大阪東教会礼拝説教ブログ

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マルコによる福音書9章2~10節

2018-03-12 19:00:00 | マルコによる福音書

2018年3月11日 大阪東教会主日礼拝説教 「死を越えられる方」 吉浦玲子

<私たちに示される十字架への道>

 今日の聖書箇所は、マルコによる福音書8章のイエス様の死と復活の予告の場面に続くものです。さらにその予告の前にはイエス様が、ご自身がメシア、救い主であることをペトロに語られています。マルコによる福音書は、このあたりから、主イエスのご受難の道のりの記述へと進みはじめます。その受難物語の入り口部分で記されているのが、今日のいわゆる<キリストの変容>と言われる場面です。

 ですからこの場面は、単にイエスさまが神々しいお姿に変わられ、しかも、旧約聖書の偉大な登場人物であるモーセとエリアまで出てくる華々しい奇跡物語であるというわけではありません。十字架と復活の意味を指し示す箇所となっています。

  その場面で、イエス様はペトロとヤコブ、ヨハネだけをお連れになって高い山に登られました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れていく、という場面が、福音書には何箇所かあります。それはたとえば会堂長ヤイロの娘が生き返る場面であったり、ゲッセマネでの祈りの場面です。それらはいずれもイエス様とはどなたなのかということに関するたいへん重要な場面です。聖書を読んでいますと、イエス様のまわりには同心円状に人々の輪があったことがわかります。一番近い輪はこのペトロ、ヤコブ、ヨハネでした。彼らにはもっとも深い主イエスや神の国の秘密が明かされました。その三人のまわりにそれ以外の12弟子のうちの9人からなる輪があったといえます。さらにその外の輪に、イエス様に従っていた他の弟子たちの輪があったのでしょう。そしてさらにその外に、弟子として従ってはいないけれど、イエス様のお話しになることを喜んで聞いていた人々の輪があったでしょう。イエス様ご自身と、神の国の秘密は、より内側の輪にある人々に多く語られ、また示されました。

 しかし、一方で、いま、わたしたちはこの物語を聖書において、今、読んでおります。ペトロとヤコブ、ヨハネにだけ最初は告げ知らされていたことが、今は私たちにも知らされています。主イエスの十字架と復活の前は限られた三人にだけ告げられていたことがらが、いまはすべての人に告げられているのです。主イエスは9節で「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない」とおっしゃっています。逆に主の復活ののち、三人は語りだしたということです。三人に始まり同心円状にどんどんとそれは広がって行きました。さらに時代を越えて語られていきました。つまり、主の十字架と復活は、神の国の秘められていたことがらが、すべての人に明らかにされるための出来事であったともいえるのです。

<山の上の出来事と神のご計画>

 さて、その三人だけをお連れになって、高い山にイエス様は登られました。高い山とあるだけで、どこの山なのかはわかりません。しかし、聖書においては「山」というのは神の力の現れるところとされているということは、昨年、共に読んでいましたマタイによる福音書においても同様でした。今日の聖書箇所に出てくるモーセは、シナイ山で神から十戒を賜りました。そしてまたエリヤが、バアルの預言者たちと戦い勝利し、なお王妃イザベルから命を狙われ身も心も疲れ果てたときに、神によって導かれたのがホレブ山でした。ちなみにシナイ山とホレブ山は同じ山ではないかと言われます。エリヤはそのホレブ山で神の声を聞きます。そして主イエスご自身も、たびたび、おひとりで山に登られ神に祈っておられました。

 神が現れられるところ、神と交わるところが山であったのです。ただこれを日本にもある山岳信仰みたいなものと同一視してはなりません。特に今日の場面では、いってみれば、ある種の神秘体験のようなものをペトロ、ヤコブ、ヨハネはするのですが、それだけを読むと、特に日本人は、山そのものに神秘的なものを誘発するなにかがあるように感じられるかも知れません。しかし、そうではないのです。あくまでも、神の存在の高さを象徴的に現わすのが山なのです。

 その山で三人はイエス様のお姿が変わるのを目の当たりにします。3節に「イエス様の服が真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」とあります。ヨハネの黙示録では、白く輝くというのは神の力の現れとして描かれています。まさにこの場面の主イエスは、神の御子としてお姿を現わされたといえます。その本来の栄光のお姿を現わされたのです。

 そこにモーセとエリヤまで加わります。ここでモーセは律法を象徴しています。エリヤは預言を象徴しています。つまりモーセとエリヤで旧約聖書を象徴していることになります。ではイエス様は新約聖書であって、モーセとエリヤとイエス様で聖書全体を指していることになるのでしょうか?そうではありません。律法も預言もイエス・キリストを指し示しているのです。旧約聖書はイエス・キリスト到来以前の書物で、そこには、<イエス>という名前は出てきません。しかし、旧約聖書39巻は、やがて来るべき救い主、キリストを指し示すものです。旧約聖書の成就としてイエス様はこの世界にお越しになりました。

 それは言い換えるならば、旧約聖書から続く神の壮大なご計画の中で主イエスは来られ、そしてその計画の中に十字架と復活もあったのだということです。今日は礼拝後に壮年婦人会で映画「パッション」を観る予定ですが、この映画はキリストの十字架の出来事を描いたものです。そのなかで主イエスを「十字架につけろ!」と叫ぶユダヤ人たちの姿もリアルに表現されています。それがあまりにリアルなため、これはユダヤ人をおとしめユダヤ人を排斥する、反ユダヤ的な映画であるという批判も公開当初あったそうです。

 たしかにキリストを2000年前、十字架につけるように扇動したのはユダヤ人の祭司長たちでした。そしてユダヤの人々は「キリストを十字架につけろ」とたしかに映画のように叫んだのです。そこには確かにユダヤ人の罪があらわにされました。しかし、それはユダヤ人だけでなく人間全体の罪をも現わしています。キリストの十字架は人間すべての罪の贖いのためでした。そして、その十字架は人間の思いを越え、神の壮大なご計画のうちに、なされたことなのです。単にユダヤ人のせいでキリストが殺されたということではありません。モーセとエリヤに象徴される旧約聖書全体で十字架に至る神のご計画が現わされ、そしてそのことが成就したのです。今日の聖書箇所の、山の上での出来事は十字架の出来事がまさに神のご計画によってなされたということを示しているのです。

<新しい時代へ>

 その今日の場面では、モーセとエリアが登場しますが、7節から8節をみますと、主イエスとモーセとエリヤを雲が覆い、そののち、主イエスのみが弟子たちと一緒におられたことがわかります。7節には雲の中からの声が記されています。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」つまり、律法と預言の時代から、主イエスに聞く新しい時代がはじまったことをこの言葉は示しています。たしかに新しい時代が始まったのです。

 そして主イエスと共に弟子たちは山を下りました。新しい時代というのは山の上で神秘体験をすることではなく、主イエスが山を下りて来られたところに始まるのです。主イエスは山の上での御子らしいすばらしい姿ではなく、いつもの貧しいお姿となられ、弟子たちと共にこの地上への日々に戻られました。

 私たちの信仰生活も同様です。私たちは山に登って神秘体験をして霊的に成長していくのではありません。ごく普通に日々の生活をしながら主イエスの御言葉を聞いて生きていくのです。

 ペトロは山の上で、モーセとエリアとイエス様のお姿を見た時、「先生、わたしたちがここにいるのはすばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。」と言います。ペトロはユダヤ人でしたから、幼いころから聖書(この場合は旧約聖書)に親しんでいたでしょう。預言の言葉を学び、律法を守って生きて来たのです。そのペトロにとって、目の前にモーセとエリアが現れたことは、現代を生きる私たちには想像できないほどの素晴らしいことだったでしょう。<仮小屋を建てましょう>といったのは目の前の素晴らしい光景に圧倒されて何を言っていいのか分からない状態で、後先考えずに発した言葉です。でもそのペトロの何を言っていいのかわからなくなるような気持ちは理解できます。あまりにも素晴らしい体験のゆえに、目の前の素晴らしい光景をずっとずっととどめておきたい、自分もまたここにとどまりたい、そういう思いになるのは自然なことです。

 しかし、ペトロたちはイエス様と一緒に山を下りました。「これはわたしの愛する子、これに聞け」という言葉の通り、キリストに聞きながら普段の日々を生きていくのです。「聞け」という言葉は「聞き従え」という言葉です。つまり、単に言葉として耳で聞くのではなく、キリストのうしろからキリストに従って歩む歩みをしなさいということです。

 キリストの歩みとはなんでしょう。それは十字架を担って歩む歩みです。実際、ペトロたちはやがてキリストと同様、迫害の中を宣教しました。それぞれにキリストの十字架を担って歩んだのです。わたしたちもまたそれぞれに自分の十字架を担って歩みます。では私たちの信仰生活は山の上の素晴らしい体験ではなく、十字架を担う、なにか辛い歩みの連続なのでしょうか?

 そうではありません。そもそもペトロたちが目の当たりにした山の上での出来事は、キリストがふたたび来られる終わりの日の出来事の先取りでした。イエス様の服がとてつもなく輝いていたというのはさきほども申しましたようにヨハネの黙示録の中の救い主のお姿と同じなのです。ペトロたちは山の上でイエス様が、救い主、裁き主、世界の王となられた姿を見たのです。

 その素晴らしい体験自体の感動のゆえにペトロたちは十字架を担い続けることができたのでしょうか?あるいは、その体験によって終わりの日の希望に確信を持てたゆえに、ペトロたちは苦しい宣教の働きをその後なすことができたのでしょうか?今は苦しくても、終わりの日にはあの素晴らしい山の上での光景のような神の国に入ることができると思って耐え忍んだのでしょうか?

 それだけではないでしょう。ペトロたちがその人生の終わりの時までキリストの十字架を担って歩み続けることができたのは、いつかまた素晴らしい体験ができるという期待だけではなく、その日々においてもキリストが共にいてくださり、山の上の体験のような、栄光に輝くキリストのお姿を示されていたからでしょう。その栄光のお姿は、まず礼拝において示されます。いま、私たちは肉眼で栄光のお姿を拝することはできません。しかし、私たちは礼拝において、栄光のキリストと出合うのです。そしてまたそれぞれの祈りのうちに、御言葉に聞く日々において示されます。

 私たちもまた、山の上に登ることはなくても、キリストの輝くお姿を折々に示されます。繰り返し示されます。キリストが示してくださいます。そのことのゆえに、私たちはそれぞれに十字架を担って歩んでいくことができるのです。

<十字架と栄光>

 ところで、まだまだ寒い日が続きますが、教会の庭には、水仙やクリスマスローズをはじめ少しずつ花が咲き始めています。花というとき、だれもが、花が突然ある日咲くのではないことを知っています。寒い季節、冬枯れたような植物の姿を見る時、そこには花の面影はまったくありません。しかし、その植物から、やがて花のつぼみが現れ、花が開きます。

 例えとして必ずしも適切ではないかもしれませんが、栄光のキリストもまた、終わりの日に突然そのお姿を現わされるのではありません。私たちの日常から切り離された別次元の天上の出来事として突然現れるのではありません。

 栄光のお姿は、十字架のキリストのゆえに、私たちに示されます。キリストが血まみれになられ、ぼろぼろになられ、この上なく惨めなお姿で十字架の上で死なれた。それは栄光のお姿とはまったく違います。しかし、キリストがその惨めなお姿で十字架にかかってくださったゆえに私たちは罪を贖われ、栄光のキリストのお姿を見ることができるのです。十字架のキリストのゆえに栄光のキリストを示されるのです。

 私たちは罪深い者です。この世界も悲惨に満ちています。しかしなお、私たちはこの世界で、山の上ではなく日常の場所で、栄光のキリストと出会うことができます。それはキリストの十字架によって開かれた出会いです。キリストの十字架は、栄光のキリストと出会うための入り口であり、この地上と天をつなぐ大きな楔なのです。その楔のゆえに私たちは喜びをもって日々十字架を担うことができるのです。苦難はあっても、キリストの栄光のお姿を示していただきながら、歩んでいくことができるのです。


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