大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ローマの信徒への手紙13章11~14節

2018-01-22 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2018年1月21日 大阪東教会主日礼拝説教 「キリストを身にまとう」吉浦玲子

<救いは近い>

 ついこの間、アドベントだとかクリスマスだとか言っていたような気がします。しかし、もう一月も後半となりました。暦では昨日が大寒、最も寒い季節を迎えています。しかし、もう少したてば春の気配がしてくるでしょう。さらに、やがて気配だけでなく本当の春がやってきます。日本は季節の移り変わりがはっきりしている、四季が明確な気候だと言われます。ただ、昨今は異常気象なのでしょうか、昔ほど、四季がゆたかという感じは、殊に都会においては持ちにくいですが、それでも私たちは春夏秋冬の季節の巡りを感じて生きています。季節は巡り循環しても、私たちの生きていく時間は、いうまでもなく、一方の方向を向いて進んでいきます。後戻りすることはなく進んでいきます。聖書において、『創世記』の天地創造からはじまる世界の時間は『ヨハネの黙示録』に記されている終末へと向かって、後戻りすることなく確実に進んでいきます。いまこのときもその時の歩みは止まることなく進んでいます。

 はじめがあって終わりがある、それが神がお造りになった私たちの世界です。私たちの時間は終わりに向かって進んでいます。それは世界もそうですし、私たち一人一人の人生もまた終わりへと向かっています。<世界の終わり>というとき、聖書を知らない人たちは、世界の破滅のようなことを考えてしまいます。しかし、聖書における世界の終わりは破滅ではありません。もちろん、ヨハネの黙示録には、終わりの時の前に、天変地異や大規模な戦争といった恐ろしいことが起こると記されています。しかし、それで人類が滅びてしまうということではありません。終わりの時は、神の裁きの時、つまり審判の時です。そして、同時にそれは完全な救いの時です。キリストの十字架によってなされた救いが世界全体、宇宙全体で、完全に完成するときです。キリストを信じる者にとっては、それはまことの希望の時であります。

 しかし、多くのカルト的な新興宗教で、終末という言葉が恐怖を煽るために用いられてきました。最近、久しぶりにかつての教祖のことがニュースになっていましたが、20数年前、地下鉄サリン事件などを引き起こしたカルト集団もヨハネの黙示録に出てくる「ハルマゲドン」という最終戦争を指す言葉を、悪用して恐怖を煽り人々を誤った考えに引き込むために使っていたことを記憶されている方もおありかと思います。

 しかし、さきほども申しましたように、終わりの時は、聖書では救いの時なのです。希望の時なのです。そのような終わりの時を、パウロはかなり切迫して感じていたようです。多くの神学者は、パウロは自分の生きている間にキリストが再び来られ、審判の時が来ると考えていたと言っています。実際、パウロの書簡を読むとそう読み取れる箇所があります。しかし、パウロの時代から2000年たった現代でもまだヨハネの黙示録で記されている終わりの時は来ていません。キリストが再び来られる日、今日の聖書箇所に記されている「救い」の日は来ていません。しかし、キリストが再び来られ、世界全体が完全に救われる日はまだ来ていません。

そもそもそんなことがあるのか?ほかならぬキリスト教会の中でも終末、終わりの日、裁きの日、そして最終的な救いの日をはっきりと語らない時代がありました。現代でも、そのようなことをどちらかというと軽んじる傾向のある人々もいます。

 しかし、私たちは明確に終わりの日が来ること、そして世界が完全に救われる日が来ることを、覚えなければなりません。とはいえ、自分自身を振り返っても、信仰を得たころ、たしかに、終わりの日や裁きや、また御国のことなどを聞くには聞いたのですが、なにかそれは遠いぼんやりとした物語のようでした。当時は、ただとにかく現在の自分のいっぱいいっぱいな生活の中で、なにか救いが欲しい、何か平安が欲しい、安らぎが欲しい、そのような願いでいっぱいだったように思います。

 しかし、私たちが今日一日を生きることを考える時も、終わりの日をはっきりと覚えていなければ、本当の意味での平安は得られません。パウロは「あなたがたは今がどんな時であるか知っています」と語りかけます。「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」。ここは原語ではなだらかに続けて語られています。つまり「あなたがたは、いまが眠りから覚めるべき時であることを知っているでしょう」とパウロは語っています。そしてその言葉は、さらにその前の部分からなだらかにつながっています。つまり隣人愛の箇所からつながっているのです。

 私たちが互いに愛し合う生活をすることにおいても、終わりの日への意識がめざめているかどうかということが関わってくるのだとパウロは語っています。終わりの日を考えることなく、ただぼんやりとまどろんでいるようでは、私たちはキリストにあって互いに愛し合う生活もおぼつかないのだとパウロは語っています。

<朝が来るから>

 ところで、小島誠志という説教者は、<夜から朝>という言葉を良く語ります。聖書の信仰は夜から朝に向かう信仰なのだというのです。今は夜であっても、かならず朝が来る、それは単に<明けない夜はない>ということではありません。今は夜でも辛抱したら朝が来る、それまで頑張ろうということだけではありません。単に<明けない夜はない>と言うだけであれば、朝が来てもまた再び夜が来るのです。しかし、最初に言いましたように、聖書において、神の時間は一直線に進んでいきます。循環しません。夜を貫いて朝へと向かうのです。夜通しガリラヤ湖で漁をしていた弟子たちを、復活されたキリストが夜明けの岸辺で待っておられたように、私たちの信仰もまっすぐに夜明けに向かって、キリストとあいまみえる光の朝へと進みます。朝を待つ信仰、光を待つ信仰こそが、聖書で語られている信仰です。

 私が子供のころ、まわりの大人は戦争を経験していました。自分の親もそうでした。私の親は、戦争中の話はほとんどしませんでした。両親ともに大陸からの引揚者でしたが、辛い時代のことを思い出したくないと言って、当時のことはあまり語りたがりませんでした。終戦記念日近くにテレビで特集番組があっても見たくないとチャンネルを切り替えていました。そんななか、母の和裁の仕事の発注先の一つで呉服屋をしていたおじさんは、仕事の依頼で、家に来たとき、待ち時間に、ときどき戦争の時の話をぽつりとしてくれることがありました。母より10歳くらい年上で、現在生きておられたら100歳近い年代の方でしたが、戦争中、召集され、南方の戦線での従軍経験があったようです。もともと口数の少ない方で、そして戦争を知らない子供相手、それも女の子相手なので、細かいの話はされませんでした。でも、繰り返し聞かされたのは、夜、見張りに立つ時が一番怖かったということです。当然、敵にわからぬよう暗闇の中で明かりもない中で立っていたのです。ただ一人暗い闇の中で敵が来ないか、怪しい気配はないか、どこからか狙われて弾が飛んでこないかと見張っていたとき、心細くて心細くてたまらなかった。南方ですから、敵だけでなく野生動物に襲われる危険もあったでしょう。おじさんは、「怖かった」という意味の言葉の佐世保の方言で「えすかった」と繰り返し言いました。「あんときは、えすかったばい。えすかったー。はよう朝のこんかと、そればかりおもっとたばい」とおっしゃっていました。昨年、詩編交読で交読していた詩編130編で「わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝をまつにもまして/見張りが朝をまつにもまして」と言う箇所を読みました。その<見張りが朝を待つにもまして>とリフレインされていたところが印象的でした。この箇所を読む時、まさに戦争中に南方で見張りをしていたおじさんの「えすかったばい」という言葉の切実さを思い出しました。詩編130で例えられている見張りは切実に朝を待っていました。詩編の詩人はその見張りのように切実に主とあいまみえる時を待ち望んでいました。

 私たちもまた詩編の詩人のように主と出会う朝を待ち望みます。そしてその朝は必ず来るのです。その朝が今日の聖書箇所にある救いの時です。

<光の武具を身に着けて>

 戦争中の見張りは恐怖の中で朝を待っていたでしょう。でも私たちは怯えながら救いの朝を待つのではありません。少し変な言い方になりますが、いまは闇であっても、それは真っ暗闇ではないからです。それはキリストが既に来られたからです。クリスマスの降誕のとき闇の中に光が輝きました。そしてまたキリストの十字架と復活によって救いの業はすでになされました。ですから、今現在の闇は、確実に朝に向かっている闇です。闇であっても、かなたの方に光の気配を感じる闇だからです。ですから私たちは闇の中に生きるように生きるのではありません。すでに朝が来ている者として生きるのだと聖書は語ります。朝が来て目覚めるのではありません。もうすでに光の中にあるように目覚めていきるのだというのです。いえ信仰においてすでに朝は来ているのです。ですから、もう眠りから目覚めるべき時が来ているのです。

「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう」とパウロは語ります。闇の行いというのは、一般的に良く考えられることです。私たちは光が当たっている昼間は、それなりにしっかりと生きるのです。世間の目もあります。昼日中、きちんとして生きていきます。しかし、夜になると、昼間はバリバリ仕事をしていたサラリーマンが酔っぱらって、みっともない姿をさらしたりします。私たちも、いまは夜だと思うと、つまりまだ主の終わりの時が遠いと思っていると、自分本位な勝手なことをして生きていくのです。

 「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」というととてもひどいことのように感じられるかもしれません。私はそんなひどいことはしないと思われるかもしれません。実際、ここにおられる方はなさらないと思います。しかし、人間はだれにも見られていなければ、闇に乗じて闇の行いをなす性質を持っています。つまり、罪の性質を持っています。イエス・キリストを信じ、罪を赦された者であっても、罪の性質の古い人間の部分があります。その古い部分は闇に乗じていくのです。ですから、私たちは意識的に目覚めて生きていかねばなりません。救いの日はまだまだ遠い、と、まどろんでいてはたちまち闇に、罪に身を掬われてしまいます。ひそかに闇の行いを心ならずもなしてしまいます。私たちは弱いのです。

 「主イエス・キリストを身にまといなさい」とパウロは言います。キリストこそが弱い私たちの光の武具です。私たちは闇に勝つことはできません。しかし、キリストを身にまとうとき、光を放ち、闇に打ち勝つことができます。キリストを身にまとうというのは、ごく当たり前の信仰生活を送るということです。御言葉を聞き、たえず祈りの生活をするということです。

ヒーローもののアクション映画やドラマでヒーローがパワースーツのようなものを身に着けて超人的な戦闘能力を身に着け、悪者をやっつけるというようなものがあります。危険が迫るとヒーローは自分の意志でスパッと変身をします。パワースーツを身につけます。しかし私たちは、私たちが主体となってパワースーツを身にまとうのではありません。あるいは、服を着替えるようにイエス・キリストを身にまとうのではありません。ある説教者は、ここの言葉は「主」イエス・キリストをまとうというところが重要なのだと語っています。キリストご自身が私たちの「主」となって、私たちを守ってくださるのです。気に入らなくなったら捨てたりバザーに出す服のようにキリストをまとうのではありません。キリストが主であり私たちが従う者である時、まことにキリストは私たちの光の武具となってくださいます。その時キリストご自身の品位が私たちから醸し出されてきます。品位というとこそばゆいような、自分には到底無理と感じてしまいますが、これはキリストにある品位です。私たちは生涯をかけてキリストによってキリストの品位を与えられて歩んでいくのです。とこしえの朝へ向かって、怖れることなく、喜びに満ちて歩んでいきます。すでに光が見えているからです。

 


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