さいきんの流星光
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僕が「創作」と呼んでいるのはすべて焼き直し作業である。


創作活動とは、いったい何であろうか。



何ですか。

ゼロから1を生み出すとか、そういうカッコいい言葉が聞こえてきたりしますが、
僕がやってきた事といったら一体なんだと言いたくなる。

僕が歩いてきた道には、僕の足跡がずっと残されている。

僕の背中には、これまで僕がやってきたことや生み出してきた作品がぽとぽと落ちて散らかっている。

それらは、どんな物か。

手にとってみると、
おや、これはいつか見た、あの有名人の作品に似ているぞ。

こっちは、ナントカというイラストレーターの作品のオマージュという名のパクりではないか。

そんなモノが多数ごろごろしている。


僕が「創作」と呼んできたコトは、いったい何なのか。

ひと様のことではなく、僕自身の話。

そもそも創作活動とは、ゼロから1を生み出す作業ではなく、
1を漢数字の「一」に変換して
「いかがでしょう」と世間に見せる作業に他ならないのではないか。

あるいは、
大文字の「A」を少し小さな「a」にしてみたりして、
これが僕の創作物です。
なんて言ってるだけではないのか。
そう思えてくる。

物心ついた年ごろから、あるいは人語を理解できるようになったあたりから、
目や耳から浸入してくる創作物を見聞きして、
ぼくもやってみよう、それが僕の夢ってことにしようと思いついて、
ずっと何年も技術をみがいて、やっとそれなりに形になるようになったりして。

そうして生み出した作品が、すべて何かの焼き直しであったという事に僕は、
50歳をすぎて気づくのであった。




ならば世の中に、本当にゼロから1を生み出す人はいるのだろうか。

その生み出した1は、いったいどんな形をしているのか。

ひょっとしたら、それはこれまで僕が、
「わけわからん」と言って切り捨ててきた何かだったのだろうか。

誰かがつくった作品の焼き直しは、土台ができていてそれを叩き台にしているぶん作るのも楽だしブラッシュアップされている。

そういう作品の前で僕は、
「おもしろい」「なかなかいい」などと言っては立ち止まって眺めてきたのかも知れない。

それとも、誰かが焼き直したものの中に、
ひっそりと隠れるように、その作家の生み出した「1」が紛れ込んでいたのかもしれない。
その「1」は、作家自身も気がついていなくて、
作家自身も自分の作品は誰かの焼き直しだと気づいて悩んではいて、
自分の作品の中に「1」があるなんてみじんも思っていなくて、
ああ私はダメだ。ダメナノダ。と日々、空をみて
雲を数える。


そんな作家の屍が、大地をつくって空を青く染めるのであった。











長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました!

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仕事していて、音楽聴きながらとかニコニコ生放送で配信しながらとか他人の配信を見ながらだとかしながら仕事をしていて、気がついたらイライラしていた。

なぜなのか、何が契機となって気持ちがイライラし始めたのかわからないけど、足もとから忍び寄る霧のように気がついてみるとカラダ全体がザワザワしたものに包まれていた。

そういう時ぼくは、イライラに怒りをぶつけるため、
空想の中で自分を怒らせるような出来事を勝手に想像したり、
自分が怒りをぶつけてもいいようなとてつもなく失礼な人間を登場させたりして、
それらに対して怒りをぶつけたり暴力をふるったり怒号を投げつけたりするところを繰り返し繰り返し想像していた。
これまでは、そんな自分を客観的に見る余裕はなかったのだけれども、どうやらそういう事をしていたらしい。

そんな事をしても、イライラはまったく止まらないのに。
僕は阿呆だった。

考えてみれば当たり前である。
現在イライラしている元凶以外に、新たにイライラする出来事を頭の中で発生させ、それに対して怒っているのだから。


人間は、いらいらしたしたり怒りを感じたとき、悲しみや絶望を味わった時、いかにしてそれらから解放されるかを考えることで成長するのだ。
安易で姑息な逃げ道は、たいてい間違いだ。

過去のあさはかで愚かな僕は、
イライラかを解消する方向ではなく、没入していく方向に動いていた。
感情をぶつければスッキリするだろうと考えて、イライラを生み出す原因を作り出してまたイライラする…。


僕は、外づらはおとなしい人間なので他人に対して暴力などふるったことはない。
しかし家で怒りを抑えられずに壁を殴ったりしたことはあった。
その時、僕は、すっきりしたのだったろうか。

いや、しなかったんじゃないかな。
強いて言うなら、壁を殴りつけた拳の痛みで、怒りの感情を忘れてしまうとかその程度の事はあったかも知れないが。


仕事はまだ終わらない。

あと1時間ほどで終わるかもしれない。
遅くとも22時には終わる。









長文におつきあいくださいまして、
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仕事が終わって寝る前にお酒を飲みながらテレビドラマの録画を見ていた。

ドラマの中で、あらぬ疑いをかけられて警察に逮捕され留置場に閉じ込められていた父親が保釈の許可が下りて自宅に帰ってくるというシーンがあった。

父親は、あらぬ疑いをかけられていただけではなく自分の妻以外の女性と一度だけ肉体的関係をもってしまっていて、それは警察が追求する事なかったのだけれども、社会的に責任のある役職についていたりしたものだからテレビのワイドショーにすっぱぬかれて叩かれたりしたのだった。

それを彼の妻も中学生の息子も娘も知っていて、やっと自宅に帰ってきた父親に冷たく当たるのだった。

久しぶりの夕食の時間、妻と二人の子どもと四人で囲んだ食卓で父親は言う。

「お父さんは、一度だけしてはいけない事をした。
 でもこれから時間をかけて、おまえたちの信頼を取り戻していきたいと思う」

僕は、よくわからなくなった。
信頼とは何だろう。
そして、一度失った信頼は、時間をかければ取り戻すことができるのだろうか。

答えはノーだと僕は思う。

そもそも、子供が親に対していだいている信頼の気持ちなど実態のない机上の空論のようなものである。
子供が親を信じて頼りきっているのは、それしか方法がないからだ。
子供は、親を頼ってやしなってもらって助けてもらって大人にしてもらわなくては生きていけないのである。
それを「信頼」と言われても子供は困惑するばかりである。

確かにドラマの中では、父親がそのように発言したあと二人の子供はどう答えていいのやらという表情をして無言であった。
なにをコイツは言いだすのだ、そもそも大前提として間違っているのではないか信頼とかしてないし、なんて心の声が聞こえてきそうだった。

子供が親を信頼しているかのように見えるのは、まだ親の悪い部分や汚い部分を知らないからである。
親のすべてを知った上で信頼しているのではない。

なので、ちょっとだけ父親の汚い部分を知った後、時間をかけていい部分を見せていったからと言って以前のようにキラキラした目で父親を見ることはできないだろう。
そういう汚い部分をもった一人の人間という目でこれから見るしかないのである。

ということでこのドラマは、
社会的に信頼されるべき検察官という職業をこなす有能な父親だとしても、実は物事をよく理解していない頭でっかちのアホタレであるというテーマわけだと僕は理解した。

ていうか最近のドラマ観てて思うんだけど、政治がらみとか何か社会的に権力を持ってる人たちの汚職とか策略とか謀略とか、そっち系の話が多くて、われわれ日常生活を普通に送っている人たちには縁遠すぎて親近感がわかない感じがとてもある。

そんな傾向が僕は嫌いだ。

やたら大きな事件にしようとしたり、
やたら日常とはかけ離れた、国を巻き込んだ、とにかくデカイことを題材にしていて、
主人公がそれをどうにかしていくとか、そういうドラマが多くて嫌だ。

高校生の三人組が
「なんでもいいからデカイ事やろうぜ!」
みたいによぼよぼの老婆が店番をしている駄菓子屋の店頭で相談しあって作ったようなニオイを感じてしまう。
そしてそういうドラマは、やたら難しい言葉や事情が出てくるんだけど、
国家機関の問題とか法曹界とか経済的な問題とかに明るくなければついていけないので困っている。

最近は僕は継続的に小説を読み進めているんだけど、僕はおもに純文学作品を選んで手にとる傾向にあるようで、何でもない日常生活の中にも重いドラマがひそんでいるし、全身に汗を吹き出させながら行く末を見守らなければならない展開だって存在すると思うのだが、大きなお金が動くテレビの世界では、それを許さない事情があるのかもしれない。










長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました!

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コミティアの会場を見て回って思ったのは、
やっぱりとにかく数が多い。
こんなにたくさんの人が漫画を描いて、そして売ろうとしているという事に、
なんか、広大な砂漠を見てるような気持ちなった。

僕は何をしにここへ来たのだろう。
この中から自分の気に入った漫画を探して購入する目的なのか?
だとしたら無謀だ。
僕の好みの漫画の順番に位置を入れ替えてくれる機能があればいいのに。
PC内のフォルダーだったら「並び替え」とかいって簡単にできるのだが現実世界ではそれは不可能だ。
もしかしたら世の中すべてがバーチャルな世界になったら、同人誌即売会の会場に入ったとたんに自分が好きなもののタグ別にピローンとのぼりが出てるとかしてくれるのだろうか。

とにかく歩くしかないと思って僕は歩き回った。
漏れなく見たいと思って端から順番に、
通路の両側にサークルスペースがあるので右見て左見て右見て左見てと
忙しく首を左右に振りながらゆっくりと歩いた。

1ブロックごとにチェックしていって、目にとまったものは立ち止まって読んでみたり
購入したものもあった。

合計で7冊の同人誌を買った。
金額は、7冊で1900円。
同人誌は安い。
いや、安いものばかりを買った結果がこれか。

みんな上手い。
漫画も、プロと見まごうばかりに上手い。
つーか、プロの漫画家さんもちらほらパイプ椅子に座って自分の単行本を前にならべて売っていたりした。
今はそういう時代なのか。

で、みんな上手いし、こう言っては申し訳ないが絵柄が似ている。
全員が人気の絵柄を目指そうとすると絵の傾向が似てくるのだろうか。
僕の目にはどれも同じに見えてしまって、そのような同人誌の前で僕が足を止めることはなかった。
僕が足を止めたのは、他とは違う作品の前だ。
下手でも雑でもいい、とにかく他とは違うものの前で脚を止めて、
安ければ購入した。

僕は、突破口を求めていたのかも知れない。

自分が今までに描いたことのない漫画を描きたい。
そう思っているために、下手でも雑でもいいので新しいコンセプトを持った作品に出合いたい。
何か新しい切り口で漫画を描いている人がいたら出会いたいと考えてこの会場に来たのかも知れない。

まわり始めて時間がたつと、根本的な疑問を持った。
そもそも僕はなぜ、アマチュア漫画家さんばっかりが集まるイベントに来て自分のお気に入りの漫画を探そうとしていたのか。
世の中の書店には、あるいはネット書店には、もっと大量に質が高くてバラエティ豊かで、僕の知らない才能がまぎれこんでいる可能性のある作品群があるというのに、ここに来た意味は何だと自問自答したのはやはり、歩き疲れて足とか膝が痛かったからなのか。



僕は今年、同人誌を作ろうと思っている。
この中に入って売らなければならない。

僕は、感じたかった。
何がぶらぶら歩く人の目を惹くのか、何が人を足を止めさせるのか。
ぶらぶら歩く人は、いったい何を考えながら会場内を歩き回っているのかを。

そして感じたよ。

1時間も歩けば人は疲れる。
脚が棒のようになった。
膝が痛かった。

ふだんデスクワークばかりしている人間が、1時間も歩き回るとそうなるのだ。
つまりお客さんは1時間すれば帰りたくなるってことだ。
あの大勢の中で、お散歩するようにブラブラ歩き回っている人に偶然みずからのサークルスペースに来てほしいと願うのは阿呆である。

勝負は、前日までに決まっているのだ。
つまりは宣伝なのだ。

実は、僕が最初に目指したのは、
いつも生配信を見ているニコニコ生主のサークルスペースであった。
入場券代わりのカタログを千円で購入して場所を確認し、
まっさきに向かって同人誌を購入した。
ぶらぶら歩きまわったのは、その後のことである。

まず、当日までの宣伝が勝負。

そして、当日は、ぶらぶら客目当てのキャッチーなポスターやわかりやすいポップ(?)「300円」とか「無料」とか「サンプル」とかいうヤツ。

そんな感じで戦略を練ることが出来たので、昨日のコミティア行きは成功と言えるのだった。






長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました!

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コミティアという名前の同人誌即売会に行ってきた。

コミケと同じく東京ビッグサイトで開催されるというので、
東京住みの利点を生かしてサクッと行くことにした。
ちょうど今日まで仕事も連休だったので、これは行くしかないと思ったのだ。

僕が今年かかげた目標として、副業をつくるというのがあった。
ぜんぜん実現にむけて動いていないんだけれども、いちおうそちらの方を向いてはいる、というポーズくらいは取っておこうかなと毎日思っていたワケで。
そこへ「コミティア2月17日(日)開催!」という知らせがどこかから飛び込んできた。スケジュール帳をチェックしたら、仕事も休み。
これは行くしかない。
天気予報によると、どうやら今日から季節は春へと突入するらしかった。
いろんな事情が後押ししてくれているような気がして僕は国際展示場駅へと向かったのであった。

ビックサイトの最寄の駅は、国際展示場駅か国際展示場正門駅である。

なんだか同じような駅名でややこしいが、そんなに遠くない距離にあるので僕の中ではテキトーでいいという事になっている。
そして、どちらの駅からも、駅を出たとたんにビッグサイトの、あの、ピラミッドを四つくっつけて逆さまにしたような建物が目に飛び込んでくるのだ。


まさに「行けばわかる」である。

内部ではコミティアが開催されていて、
思ったよりも大きなスペースをさいて「出張編集部」というものが行われていた。
いろいろな漫画雑誌の編集部が出張ブースを設けていると思っていただくとわかりやすいだろうか。
漫画家を目指す若者たちは、ここに来れば、いろんな雑誌社に持ち込みをしたのと同じことになるわけだ。なんとありがたい。

しかし出張編集部は僕には無関係なので、いよいよ同人誌を売っている人の海に飛び込むことにした。

物を売っている人たちなはずだが、
「いらっしゃいませ!」とか「さあ、どうぞどうぞ!いかがですか?」とか、食いつかれるんじゃないかと思うくらいがっついてくる販売員はおらず、パイプイスに座って液晶タブレットに絵を描いている人とか、ぼーっとしてる人とか、とにかく、売っている態度には見えない人が半分以上いたかな。

まあそれが、高校の漫画研究部が、どちゃっと集まった感じで、
ちょっと懐かしくて安心できる空間だなと感じた。



それにしても数が多すぎる!

ただぶらぶら歩いているだけなのに膝が痛くなってきた。
スマホを取り出してみると1時間半ほど歩き回っているではないか。

「わはは!見ろ!脚が棒のようだ!」

という訳で全体の2/3をざっと見て回ったあたりで僕はもう諦めた。
猛スピードで残りをざあっと見て、ビッグサイトを出た。

手元には、ざっと見た中でちょっと気になった同人誌が7冊。
入場券代わりの分厚いカタログと合わせると結構かさばる感じになっていた。
風呂敷を持って行っていてよかった。

そもそも、これだけたくさんの漫画同人誌の中から購入するものを選ぶというのは難しい。

最近の人は、みんな絵が上手いし、それなりに漫画になっている。
要するに、失礼だけど、どれも同じに見えるというか…。
正直、困ったですよ。

結果、上手い絵、上手い漫画というより
下手でもいいから変わったヤツ、特徴のあるヤツを選ぶ傾向があったな僕は。

無意識に、自分がこれから描くべき漫画の参考にならないかと探していたからかも知れない。

いや~、正直…
中途半端に上手い漫画は目に止まらなくなってたりして、申し訳ない。

うん、全部同じに見えてしまって困ったな。


昼食は、モスバーガーを食って帰ってきました。

電車乗る前に地元の本屋さんで、森 絵都さんの小説買っていたので、ずっと読みながら行きました。
小説読んでると時間がたつのが早いです。
うん、本当は図書館から借りてる本を持って電車乗りたかったんだけど、単行本ですからね、かさばるし、やめました。












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妻と二人で行ってきた。

西荻窪から東西線で一本。
竹橋という駅で降りて階段をのぼると、そこには空が広がっていて
あ、皇居の近くに来ているなと感じた。

江戸城のお堀が見えたりしていたし、車道がやたら広いというのもあって
そう感じたのだった。

信号を渡ると「たけはし」というこれまた大きくて歴史が深そうな橋があった。

その橋を渡ると、すぐに「国立近代美術館」の建物があった。

美術館の前には、立てるとアゴのあたりまである長い棒を持った
警備員らしき人が立っていて、まるでその姿が、警察署の前に棒を持って立っている強そうなおじさんみたいに見えたので、なんか、美術館だか警察署だかわからなくなってしまいながら
僕らはゆっくり美術館のチケット売り場へと近づいて行った。

「2階から4階までがMOMAT展です」

とかなんとか言っていて、なんか展示しているらしかったので見て回った。

2階には、広告デザイナーの人が描いたポスターやら雑誌の表紙やらが展示されていた。
古い時代のポスターなどは、文字が右から左へ流れていたりするんだけど、
そのデザイナーさんの描いたものは、左から右へ書かれているものもあったりして、

いったいいつから横書きの場合、文字を左から右へと書くようになったのだろう
などと妻と話しながら見て歩いた。

ひょっとしたら、この人が、文字を左から右へと書き始めた張本人なのではないかなどと思ったりもした。

その人の作品は本当にたくさんあって、
全部見て回るのも大変だったのだけれども、
僕は何よりも、歩くたびにきしきしときしむ床面に気を取られていたのであった。

床一面に敷き詰められた細かくて同じ形をした木片。

大きさをなるべく正確に示すと2.5cm×12.0cmくらいの木片が、
床一面にびっしりと並べられていて、接着剤か何かで固められていた。

それが、歩くたびにきしきしと上品な音を立てるのであった。

ちょうど杉並区の荻窪警察署の近くにあるアニメーションミュージアムの床面があんな感じの音がしたなと思いだしていた。

古くて凝った作りの西洋風の建物の床面には、それは凝ったフローリングがほどこされていて、現在よく一般家庭にも見られるような安っぽい、いくつかの合板がボンドで接着されているかのような安っぽくて情けないフローリング材などではなくて、それはもう一個の作品と呼んでもいいほどの見事な出来栄えの床面であった。

そしてその作品は、近代美術館の中にあるどの作品よりも大きくて立派なのだった。

僕という人間は、そもそも美術館に展示されている美術作品などにはあまり興味はなく、
美術館という建物そのものに大きな関心を持ってしまうような人間なので、
その床面芸術を発見してからは、もはや美術作品などどうでもよくなったのであった。

あきらかに美術作品を見るのとはちがう速度で展示室内をうつむき加減に歩き回るダサ男。

さぞ、怪しい人間だなと思ったのであろう。

監視員の人たちの視線が、前に行ったDIY川村記念美術館よりも
少し主張が強かった気がしたのだが気のせいだっただろうか。




ぎりぎりお昼を食べる時間にすべての美術品を鑑賞し終えた僕たちは、
うろうろ探し回ったあげく、毎日新聞社本社の地下にあるアジアンダイニングの店でナンカレーを食べて帰ったのだった。



ナンカレーは、おそらく日本中どこで食べても、あまり変わりはないだろう。
なんつって、ナンカレーファンの人たちに殺されるだろうか。

とにかく、竹橋で食べたナンカレーは、杉並区西荻窪で食べるナンカレーと
いささかも違いはなく、そこで働く現地の人っぽい人たちも西荻のお店と同じく
現地の人っぽいけど実は日本で募集して雇ったのであろうそっち系の外国人スタッフみたいで
不愛想が通常営業な感じの人々で、それはそれで妙に安心したりして。
そしてフツーに美味しく食べて帰ってきました。


■これは国立近代美術館から見た皇居


「眺めのいい部屋」と手書きの案内用紙が壁に貼られていたので
いったい何のことだろう、何かの作品なのかな、と思って入ってみるとこの部屋であった。
四方を壁に囲われながら美術品を眺めていたお客さんの視線を開放するすばらしく眺めのいい部屋であった。

総評すると、

特別展示もなかったこの時期の国立近代美術館は、
本当にお客さんが少なくて過ごしやすい場所でした。




長文におつきあいくださいまして、
ありがとうございました!

流星光ツィッター

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さいきん、ブログ全然更新してません。

すいません。

私の近況は、ツィッターでちくいち報告しておりますので、

よろしくお願いします!


ツィッター流星光

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