つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

それは、普段なかなか聞けない、弁護士の本音の独り言

神奈川県の道の駅全4駅

2022-06-27 14:17:22 | 晴れた日は仕事を休んで

神奈川県の道の駅巡りをしてきた。

昨日(6月26日)。

え?なんで昨日なの?土曜日じゃないの?だって金曜日(6月24日)のブログの最後に

「さて、明日は神奈川」

って書いてあったじゃん。

と思った方はちゃんとこのブログを読んでくださっている優良読者の方だ。

そう。行こうと思ってましたよ。土曜日に。

6月25日土曜日午前8時。

財布持って、ヘルメット持って、グローブ持って、着替えのTシャツ持って、タオル持って、携帯の充電用バッテリー持って、もちろん忘れずに関東道の駅スタンプBookも持って。

お気に入りのオートバイ用のブーツに履き替えて。

よし、完璧。

・・・と思ったら、あれ、オートバイのキーがない?

なんでだ?

探すこと15分。

キーは1週間前に埼玉県道の駅巡りから帰宅したときのまま、しっかり愛車BOLTYのキー・シリンダーに差し込まれておりました。

問題はそのキーの位置。

「ON⁉︎

思わず立ち眩(くら)みに襲われた。

スターター・スイッチを押しても、950cc空冷2気筒のエンジンはうんともすんとも言わない。

あぁ、どうしたBOLTY!

・・・って、1週間、ONのまま放置しといたんだ。バッテリーも上がっとるわ。完全に。


JAF呼ぶか?

いや待て、俺。

我が家の近くにいつも点検でお世話になっているレッドバロンさんがあるじゃないか。

よし。そこまで押して行こう!15分もかからないだろう。JAF呼ぶより早いかも。

というわけで、押して行きました。車両重量252kg(ガソリンや付属パーツの重量を除く)の愛車を。

靭帯(じんたい)損傷して車椅子に乗った小錦関を一人で押して病院に連れて行く付き人の気分だ。小錦は古い。最近なら山本山か。

力士の喩(たと)えはどうでもいいが、自宅から900mのレッドバロンさんまで45分かかった。

気温は既に32℃超え。容赦なく照りつけて来る太陽。たまにある緩やかな登りのスロープ。

ゴルゴダの丘に向かう磔刑(たっけい)のキリストもこんな気持ちだったのか?

死ぬかと思ったわ。まじで。

まだ両脚の太ももは筋肉痛だ。


汗だくになって息も絶え絶えに開店前のレッドバロンさんに辿り着き、開店準備で忙しそうなスタッフさんに頼み込んで見てもらったところ、バッテリー自体が古くなってるのと(既に交換目安の3年を過ぎている)、古いバッテリーを完全放電してしまうと、その後、充電してもまたすぐに上がってしまう危険があるとのことなので新しいバッテリーに交換することに。箱根の山中でバッテリー上がったりしたらシャレにならないので。

しめて22,000円なり。

まぁ、当分、バッテリーの心配はしなくてよくなったのでよしと・・・、できるか~い!


神奈川県の道の駅はわずか4駅なので、朝から出かけて1日で周りきってしまおうと計画を立てていたところにまさかのバッテリー死(殺したのは他ならぬ私だが)。

BOLTYのバッテリー交換が終わったとレッドバロンさんから私の携帯に連絡が来たときは既に正午前。もう、その日のうちに4駅周りきるのは無理だ。

というわけで1日、遅れての神奈川道の駅一周ツーリングである。

 

さて、この艱難辛苦(かんなんしんく)を乗り越えた神奈川県道の駅ツーリングの記録。たっぷりご堪能(たんのう)ください。

あと、バイク乗りの皆さん。

キーの抜き忘れには注意しましょう。

 

道の駅清川



 

道の駅山北

トイレではいろんなことをする人がいるらしい(カバー写真)



 

道の駅足柄・金太郎のふるさと



 

箱根峠(看板の写真を撮り忘れた)



 

箱根峠は100m先を走る先行のオートバイのテールランプも見えないくらいの深い霧だ。





おまけに寒い。

Tシャツの上に夏用のメッシュのオートバイ用ジャケットを羽織っていたのだがそれだけでは凍えるほどに寒い。

下界の暑さが嘘のようだ。

ところが、箱根スカイラインを金時神社まで下りてくると一気に夏の空が戻ってきた。





 

帰り道。

藤沢に立ち寄った後、東京に向かう246号に出ようとして道に迷う。

正面には沈みゆく夕陽。息を呑むほど美しいが、眩(まぶ)しくて目を開けていられない。



くっそー、危ねーなぁ。早く沈み切れよ、太陽!とぶつぶつ言いながら走っていて、ふと気づいた。

え?藤沢から東京に向かってるのに、正面に夕陽?

東京から遠ざかっとるわ、俺。


というわけで、予定より遅れること1日(バッテリーあがり)と1時間(藤沢から迷子)。無事、神奈川県道の駅巡りは終わりました。

次は山梨か?千葉か?

いやいや、梅雨の晴れ間を待っていたのに梅雨自体が明けてしまった。

次こそは、延び延びになっているOとのビーナスラインか。


道の駅。現在、全国で1194カ所

2022-06-24 11:31:48 | 晴れた日は仕事を休んで

ビーナスライン・ツーリングの約束が延び延びになっているOは「道の駅」巡りをしているという。もちろんHONDA GB350で。

「道の駅はスタンプラリーも開催しとって、各エリアごとにスタンプ帳も売っとるぞ!」

と名古屋弁で写真まで送ってきた。 



ほうほう。

ちなみに「道の駅」は、

①24時間利用可能な一定数を受け入れられる駐車スペースが確保できていること

②24時間利用可能なトイレと電話が設置されていること

③情報提供施設を備えていること

が登録の最低条件で、これに加えて地域振興目的施設として、その地域の特産物を格安で購入できる農産物直売所とか売店とかレストランを併設したりすることも多いから、必然的に地方に数が多くなる。

関東エリアでは、群馬県に32カ所、千葉県に29カ所、栃木県に25カ所、山梨県に21カ所、埼玉県に20カ所、茨城県に15カ所、神奈川県に4カ所。※長野県は全52カ所中、北部の34カ所が関東エリアに所属

東京都はなんと1箇所だけだ。ここ八王子滝山。




埼玉県の20カ所とは、

川口・あんぎょう



庄和



アグリパークゆめすぎと



童謡のふる里おおとね



かぞわたらせ



はにゅう



めぬま



おかべ



かわもと



いちごの里よしみ



おがわまち



和紙の里ひがしちちぶ



ちちぶ


 

果樹公園あしがくぼ



あらかわ



大滝温泉



両神温泉薬師の湯



龍勢会館



みなの



はなぞの



 

ということで、旭野高校ラグビー部キャプテン(だった)Oに勧められ、道の駅周りを始めてみた。

ラガーマンとしては、ひとたびグランドに出た以上、キャプテンの指示は絶対だ。

埼玉県の秩父エリアは首都圏とは思えない絶景の連続だった。








 

さて。明日は神奈川。


キャベツ畑は遥か遠く2

2022-06-22 01:39:00 | 日記
新聞奨学生の生活は過酷だ。
きっと今でも同じはずだ

毎日午前4時起床。
寮から歩いて5分の新聞販売所に行って、その日の折込チラシを手作業で新聞に挟み込んで、午前5時くらいから配達が始まる。
雨が降ろうと雪が降ろうと。

12時間後には夕刊の配達がある。
朝刊と違って折込チラシもないし、朝刊購読だけの家もあるので朝に比べれば楽なのだけれど、これまた配達は猛暑日だろうとなんだろうと関係ない。
なので、学校の授業が終わって友人たちとちょっとお茶でも・・・ということすら新聞奨学生には許されない。

そんな生活をしつつ、東京に出てきて最初の夏。僕は中型二輪の免許を取った。
同じ寮の2階にいた1年上の新聞奨学生の平山さん(下の名前は忘れてしまった。たしか中央大学法学部を目指している浪人生だった)は大のバイク好きで、ヤマハだかカワサキだか忘れてしまったけれど愛車はいつも丁寧に磨きあげられた400ccだった。たまに横浜や茅ヶ崎までタンデムで連れて行ってもらったりもした。
中学、高校と読み続けていた片岡義男は相変わらず僕のバイブルだった。
金があるとかないとかじゃなくて、あの当時の僕が中型二輪の免許を取ったのは、もう必然以外のなにものでもなかった。
金がないので公認の(つまりそこを卒業すれば運転免許試験場での実技試験が免除される)教習所には行けない。
平山さんが教えてくれた未公認の教習所に行って練習した。KM自動車教習所という名前だった。
鮫洲の運転免許試験場と全く同じに作られた荒川の河川敷の練習コースで、1時間2500円くらいの練習料を払って実技試験の練習をする(正確な金額は忘れた。もっと安かったかもしれない)。20回練習に通っても1回2500円なら50000円だから公認の教習所に行くよりは安い(ちなみに僕はその後、限定解除の免許も同じKM自動車教習所で練習して取った)。
2度目の試験で合格して、無理をしてローンを組みヤマハのXJ400を買った。嬉しくて毎晩、平山さんと都内を走り回っていた。

入学した専門学校(※日本ジャーナリスト専門学校=ジャナ専)の授業はつまらなくて三日で飽きてしまった。最低限の単位を取るためにしか顔を出さなくなった僕にとっては、平山さんとXJ400だけが友だちだった。
当時のXJ400はいくらだったのだろう。
今、ネットの中古車サイトを見てみたら200万とかで売られているらしい。確かに名車の部類に入るバイクだけれど、キチガイじみた値段だとしか思えない。少なくともあの頃の僕のような、ただただオートバイが好きなだけの貧乏青年がおいそれと手を出せるような値段ではなくなってしまった。

当時の値段は忘れてしまったけれど、僕は憧れのXJ400と引き換えに数十万円の借金も背負った。
前回の記事で書いたとおり所長は競馬狂い。
給料は遅れる。
親からの仕送りはない。
たまにキャベツやパンを盗んで飢えを凌ぐ。
焦っていたのだろう。
とにかく金が欲しかった。

そんな僕に小学校から高校まで一緒で、早稲田大学に入っていたSから連絡があった。
金になる話がある、という。
参加する人間は多いほどいいから、他にも声を掛けろ、という。
僕は同じジャナ専に通っていた、同じサンケイ新聞の新聞奨学生だったKちゃん(男)と、毎朝、配達途中の平和台の団地で顔を合わせていた朝日新聞の新聞奨学生のAちゃん(女)を誘った。
「俺の幼なじみの早稲田に行ってる信用できる奴の話だから」と声を掛けて、3人でSに連れられて新宿にある説明会場に行った。
会場には僕と同じようにSに誘われたのだろう、Sと同じく小学校から高校まで一緒だったHの姿もあった。仲の良かったHの顔を見て、さらに僕は安心した。

説明会場では高そうなスーツを着た男が、35万円の羽毛布団の購入を僕らに勧めてきた。
高級スーツを着た詐欺師が言った。

35万円で羽毛布団を買ってほしい。
分割払いを希望するなら信販会社もこちらで用意する。
羽毛布団を1セット買えば、君たちは「小売店」としての資格を手にできる。
「小売店」が誰かに羽毛布団を販売すれば、10%の売上手数料を貰える、という。
2人以上のカモに羽毛布団を売りつければ「小売店」は「代理店」に格上げされる、という。
「代理店」の売上手数料の率は8%に下がるけれど、自分が羽毛布団を売りつけた2人の「小売店」が、それぞれ新たな2名に羽毛布団を売りつければ、その「小売店」は「代理店」に昇格、「代理店」は「統括代理店」に昇格できる。
最初に自分が羽毛布団を売りつけた2名のその先の2名のそのまた先の2名の・・・、彼らが羽毛布団を誰かに売りつけるたびに君たちには売上手数料が支払われる。「統括代理店」「代理店」「小売店」の組織がうまく回り始めれば月収100万も夢ではない。

正確な金額と手数料のパーセンテージは忘れてしまったけれど、要するにマルチ商法の勧誘だった。

地方から出て来たばかりの、世間知らずで、貧乏で、頭の悪い僕らには、それがどれだけ破滅的な、馬鹿馬鹿しいくらいのインチキ商法なのかわからなかった。
小学校以来の幼なじみで、僕が大好きだった片岡義男の母校でもある早稲田に通っていたS。
彼が僕や僕の友だちを嵌(は)めるなんて考えもしなかった。

Sの実家は、母親が小学4年生だった僕を連れて親父と別居を始めたときに最初に住んだ三郷(さんごう)のボロ家の近くにあった。3階建ての立派な家だった。
3階にあったSの勉強部屋は8畳かそれ以上あって、僕と母親が寝ていた部屋より遥かに広く、そして綺麗だった。
家が近所ということもあって、Sはよく僕と遊んでくれた。
中学3年のときは同じクラスにもなったが、何故か、Sはヤンチャな不良少年グループのYやMから蛇蝎(だかつ)の如く嫌われていた。
不思議に思いつつも、寂しかった小学校時代にそばにいてくれたSを僕は友だちだと思い続けていた。
今から思えば、YやMは、鼻持ちならないSのインチキ臭さを不良少年の多くが備えている独特の嗅覚で感じ取っていたのだと思う。
僕はそんなYやMの嗅覚をこそ信じるべきだったのだ、とも思う。

僕とKちゃんとAちゃんとHに羽毛布団を売りつけたSにどれだけの「販売手数料」が入ったのかは知らない。興味もない。

そして僕とKちゃんとAちゃんは、羽毛布団のローンだけを背負(しょ)い込んだ。
「その日暮らし」を地で行くような貧乏な新聞奨学生たちが、だ。

昨年、ジャナ専の同期だったMさんから誘われて同期生の飲み会に初めて参加した。
まともに学校に行かなかった(卒業式の日でさえ、高田馬場の雀荘で麻雀を打っていた)僕は、正直、名前を名乗られても誰が誰やらさっぱりわからなかったけれど、Kちゃんの話題が出たとき、僕は凍りついた。

「そう言えばKちゃんてさ、ある時期から学校で狂ったようにみんなに羽毛布団売りつけようとしてたよね。あれ、ちょっとひいたわ」

「そのきっかけを作ったのは僕だ」と告白して、Kちゃんと今でも連絡を取っているのか、と飲み会に出ていたメンバーに聞いてみたが、誰もKちゃんが今、何処にいるのか、何をしているのか知らなかった。
そもそもジャナ専を卒業した後、Kちゃんが何処に行ったのかすら誰も知らなかった。

Sはその後、早稲田を卒業し、今では東海地方の某サッカー関係の団体のトップをつとめている。
故郷に帰って高校時代の仲間と会うと、みんなは口を揃えて「俺たちの同期の出世頭はやっぱりSだよなぁ」という。
「あいつ、この前、ポルシェに乗ってたぜ」とも聞いた。

しかし、僕にとってSは友だちだったが、彼にとって僕は金づるの一人に過ぎなかった。
自分が友だちだと思っていても、相手も自分のことを友だちと思ってくれているとは限らないこと。
世の中にうまい話などありはしないこと。
おいしい儲け話を持ちかけられたら、最初に「自分はそんな儲け話を教えてもらえるほどたいした人間なのか?」と必ず自問自答しなければならない、ということ。
それを怠って甘い餌(えさ)に食いついて地獄を見たとしても、それは全部、自分の責任なのだということ。
友情も、人間関係も、思い出も、平気で金に換算できる種類の人間が、自分のすぐ身近にもいるということ。
そういうことをすべてSは僕に教えてくれた。

いつかSを八つ裂きにしてKちゃんとAちゃんに謝らなければ、と思い続けてきた。
今もそう思っている。

僕は一生、Sという人間を許すことはない。

Kちゃん。達者でやってるかい?
あの時、よく調べもしないでSの口車に乗って説明会場に誘ったりして悪かったなぁ。

Kちゃんと一緒に説明会場に誘ってしまったAちゃんのその後も僕は知らない。
故郷の彼氏とは遠距離恋愛だと話していた。
月に一度だけデートをするんだと嬉しそうに話していた。
そして彼氏から貰ったというペンダントをいつも首にかけていた。
僕が知っている、これがAちゃんのすべてだ。
Aちゃん。あのときの彼氏とはちゃんと結婚できたかい?

僕は今、40年前に朝夕、サンケイ新聞を配達していたエリアのすぐ近くに住んでいる。
競馬狂いの所長のいた販売所はとっくに潰れた。
僕がパンを盗んだパン屋さんもとっくになくなった。
それでも。
散歩の途中で、僅かに残ったキャベツ畑を見るたびに、僕はKちゃんとAちゃんを思い出すのだ。
上州弁を直そうともせず、ジャナ専の学食で笑っていたKちゃんを思い出すのだ。
夏の日の早朝、健康的な身体をTシャツに包んで、「平岩さーん、おたがい頑張ろー」と手を振ってくれたAちゃんの声を思い出すのだ。
そして、早朝の、あるいは夕暮れの街を、自転車で走り抜けていく若い新聞配達を見るたびに、「どんなに貧乏で今が苦しくても、大切な友だちを不幸にするような取り返しのつかない失敗だけはするなよー」と声を掛けたくなってしまうのだ。

そんなことを言える立場ではないことは百も承知だけれど、僕が死ぬまでSを許さないように、KちゃんとAちゃんも僕を死ぬまで恨んで、けれど、忘れないで覚えていてくれるといいな、と思う。

どんなにキャベツ畑の記憶が遥か遠くに薄れようとも。

キャベツ畑は遥か遠く

2022-06-13 00:52:00 | 日記
30年来の友人Gちゃんと、彼の長男のS君と食事をした。
S君を間近に見たのは実に18年ぶりである。
初めて彼に会ったのは、S君の母上でもあり、Gちゃんの奥さんでもあったMさんの告別式だった。告別式の後、Gちゃんの先輩のNさんとカラオケに行き、私は泣きながら長渕剛さんの「祈り」を歌った。Nさんも泣いていた。

あの時、S君は小学1年生だったか。
母親を早くに亡くしたS君と弟はその後、Gちゃんの男手一つで(正確にはGちゃんと彼の母上の二人によって)育てられた。
S君は今年24歳になったという。
礼儀正しく、笑顔のかわいい、人好きのする青年に成長していた。
聞けば今、練馬区N町で一人暮らしをしているという。

今から40年前。
私が愛知県から上京して、サンケイ新聞(※当時はカタカナ表記だった)の新聞奨学生として東京で一人暮らしを始めた町もまたN町だった。
とっくの昔に潰れた、そのサンケイ新聞の販売所は、現在S君が住んでいるアパートから歩いて2分ほどの、川越街道の手前にあった。

新聞販売所のN所長は競馬好きで、毎週、ノミ屋で馬券を買っては私たちが集金してくる新聞の購読料をスってしまっていた。
給料が遅れることもしばしばで、販売所から新聞奨学生に提供すると約束されていた朝食と夕食だけではとても足りず、一緒に働いていた4人の新聞奨学生たちはいつも貧乏で、たいてい腹を空かせていた。
私は空腹を満たすために、配達途中に広がっていた畑から時々、キャベツを盗んできては、販売所の寮(築何十年だか見当もつかない一戸建てに私を含む3人の新聞奨学生が暮らしていた)でフライパンで炒めて食べた。味付けは醤油だけだった。

パン屋の店先のコンテナからパンを失敬して飢えを凌いだこともある。
あの頃、コンビニなどという洒落たものはなく、昔ながらのパン屋が2軒ほど、私の配達ルートの途中にあった。
パン屋はその日売るパンを毎日仕入れる。
仕入れたパンは早朝、配送のトラックが持ってきて、シャッターの降りた店先にコンテナごと置いていく。その積み重ねられたコンテナからパンを抜き取った。
せめてものお詫びに、パン屋が購読してないスポーツ紙をシャッターの下に差し込んでおいたりした。

入学した日本ジャーナリスト専門学校(※ジャナ専と呼ばれていた)にはほとんど顔を出さなかった。
午前4時に畑からキャベツを盗まなくても親にご飯を食べさせてもらえる同級生が羨ましく、さしたる理由もないままに彼らにイライラしたし、役に立つのやら立たないのやらさっぱり分からない専門学校の授業より、その日一日を生き抜くことの方が重要だった。
金もコネも知恵も力もなかったけれど、「こんなところで潰されてたまるか、今に見ていろ」といつも思っていた。
要するに貧乏で、捻(ひね)くれて、斜(はす)に構えて、世の中全部を敵に見立てることで、なんとか崩れ落ちないように自分を奮い立たせていた、ということだ。
あの頃、私に噛みつかれたりケンカを吹っかけられた人には申し訳ない、としか言いようがない。

今はどうだか知らないが、あの当時、つまり今から40年前。新聞奨学生はどの新聞社においても最低賃金レベルで使い捨てできる貴重な若い労働力だったのだと思う。そのことを私が思い知ったのは新聞奨学生初日のことだった。

全国から集められた私たちは、上京した最初の日、大手町のサンケイ新聞本社で(もしかしたら日本青年館だったかもしれない。この辺は既に記憶が曖昧だ)、たぶん、新聞奨学生を管理している部の部長だか役員だか偉そうな人の訓示を受けた。
サンケイ新聞本社(だったか日本青年館だったか)の大講堂みたいな場所に集められた私たちに向かって彼はこう言った。

「これから君たちは我がサンケイ新聞の新聞奨学生としての一歩を踏み出す。新聞というのは、どんなに優秀な記者が足を棒にして取材しても、どんなに素晴らしい記事を書いても、読者の家庭に届かなければ何の意味もない。尻を拭く役にすら立たない紙屑である。我々が作り出した『新聞』という、民主主義社会においてなくてはならない商品を、読者の家庭に毎日届けるのは君たちの仕事だ。君たちが読者の家庭に配達してはじめて、『文字を印刷しただけの紙』は『新聞』となるのだ。だから雨が降ろうと雪が降ろうと届けてもらわねばならない。人間だから風邪をひいたり体調を崩したりすることもあるだろう。しかし、そういう時に故郷のご両親に連絡などしてはならぬ。連絡したところで、故郷のご両親は何もできないではないか。わが子に何もしてやれない親は心配をするしかない。親に心配をさせる子どもを親不孝者という。君たちは親不孝者になってはならない。風邪をひいたり、体調を崩した時は、治ってからご両親に連絡したまえ。『前日まで体調を崩していましたが、今は元気です』と。それが親孝行というものだ。本当に君たちの身が危険な時は販売所の所長や我々がご両親に連絡してあげるから、君たちは日々の仕事と勉強に精を出したまえ」

正論である。
私の横に立っていた同い年の男は目を輝かせてウンウンと頷いていたけれど、私は、「要するに、お前たちは末端の労働力なのだから、俺たちが雨露をしのぐ場所を提供してやるかわりに、雨が降ろうと槍が降ろうと少々身体を壊そうと、ただ黙って働けってことじゃねーか」と思って聞いていた。
こういう正論を額面通りに受け取って首肯できる、自分と同世代の若者が自分の右隣にいる、ということに何より驚いた。

穿(うが)った、もしくは捻(ひね)くれた解釈とお叱りを受けるかもしれないが、私はあの時の訓示を聞いて、
「なるほど。金がない、というのは同い年の大学生たちのようにチャラチャラ浮かれた学生生活を送れない、というだけではなく、安価な労働力扱いされても文句も言えない、ということなのだな。これが社会というものか」
と妙に覚悟を固めたりした。

実際に働き暮らした新聞奨学生の生活はそんな想像を遥かに超えて過酷だった。
新聞奨学生として働けば、学費も生活費も住むところもなんとかなる、給料だって貰えると言われて、愛知の田舎から出てきた18歳の馬鹿ガキの甘っちょろい夢が叩き壊されるのにたいして時間はかからなかった。

(続く)


ビーナスラインは今日も雨

2022-06-12 09:21:00 | 晴れた日は仕事を休んで
オートバイで遠出できない週末が続いている。
梅雨だから。

「雨でも乗ればいいじゃん」
とか、
「今はいいレインウェアあるよ」
とか、色々、前向きなご意見もあろうが、たぶん、ほとんどのバイク乗りは
「ツーリング途中で雨に降られるのは仕方ないとしても、雨が降っている中をわざわざオートバイに乗って出かけようとは思わない」
と思っていると思う。

僕もそうだ。
というより、ツーリングの途中に雨に降られてびしょ濡れになるのは、ある意味、バイク乗りの幸せな特権だと思うけれど、雨が降っている中を(あるいは雨に降られることがわかっているのに)オートバイで出かけて行くのは苦行以外のなにものでもない、と思う。あるいはマゾヒストか。

オートバイというのは基本的に雨の中でも走行できるように作られてはいるのだが、あるバイク屋さんから聞いたところによると、「雨の中でも走り回ってきた中古のオートバイと、そうでない中古のオートバイとでは細部の程度が全然違う」のだそうだ。
愛車をそういう状態に追い込んでいくのも嫌だけれど、何より雨の日の走行は危険がいっぱいだ。

マンホールや路面に描かれた道路表示の文字は雨でツルツル滑る。
カーブの真ん中にマンホールがあったりすると、遠心力も作用して簡単に後輪を外に持っていかれる。
陽の当たりにくい裏道に積もっている落ち葉なんかも雨で濡れればバイク乗りには地雷に等しい凶器になる。
おまけにヘルメットのシールドが雨滴に覆われて昼間でも視界が普段の30%減くらいになってるから、夜間・雨天のオートバイともなれば目の見えない老人が地雷原を杖で突き回ってるようなものだ。
というわけで、ここ数週間、ツーリングの予定を立てては延期を繰り返している。

僕は基本的に他人にあわせて行動するのが苦手な人間なので、ツーリングに行くときも一人が多いのだけれど、今回はある男とのツーリングを楽しみにし続けている(そして、延期され続けてもいる)。

彼は小学校から高校まで一緒だった古い友人だ。もしかしたら幼稚園(だか保育園)も一緒だったのかもしれない。
親しくなったのは同じラグビー部員になった高校からだ。人望のあった彼はキャプテンをつとめていた。
その彼から、「中型バイクの免許を取った」と連絡が来た。
50歳を過ぎてからオートバイに目覚めた元ラガーマン。
これだけで小説が一本書けそうだけれど、残念ながら僕にはそういう才能はない。もちろん彼にも。僕にできるのは、彼から聞いた話をこのブログで記事にして未来のバイク乗りたちに紹介することくらいである。

免許を取った彼が購入したのはホンダのGB350。なんと納車まで1年待ちだったらしい。
これだ。



初めて乗る中型バイクにこのGB350を選択した彼のセンスに僕は脱帽した。
空冷単気筒。
無駄を徹底的に排した造り。
クラシカルなフォルム。
まだ聞いたことはないけれど、排気音も単気筒特有の優しく湿り気のないいい音がするのだろう。ヤマハの単気筒の名車、SR400の音に近いのだろうか。

GB350は現時点における正統派ブリティッシュ・バイクのひとつの完成形だと思う。
適当なことを書くと後からHONDAさんに叱られそうだけれど、GBとはGREAT BRITAIN(グレート・ブリテン)の頭文字ではないか。
僕はアメリカン派だけれど、こういう「THE・バイク」とでも言うようなブリティッシュ・バイクはとても格好いいと思うし、それを乗りこなす50過ぎのオヤジというのは、もう、一幅の絵になってしまうのではないか、とさえ思う。

これはもう、彼に会って、オートバイに目覚めた経緯を聞かねばならない。
ついでに僕の愛車ボルティ(↓)と彼のGB350をお見合いさせてやろう。


2台のオートバイのお見合いの場は新緑のビーナスラインがいいだろう。
新緑の高原の一本道を走る50過ぎのオヤジとGB350を写真に収めたい。できれば正面ではなく、後ろ姿がいいのではないか。
10代でも20代でも30代でもなく、色んなものを背負った上でGB350のシート上でそれを解き放った50過ぎのオヤジの背中が、緑の草原と真っ青な空に向かって吸い込まれて行く姿、というのは、もう、考えただけでもドキドキしてくるではないか。

というわけで、このところずっとビーナスラインを走る信州一泊の週末ツーリングの計画を立てている彼と僕である。

※カバー写真は「日本絶景街道を走る!」から