大阪東教会礼拝説教ブログ

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マルコによる福音書15章33~41節

2019-09-08 13:24:52 | マルコによる福音書

2019年3月31日 大阪東教会主日礼拝説教 見捨てられたイエス吉浦玲子

<イエスは弱音を吐かれたのか>

 十字架の上の主イエス・キリストの7つの言葉から聞いています。今日の言葉は「エロイ、エロイ、レマ、サバキタニ」です。イエス・キリストは十字架の上で「エロイ、エロイ、レマ、サバキタニ」と叫ばれました。意味としては「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」ということです。当時、イスラエルでは旧約聖書で主として使われていたヘブライ語ではなく、アラム語が使われていたと言われます。そのアラム語の響きがそのまま聖書に記されているのです。新約聖書はギリシャ語で記されていますが、ここは実際のイエス様の叫び声がその音のまま記されていると言えるでしょう。

 まさに主イエスが叫ばれたこのとき、キリストはたしかに父なる神に見捨てられたのです。そもそも、天地創造をなさった父なる神に見捨てられることが、この世界でもっとも恐ろしいことであることを、誰よりもご存じであったのはイエス・キリストでした。いつも父なる神との豊かな交わりのなかで生きてこられた主イエスにとって、父なる神との断絶の苦しみを誰よりもご存知でした。その苦しみを誰もよりも知っておられる他ならぬイエス・キリストご自身が父なる神から見捨てられた、それが十字架の出来事でした。

 あるクリスチャンの小説家はこの場面のイエス・キリストに少しがっかりしたとエッセイに書いていました。その方はイエス様が十字架の上で弱音を吐かれるような場面をできれば読みたくなかったと書いていました。イエス様に雄々しく最後まであってほしかったと書いていました。その小説家の書かれた小説やエッセイでキリスト教に興味を持ち、信仰に入った人も多いのですが、私はその小説家のこの場面への感想についてはイエス・キリストの十字架の出来事への理解が間違っていると思います。この場面ではキリストが十字架の上で死を前にして単なる弱音を吐かれたのではないのです。この聖書箇所はいまだかつて人間の中で誰も経験をしたことのない、父なる神の裁き、神の呪いをイエス・キリストご自身がお受けになる、その場面です。そのとき、「エロイ、エロイ、レマ、サバキタニ」と主イエスは叫ばれたのです。誰一人として、その叫びを叫ぶ体験をこれまでしてこなかったのです。もちろんローマ帝国の刑罰としての十字架刑は多くの犯罪者が受けたでしょう。しかし神との決定的な断絶、神の裁き、神の呪いを受けられたのはイエス・キリストお一人でした。

<裁きの闇>

 ところで「全地は暗くなり」とあります。これは旧約聖書のアモス書から来ています。「その日が来ると、主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする」(アモス8:9‐10)。これは裁きのことが書かれているのです。そのように真昼に全地が暗くなるというのはまさに神の呪い、怒りの時、裁きの時であることを示すものです。その不気味な闇は昼の12時から3時まで続いたとあります。主イエスは十字架にありました。朝の九時から手と足を釘で打ち付けられ、12時を過ぎ3時まで、6時間にわたる、痛みと出血と衰弱、呼吸が圧迫される苦しみが長く続きました。その6時間を経て、死の直前に主イエスは「エロイ、エロイ、レマ、サバキタニ」と叫ばれました。この言葉は詩編22編の言葉でありました。この詩編は最初は、まさに神に見捨てられた絶望のうめきで始まります。しかし、詩編22編を読み進んでいきますと、最後は神への賛美で終わります。ですから、主イエスは十字架の上で、詩編22編を声にお出しになり、最後は神を賛美なさっていた、つまりここで主イエスは嘆いて弱音を吐いておられたわけではなく神への信頼の言葉をおっしゃっていたのだという解釈も成り立ちます。

 しかし、「エロイ、エロイ、レマ、サバキタニ」という叫びはその時の主イエスの真実な叫びでありました。まことの嘆きの言葉でした。神の裁きの闇の中で、決定的な神との断絶、神の呪いをお受けになる苦しみの叫びでした。そしてその叫びは私たちが叫ぶ叫びでありました。私たちは、神に背く罪人でありながら、神から完全に切り離される、神から見捨てられるまことの恐ろしさを知らぬ者です。私たちの罪の行く末が、本来は神から完全に切り捨てられる、永遠の虚無に向かう出来事であることを知りません。ことに日本では、人間は死んだら神羅万象の中に還っていくような思想があります。しかし、罪人の死は、決定的な神との断絶なのです。太陽の光も失せる暗闇の中に、絶望の中に死ぬのです。その恐ろしさを想像できないので、ともすればこのイエス・キリストの叫びを死を前にして弱音を吐いている人間の言葉であると感じます。堂々と死をおそれず最期を迎えた偉人は歴史上、古今東西たしかに存在します。それらの人々に比べれば、たしかに情けない、みじめな叫び声に聞こえます。しかし、これは本来私たちが叫ぶ叫び声でありました。

<私たちの嘆き>

 ところで、わたしはこの叫びの言葉は信仰を持つより前、10年以上宇前から言葉としては知っていました。「エロイ・エロイ・ラマサバクタニ」という呪文のような言葉を知っていました。高安国世という、かつて京大のドイツ文学の教授であり、また歌人として著名な方の若いころの短歌の中で知っていたのです。「エリ、エリ、ラマサバクタニと呼びしとき空より声の来たることなし」という短歌でした。この短歌を作った当時、高安国世はまだ教授ではなく、貧しい研究者で下。病弱で、妻子を抱え困窮をしていました。彼はクリスチャンではなかったと思われますが、キリスト教国であるドイツの文学を研究していたので、聖書の言葉も良く知っていたのでしょう。「エリ、エリ、ラマサバクタニと呼びしとき空より声の来ることなし」という言葉には深い嘆きがあります。病の中で困窮し、妻や子供を抱えて厳しい日々を送っているその中で、どこかから救いなどは来ない、空から声などこないという深い嘆きがここにあります。

 高安国世の嘆きは、戦中戦後の貧しい時代の日本人の共通した嘆きでもありました。働いても働いても楽にならない、貧しく、いつもお腹をすかせ、病を得て、苦しみの中にいる人々の嘆きでした。けっして空から救いの声など来ないのだと人々は嘆いたのです。困窮の中で死に物狂いで自分の力で抜け出していくしかない、そのような嘆きでした。それは言ってみれば、神も仏もない、というような嘆きの言葉でした。ここにはたしかに人間の嘆きの真実があります。このような嘆きは戦中戦後より経済的には豊かといえる現代にはないでしょうか。もちろんそうではないとみなさんもお感じになっているのではないかと思います。現代においてはむしろもっと表に出てこないところでの嘆きがあるのではないかと思います。ブラックな職場、いじめ、パワハラ、虐待、もう人々は嘆くことすらできない状況の中で、現代は声を上げられない声なき嘆きの時代であるといえます。昔、コンピュータのシステム開発をしていたころ、まさにブラックな職場で、深夜2時3時まで残業をしていました。その深夜に、若いエンジニアが言うのです。「血でも吐いたらゆるしてくれるかな。仕事やめられるかな」というのです。血を吐こうが家庭が崩壊しようがゆるされない厳しい現実があり、そこでは嘆くこともできない苦しみがあります。

<主イエスだけの嘆き>

しかし、時代の中で、あるいは恵まれない環境の中で嘆く人間の嘆き、声に出すこともできない嘆きも含めて、そういった人間の嘆きと、十字架の上のイエス・キリストの嘆きはまったく質的に異なります。時代が悪い、運が悪い、環境が悪い、政治が悪いと自分の身の上を嘆く言葉と、イエス・キリストの十字架の上の嘆きは質的にまったく異なります。「罪」と言うものを捉えているか否かの大きな違いがあるのです。イエス・キリストはもちろん罪なきお方です。しかし、私たち人間の罪のゆえに神の呪いを受けられました。太陽の光のない闇の中で神から見捨てられました。人間の罪のゆえに神から見捨てられた嘆きでありました。それは私たちが本来は嘆かねばならない嘆きでありました。最初に言いましたようにある小説家が情けないと書いていましたが、その情けない嘆きをすべきは私たちであったのです。しかし、私たちが嘆くべき、神から見捨てられる嘆きをイエス・キリストが嘆いてくださいました。

 その絶望の嘆きの中で主イエスは息を引き取られました。それまでどの人間も経験したことのない絶望の中でイエス・キリストは死なれたのです。「エロイ、エロイ、ラマサバクタニ」という言葉の響きが「エリヤ」という響きに似ていたからでしょうか、人々は「エリヤを呼んでいる」とか「エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いました。しかし、エリヤは来ることはありませんでした。見物人の目には、最後までイエス・キリストはみじめなお姿で、弱弱しく、神になぜわたしをお見捨てになったのですかと嘆いて亡くなった<自称救い主>であったのです。

<新しい時代>

 さて「イエスは、大声を出して息を引き取られた」とあります。さらに「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と続きます。これは神殿の至聖所を隔てる幕が裂けたということです。大祭司が年に一回、罪の贖いのために入っていく至聖所の幕が裂けたのです。この垂れ幕はかなり頑丈な幕であったようです。厚みが10センチほどもあり、両脇から馬がそれぞれ引っ張ても破れないようなものだったとも言われます。その幕が裂けたのです。それも高さ20メートルほどもある幕が上から下に裂けたのです。下からであれば、なんらかの人為的な力がかかったとも考えられなくもないですが、上から、というのはまさに神の力によって裂けたといえます。至聖所と人々を隔てていた分厚い幕が裂けたのです。ここは原語では「裂かれた」という受け身の表現になっています。まさに上から、神の力によって裂かれたのです。それは罪の贖いの業がまさに完了したということを指します。つまり、もう大祭司による贖罪の業が不要になったということです。イエス・キリストの十字架による完全な罪の贖いの業がなされたからです。

 キリストが深い嘆きを嘆いてくださっていたゆえに、私たちの嘆きべき嘆きを嘆いてくださったゆえに幕は上から下に裂けました。隠されていた至聖所があらわになりました。私たちに隠されていたものが開かれたのです。救いへの扉が開かれました。キリストが神と完全に断絶する嘆きを嘆ききってくださったゆえに、「空より声の来ることなし」ではなく幕は空の方から上から裂けたのです。まさに新しい時代の幕開けとして裂けたのです。

 人間の嘆きとイエス・キリストの十字架の上の嘆きは異なると申しました。しかしまた私たちはイエス・キリストが徹底的に嘆いてくださったゆえに、本当に嘆くことができるようになったのです。真実の嘆きを私たちも嘆くことができるようになったのです。空から声が来ることない、そのようなむなしい嘆きではなく、はっきりと、空に向かって、天におられる方に向かって嘆くことができるようになりました。私たちの嘆きはむなしく虚空に消えることはありません。どのような嘆きもキリストが十字架において完全に嘆いてくださったゆえに、神の前に差し出すことができるようになりました。運が悪い、環境が悪い、不条理な目にあった、そんな私たちの嘆きの、どんな一つ一つすらも、むなしくはなりません。さらに、私たちの罪ゆえに、ある意味、自業自得と思える苦しみであっても、私たちは嘆くことができます。誰にぶつけることもできない嘆きをもたしかに受け止めてくださる方がおられます。ですから私たちはどのようなときでも立ち上がっていくことができます。嘆くことができるというのは私たちの命を底支えしてくれるものです。私たちはむなしいもののうちにずぶずぶと沈んでいくのではありません。十字架にかかってくださり陰府にまで下ってくださったお方が私たちを下から支えてくださいます。ですから安心して嘆くことができます。真実の嘆きを嘆くことができるからこそ、喜びの日には心からの喜びを喜ぶことができるのです。



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