われています。それを舞妓・芸妓としての花代で返すということになるのでしょうね。一方、芸妓はみんな「おねえさん」。いろいろと相談に乗ってくれるそうです。

出演料のことを東京では玉といいますが、京都では上記の通り「花代」。午後6時から8時までの2時間が一般的で、一本のろうそくの燃え尽きる時間が単位となり、花一本とか、花二本といいます。ただ、その表す時間が花街により異なり、複雑。祇園甲部では一本=5分ですから、2時間では24本になります。上七軒では一本=30分ですので、2時間で4本。この花代、舞妓、芸妓、またそのキャリアの長さ等に関係なく一律。気になる金額ですが、直接払うのではなく、お茶屋さんに食事代等も含めて払うそうで、お茶屋さんの格や食事内容等により上下しますが、目安としては、2時間で、舞妓1名・芸妓1名に食事・飲み物代を加えて、お客様3人の場合、1人あたり5万円弱になるとか。舞妓・芸妓の花代をお客の人数で割りますから、お客の人数が多い方が、一人当たりの負担は軽くなりますね。

上記で「お茶屋」とか「置屋」とか出てきましたが、花街ではうまく分業体制が出来上がっているようです。お茶屋は、お客の好みなどに合わせた舞妓・芸妓や部屋の組み合わせを考え、ひとつのお座敷をコーディネートする、言ってみればプロデューサー。置屋は、舞妓・芸妓の育成・管理を行う、いわばタレントプロダクション。またお茶屋は自ら料理をすることはありませんから、ケータリング担当の仕出し屋が加わります。こうした人たちが作り上げるお座敷で芸を見せるのが舞妓・芸妓というわけですね。

なお、一見さんお断り、といわれるように、付け払いのお茶屋さんでは信用のおける、そして品行方正な人物でないとお客になれません。そのため、常連客の紹介が必要になりますね。そうした紹介状が無理な場合は、食事と舞妓さん・芸妓さんがセットになったパッケージを用意している料亭などに頼むのがいいそうです。ネット上で調べることが可能です。

なが~い復習になってしまいましたが、まだまだ面白い情報はあるはず。芸妓さんが一生修行なら、浅学の身は、一生勉強です。

ハラキリからチャーリーへ・・・そして、ウェルべックの『服従』。

2015-01-08 22:01:50 | フランス・メディア
昨夜、8時過ぎだったと思いますが、速報が字幕スーパーで流され、その後、ニュースの時間をそれなりに割いて報道されているパリでの襲撃事件。襲われたのは、 週刊紙« Charlie Hebdo »のオフィス。その『シャルリ・エブド』ですが・・・

「フランスの週刊新聞『シャルリ・エブド』は風刺画が売り物で、前身は1960年に創刊された月刊紙『アラキリ』。アラキリは極左的な過激な紙面が売りだったが、60年代に2度の発行禁止処分を受けた。週刊化後の70年にはドゴール元大統領の死去を巡る表現で再び発禁に。その後、現在の題名で再刊し、一時休刊の後、92年に復刊された。
タブロイドサイズで16ページ。AFP通信によると、平均部数は約3万部。近年、発行を続けるために寄付を呼びかけていた。」

このように、1月7日付の朝日新聞電子版に紹介されています。若干、補足しますと・・・

創刊当初の誌名は « Hara-kiri »、そう、切腹のハラキリでした。フランス語では « h »を発音しないので、『アラキリ』。「アラキリ」は早くからフランスに浸透した日本語の一つですね。もう一つ、長く使われているのが、「カミカズ」。 « kamikaze »、最後の « e »が発音されないので、「カミカズ」となりますが、「神風」ですね。自爆テロを意味しています。今日でも、良くニュース等で聞かされます。

さて、発禁を乗り切るために1969年にタイトルを « Hara-kiri Hebdo »、 « L’Hebdo Hara-kiri »と2度変え、月刊誌から週刊紙へ。 « hebdo »は « hebdomadaire »の略で、「週刊」という意味です。この頃から使用しているキャッチフレーズは“bête et méchant”(お馬鹿で意地悪)。読者からの非難の手紙に書かれていた言葉を、自らのキャッチフレーズに使ってしまったとか。人を食った、新聞の性格をよく表していますね。

そして、1970年に « Charlie Hebdo »へ。紙名を変える際、さすがにもう « Hara-kiri »は使えないと思ったのか、 « Charlie »を採用しました。この「チャーリー」は1968年創刊のコミック誌 « Carlie Mensuel »(月刊チャーリー)から拝借したそうです。人的交流があったからのようですが、この「チャーリー」のルーツは、チャーリー・ブラウン(Charlie Brown)、そうマンガ『ピーナッツ』(Peanuts)の主人公の名前です。

月刊チャーリーをもじって、週刊チャーリーへ。しかし、その風刺精神が度を越したのか、1981年に廃刊の憂き目に。しばしの休刊期間を経て、1992年に同じタイトルで復刊されています。毎週、水曜が発行日。打たれても、打たれても、批判精神、風刺精神は不滅で、さまざまな物議を醸してきましたが、ついに編集長兼発行人や主要な風刺画家を失うこととなってしまいました。

襲撃された今週の水曜日に発行された最新号の一面に描かれていた風刺画・・・一人の男性が描かれていますね。誰だと思いますか・・・たぶん(今週号の実物を手にしていないので、映像でちょっとだけ見た限りでは、ということで、申し訳ないのですが、たぶん)、作家のミシェル・ウェルベック(Michel Houellebecq)だと思います。「若者はジハードを好む」という題の最新号の表紙に、どうしてフランス人作家が?

「フランス現代文学界で最も知名度が高く、最も多くの言語に作品が翻訳されている小説家の1人である」(1月6日:AFP=時事)ウェルベック氏の最新作は、 « Soumission »(服従)。その内容は・・・

2022年のフランス。そこでは、「イスラム政権の下、女性たちはベールをかぶり、パリ・ソルボンヌ大学(Paris-Sorbonne University)はパリ・ソルボンヌ・イスラム大学と改名されている。(略)穏健派イスラム原理主義組織「ムスリム同胞団(Muslim Brotherhood)」による架空の政党が生まれ、2022年の大統領選挙でマリーヌ・ルペン(Marine Le Pen)氏率いる極右政党、国民戦線(National Front、FN)を打ち破り、「モハメド・ベン・アベス(Mohammed Ben Abbes)大統領」率いるフランス史上初のイスラム政権誕生への道筋が描かれる。語り手の「フランソワ」が働くパリ・ソルボンヌ大学は「パリ・ソルボンヌ・イスラム大学」と改名され、女性たちは西洋風の衣服を脱ぎ捨てベールをかぶることを支持し、非イスラム教徒の教授たちは改宗しなければ失職する・・・」(1月6日:AFP=時事)

こうした作品と『シャルリ・エブド』最新号のテーマが結び付けられているのかもしれませんね。しかし、それにしても、描かれているウェルベック氏の顔、本人が嫌がるであろう所が強調されていますね。だからこそ、似ている、似顔絵になっているのかもしれませんが。ごく最近、件の本の出版に関してFrance2の夜8時のニュースに出演した際には、もう少し見てくれが良かったと思うのですが・・・

ところで、空想の近未来と言えば、 « Africa Paradis»(アフリカ・パラダイス)というフランスとベナンの合作映画が2007年にフランスで封切られました。その内容は・・・

時は2033年。アフリカは「アフリカ連邦」としてひとつにまとまり、経済等も急成長。いまや世界の中心のひとつに。一方ヨーロッパは、かつての栄光や今いずこ。疲弊しきった社会で、職もなく、教育もおざなり。まったく良いところなしの社会に成り果て、アフリカ移住のためのビザを求める多くの人が大使館前に長蛇の列を作る有様。しかし、いくら学歴があろうと、フランスの教育レベルは低いから同等とは認められず、アフリカ連邦に必要な人材として認められない、つまり移住が認められない。そこで、不法移民になってでも職のため、暮らしていくためにアフリカに渡りたいという人たちが現れる。主人公カップルもそうして不法移民としてアフリカにもぐりこむ・・・(弊ブログ『50歳のフランス滞在記』2007年3月17日「立場逆転の映画」)

見果てぬ夢とは思いつつも、こうした作品が生まれてしまう、そんな時代、そんな社会なのでしょうね。

さて、『シャルリ・エブド』での編集会議中を襲われ、命を落とした中には、著名な風刺画家たちが含まれています。『ル・モンド』の記事 “Attentat contre « Charlie Hebdo » :Charb, Cabu, Wolinski et les autres, assassinés dans leur rédaction”(1月8日)を基に、若干補足しつつ、数人ご紹介しましょう。

・カビュ(Cabu)
本名はJean Cabut(ジャン・カビュ)。1938年生まれで、風刺漫画の大家。15歳にしてすでにランス(Reims)の新聞に挿絵が採用され、20歳のときに『パリ・マッチ』を活躍の場にしました。2年の兵役を経て、1960年から『アラキリ』でも活躍。1970年代からは、マンガによる世相批評(BD-reportage)の先駆者として、さらに活躍。歌手、シャルル・トレネ(Charles Trenet:『ラ・メール』(La Mer)や『詩人の魂』(L’Ame des poètes)で日本でも有名ですね)の熱烈なファンでした。因みに、シャルル・トレネには“le Fou chantant”(歌う狂人 / 道化師)というニックネームがありました。作家のアンドレ・ブルトンが名付け親だそうです。
*カビュの作品等は、弊ブログ『50歳のフランス滞在記』2006年10月6日の『「Cabu展-パリの風刺漫画』でご覧いただけます。

・ヴォランスキ(Wolinski)
本名はGeorges Wolinski(ジョルジュ・ヴォランスキ)。1934年、チュニジアのチュニスで、イタリア系フランス人の母とポーランド系ユダヤ人の父の間に生まれる。80歳。カビュと共に、漫画家、風刺画家の精神的支柱。生まれながらのアジテーターであり、折り紙つきの悲観主義、皮肉屋そのもの、といった性格。1960年に『アラキリ』で活躍を始める。1990年代には広告業界でも活躍。レジオン・ドヌール勲章を受勲している。芝居や映画の台本・脚本も手がけている。

・シャルブ(Charb)
本名はStéphane Charbonnier(ステファーヌ・シャルボニエ)。1967年生まれの漫画家。2009年から « Charlie Hebdo »の発行人を務める。2011年に『シャルリ・エブド』のオフィスが放火され、脅迫文が届くなどしたため、警察の警護がついていた。

・ティニュス(Tignous)
本名はBernard Verlhac(ベルナール・ヴェルラク)。祖母が南仏方言であるオック語で彼を呼んでいたTignous(今日のフランス語ではpetite teigne、性悪坊主、といった意味)をそのままペンネームにしている。Charlie Hebdoをはじめ、L’Humanité(かつてのフランス共産党機関紙)、Marianne(左派系の週刊誌)、L’Express(日本の店頭でも手に入る有名週刊誌)などに作品を発表。死の脅迫を受けた « Charlie Hebdo »を描いた、ダニエル・ルコント(Daniel Leconte)監督のドキュメンタリー映画に、ヴォランスキ、カビュらとともに出演。この作品は、2008年のカンヌ映画祭で最優秀撮影賞を受賞。

これら4人以外に『シャルリ・エブド』関係者が6名、そして警官が2名、計12名が凶弾に倒れています。そして、フランスはもちろん多くの国々で、報道の自由、言論の自由を守れというデモ・集会が行われています。さて、日本では・・・「ふらんすへ行きたしと思えどもふらんすはあまりに遠し せめては新しき背広をきて きままなる旅にいでてみん」と詠ったのは、萩原朔太郎。この詩編の発表(1913年)から1世紀を経て、どう変わったでしょうか。やはり、フランスはあまりに遠し。ヨーロッパの方のどこかで、怖い事件があったみたいだね、でおしまいでしょうか。心の国際化は、どこまで進んだのでしょうか・・・

初詣は、羊神社。

2015-01-04 20:07:04 | 国内旅行・歳時記
今年は、未年。しかも年男ともなれば、初詣は、当然のことながら、羊神社へ。その「羊神社」、日本に2か所あるそうです。群馬県安中市と名古屋市北区。12年ごとに初詣客が急増するのでしょうね。

その1か所、名古屋市にある羊神社に行ってきました。名古屋駅から地下鉄を、東山線―名城線―上飯田線と乗り継ぎ、上飯田駅へ。駅から徒歩10分弱。住宅街にある、こじんまりとした神社ですが、NHK夜7時のニュースでも紹介されたためか、すぐ前の道が一部通行止めとなり、交通整理の係員も。昼頃に着いたのですが、参詣客が100メートルほどの列を作っていました。



石造りの鳥居をくぐると、左前方に手水舎(ちょうずや)が。さすがは羊神社、龍の代わりに羊の口から水が流れています。



拝殿に近づくと右側に狛犬ならぬ、狛羊、それも親子の羊が寄り添っています。



狛羊の脇には、名古屋市教育委員会のよる羊神社の来歴が日本語と英語で記されています。
「『延喜式神名帳』に山田郡羊神社、『本国帳』に従三位羊天神とあるのがこの神社で、祭神は天照大神、火迦具土命(ひのかぐつちのみこと)の二柱を祀る。棟札に慶長十八年(1613)癸丑(みずのえうし)八月五日とある。またこの付近の町名、辻町の語源は「ひつじ」が転じたものといわれる。」
“This shrine is consecrated to the divinity of “Amaterasu-omikami” and “Hinokagutsuchi-no-mikoto”. It is believed that its neighborhood’s name, “Tsuji-machi” was derived from [hitsuji : sheep].”

現存する拝殿は17世紀の建立されたもののようですが、延喜年間、つまり901~923年に編まれた神名帳にすでに羊神社として記載されていたようですから、1,000年以上の歴史ある神社なんですね。

また、3日付のスポニチアネックスには、「奈良時代、この場所に群馬県多野郡の領主だった「羊太夫(ひつじだゆう)」が立ち寄った屋敷があったとされ、土地の人が安心して平和な暮らしができることを願った羊太夫が「火災除」の神を祭ったのが由来。宮司の半田収さん(84)は「羊太夫のように“家庭円満で安心して暮らせるように”という気持ちでお参りしてもらえれば」と話す。」という説明が出ていました。羊大夫の領地が、今の安中市なのかもしれないですね。

日本の建築物は、火災によってしばしば焼失してきました。火災除けはそれだけ大切だったのでしょう。火災除けの御札は今でも売られています。



付近の地名も、火災除けと羊大夫の名から「火辻町」と名付けられていたのが、「火」の文字があっては却って火災を招きやすいということで、火の文字を消して「辻町」となった、という説もあります。

因みに、ウィキペディアによると、
「多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)は、奈良時代天武天皇の時代(672年~686年)に活躍したとされる上野国(群馬県)の伝説上の人物(豪族)。伝承では多胡郡の郡司だったとされる。」
ということで、多胡羊太夫は伝説上の人物で、詳細は分かっていないようです。

通常の年は、三が日で2,000~3,000人の参拝者だそうですが、今年は元日だけで27,000人。通常の10倍用意したお守りの中には早くも売り切れになってしまったものも。

12年に一度の、参拝者の殺到。嬉しい悲鳴も、羊神社だけに、ウメ~。ウメ~と聞けば、もうすぐ、梅の季節。昨年の東京の梅の開花は1月19日。今年も熱海梅園の梅まつりは1月10日(土)から3月8日(日)までですので、早咲きの梅はもうすぐ、開きそうです。冬来たりなば、春遠からじ・・・ですね。ついでに、そのオリジナルは・・・
“If winter comes, can spring be far behind?”(イギリスの詩人、シェリー(Percy Bysshe Shelley)の長詩『西風に寄せる歌』(Ode to the West Wind:1819年)の末句)


登録は、お早めに!

2015-01-03 20:45:40 | 日本と日本人
2012年度のフランス語、2013年度の英語の通訳案内士の資格を取り、実際に働き始めたのは2014年3月からですから、まだ実働10ヶ月、若葉マークの通訳ガイドです。海外勤務の長かったサラリーマン生活を一足早くリタイアした後、老後の社会参加、外国との付き合いの継続ができることはないか・・・と考えていたのですが、たまたまネット上で通訳案内士という資格を知り、資格を取得した次第です。外国からの旅行者と日本をつなぐお手伝いができれば・・・そう願っています。日本に関心があってやってきた旅行者を、帰国するときには、日本のファンに!

外国からの旅行者に日本の事を紹介するには、日本の事を知らなくてはならない。当然のことですが、一口に「日本」といっても、幅が広い! 歴史、美術、建築、歳時記、宗教、気候、現代社会・・・しかも、今の日本といっても、人気のスポット・食・アニメ・ファッション・キャラクター・ミュージック・スポーツ・平均寿命・平均所得・GDP・失業率・財政赤字・政党・投票率・交通死亡者数・自殺者数・大学進学率・・・知らなければならないことが、いっぱい。但し、こうしたことは、通訳案内士になったから知らなくてはいけない事柄ではなく、日本人であれば、当然知っておくべきことなのだとは思いますが、それにしても、自分の無知さ加減に改めて愕然としてしまいます。

ということで、日本についての、こんな事、あんな事についても、時々、ご紹介したいと思います。


(浅草寺の羽子板市で買った小さな、小さな羽子板。全長20cm弱)

まずは、登録・・・と言っても、通訳案内士としての登録ではなく、商標登録についてです。

日本企業の海外進出は、国際化の掛け声の下、ずいぶん前から進んでいますが、特に中国に進出した企業が直面することになる困難の一つに、商標登録がありますね。自社製品のブランド名が、既に、勝手に登録されてしまっている。私が20年ほど前に駐在した際に、既に問題となっていました。

この問題が、最近特に話題になるのは、讃岐とか、青森、富士山、今治といった地名が商標として登録されてしまっているため、讃岐うどんといえないとか、青森リンゴといえないといった問題が発生して、広く関心を呼んでいます。

使えるようにするには、どうすればよいのか・・・別のブランド名で発売する、あるいは、その登録された商標を買い戻す・・・ひどい、なんて汚い事をするんだ、と憤慨したくもなりますが、こうした事、何も中国の専売特許ではないそうです。一体、他にどこの国がやっているんだ?!

・・・ご推察の通り、日本だったんですね。さすがに、今はやっていないだろうという、根拠なき楽観主義、あるは希望的観測から、「日本だった」と過去形にしましたが、かつては、日本企業が日本に進出しそうな企業のブランド名を勝手に登録してしまい、相手企業が日本に進出後、買い戻した、なんていうことがあったそうです。

そうしたことを紹介していたのが、NHKのラジオ講座『まいにちフランス語』のテキスト12月号、応用編です。滞日経験の長いフランス人経営コンサルタント、ピエール・ボードリ氏(Pierre Baudry)へのファッションに関するインタビューです。「ボードリさんは1966年に来日、以降半世紀にわたって、日本に進出するフランス企業のコンサルタントとして活躍して来られました。」(同テキスト:P.72)

その第1回。冒頭部分で、ボードリ氏は次のように述べています。

Et ils respectaient pas les contrats, des enterprises japonaises, on parlait de marques, allaient au salon du prêt-à-porter à Paris, achetaient le catalogue et enregistraient toutes les marques. Le premier argent que j’ai vraiment fait, c’est en rachetant, en négociant le rachat de marques appartenant à des entreprises françaises que, des entreprises japonaises avaient indûment enregistrées. On oublie que ça se passait comme ça. (同テキスト:P.82)

「日本の企業は、契約を尊重していなかったし、先ほどブランドの話をしましたが、(日本の企業は)パリのプレタポルテの展示会に行っては商品カタログを買い、そのすべてのブランドの商標を登録してしまいました。私の本当にお金になった最初の仕事は、日本企業が不正に商標登録したフランス企業が持っているブランドの損害賠償を交渉することでした。こうしたことがあったことを、今私たちは忘れてしまっています。」(同テキスト:P.85)

日本に進出しようとしたフランスのファッション企業、しかし、日本に来てみたら、既に、勝手に日本企業によって自社ブランドが商標登録されてしまっていた。従って、買い戻す交渉が必要だったようです。

日本も、アジアだ! と、思わず当たり前のことを叫んでしまいそうですが、いやいや、アジア以外でも、こうしたことは起きている、かもしれません。浅学の身には、確信を持っては言えないのですが、少なくとも、日本がこうした「不正な」商標登録をしていたことは事実のようです。

中国がどこの商標や地名を勝手に商標登録してしまった、というニュースに接したとき、我らが、あるいは我らが先人たちがかつてやったことを忘れずにいたいものです。臭いものには蓋、これが日本の特徴だ、などと言わずに。