大阪東教会礼拝説教ブログ

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マルコによる福音書第6章14~29節

2022-06-19 16:47:30 | マルコによる福音書

2022年5月29日日大阪東教会主日礼拝説教「罪は暴走する」吉浦玲子

 洗礼者ヨハネは、主イエスに先立ち道を整える者としてあらわれました。長い長い旧約の時代からの神の約束が成就する、まさにそのとき、先立つ者として登場しました。言ってみれば旧約と新約をつなぐ人物と言えます。最後の預言者とも言われます。

 一方、主イエスの宣教の開始のとき、洗礼者ヨハネは捕らえられました。主イエスの登場とともに、洗礼者ヨハネは表舞台から去りました。洗礼者ヨハネの退場がまさに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という神の国の到来を告げる合図となったともいえます。

 そしてまた、時は満ち、というとき、満を持しとか、必要な舞台設定が整ったというイメージがありますが、「人間の罪が満ちた」ということも言えます。神から特別な使命を与えられて遣わされた預言者であるヨハネを捕らえるという人間の暴挙によって、人間の罪にさらに罪が増し加えられた、器になみなみと罪が満ちていたところに、最後の一滴が落ち、あふれてしまう、罪がもうどうしようもなくこの世界にあふれてしまった、その時に、まさに「時は満ち」たのです。神の国は近づいたのです。主イエスが宣教を開始されたのです。

 主イエスと弟子たちはその神の国の到来を告げ知らせました。病が癒され悪霊が追い出され、死んだ人すら生き返る、まさに神の業がなされました。その間、洗礼者ヨハネは牢のなかにいました。ヨハネは自分のなすべきことをなしたのち、言ってみれば不遇な晩年を迎えていました。神の召しにより、主イエスの到来を指示した預言者であるヨハネが、神に忠実に、十分にその役目を果たしたと言えるにもかかわらず、けっして恵まれた晩年を迎えていないことに何とも言えない思いがわきます。

 彼は特別に選ばれた預言者でありましたが、人間でありましたから、弱さも持っていたようです。他の福音書には、牢から弟子たちを送って主イエスに対して「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか(マタイ11:3)」と問わせたりしています。ヨハネは自分の後から来られる方を宣べ伝え、そしてまた主イエスに洗礼を授けましたが、来るべきお方が主イエスであるかどうか確信が持てなかったのです。主イエスはヨハネの弟子たちに自分のなさった業を語られ、それが神からのものであることを示されました。その弟子たちが伝えたことでヨハネが満足したかどうかは記されていません。聖書はそこのところは詳しくは記していません。大きな働きをしたヨハネですが聖書の記述はそっけないのです。

 しかし一方、その最期は壮絶な場面として描かれています。ここはオスカー・ワイルドの戯曲の題材とされ、他にも多くの絵画の素材ともなっています。そもそも洗礼者ヨハネが逮捕されたのは、ヘロデ王が律法で赦されない、もともとは他の兄弟の妻であったへロディアと結婚をしていることをヨハネが指摘したことに腹を立てたからでした。そこには、洗礼者ヨハネの名声が高くなり、ヨハネの民衆への影響力を恐れたという側面もあります。ちなみにここでヘロデ王と書いてあるのは、主イエスが降誕されたときにベツレヘムの二歳以下の子供たちを殺したヘロデ王ではなく、そのヘロデ王の死後、ガリラヤ地方の領主となったヘロデ・アンティパスのことです。一般には領主ヘロデと呼ばれる人物です。

 その領主ヘロデの妻へロディアは自分たちを非難した洗礼者ヨハネを恨み、殺す機会を狙っていたと書かれています。しかし、夫ヘロデは、「ヨハネが正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである」とあるように、積極的に洗礼者ヨハネを殺す気がないどころか内心喜んで洗礼者ヨハネの教えを聞いていたので、へロディアはなかなか洗礼者ヨハネを殺すことができなかったのです。権力者の優柔不断な態度は時々聖書に描かれます。のちに主イエスへ十字架刑を言い渡すことになるローマ総督ポンテオ・ピラトもまた主イエスに罪はないことを知り、助けたい思いはありながら、ユダヤの権力者と権力者に扇動された民衆に押されて主イエスを十字架刑にしてしまいます。

 人間の罪のあらわれというのは単純に黒か白かと分けられるようなものではなく、領主ヘロデやポンテオ・ピラトに見られるように、善意と悪意が混濁しているのです。正しい者、聖なる者への一定の理解や共感はあっても、最終的にはむしろ正しい者、聖なる者を抹殺する方向へと進んでしまうのです。しかしまたそれは、たまたま置かれた状況ややむを得ない条件であったからそうなったのではなく、もともとの罪があらわになっただけとも言えます。パウロが「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしてるのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ7:19-20)と語っているように、私たち人間の内なる罪は、私たちの善を行いたいという思いよりはるかに強く私たちの行動を縛るものなのです。

 領主ヘロデの罪は、妻へロディアの策略によりあらわになります。へロディアは前の夫との間の娘に、ヘロデの誕生の祝いの席で踊りを躍らせます。その踊りはヘロデと客を喜ばせたとあります。この娘の名前は歴史家の記録によるとサロメと言われます。絵画などを見るとサロメは妖艶に描かれている場合もあります。実際の宴でどのような踊りが踊られたのかはわかりませんが、ひょっとしたらいかがわしい感じの踊りであったのかもしれません。宴は大いに盛り上がり、義理の父であるヘロデも喜び、「欲しいものがあれば何でも言いなさい」といい、さらに「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」とまで言うのです。サロメは母に「何を願いましょうか」と聞くと、へロディアは「洗礼者ヨハネの首を」と答えます。そしてそれを少女はヘロデに伝えます。これを聞いたヘロデは「心を痛めた」とあります。「しかし、誓ったことではあるし、客の手前、少女の願いを退けたくなかった」ということで、洗礼者ヨハネは斬首され、その首が盆に乗せられ持ってこられます。

 ヘロデは「心を痛めながら」、しかし、周囲の人々の手前、ヨハネを殺しました。へロディアは、そのあたりの夫の気質をよくよく知っていたのです。人間一人の命を宴会のなかの軽い口約束のために奪うということに驚きますが、現代と人権への意識も異なり、権力者にはそれだけの横暴が許されたのです。ヘロデは心を痛めながら残忍なことを行いました。冷徹に行うより、心を痛めた方がまだましということはありません。罪は罪なのです。人間の罪の多くは、パウロが告白したように、「望まない」のに犯されるのです。ここには、たしかに「自分の望む善は行わず、望まない悪を行う」罪の姿があらわれています。

 この世界にはこのような罪が満ち満ちています。道徳や倫理や法律で縛ろうとも、罪は罪それ自体がまるで生き物のように増殖し、暴走していくのです。昨年末、多くの人が犠牲になった放火事件が梅田でありましたが、この世界に起こる罪の暴走に私たちは震撼します。しかしまた一方、私たちはだれかを宴会の余興で殺したりはしませんし、関係のない人を巻き添えにするような行いもしません。でも、罪の本質という点では変わらないのです。

 よく未信徒の方と話をしていて、罪というものを理解していただけないなと感じることがあります。だいたいはまじめな方で、ちゃんと生きてきておられるのです。きちんとした道徳、倫理観をもった行いをなさっています。そしてまたそういう方は、自分がいつも正しく生きているわけではないとは知っておられるのです。あからさまに悪いことはしないけれど、決していつもいつも自分が正しいわけではないことを自覚されているのです。日本におけるクリスチャン人口は1パーセントにも達しませんから、百人中九十九人は罪というものをご存じありません。しかしそのほとんどの方は善良な方なのです。むしろクリスチャンよりよほどしっかりとしたまじめな方が多いのです。

 しかしそのまじめな人々は知らないのです。人間の内側には、生首を盆に乗せて楽しむような罪があることを。実際に、生首を盆には乗せなくても、その罪は内側から人間をさいなむのです。不安や恐れという形で。どれほど心身を鍛錬し、自己抑制して、性格的にも円満な形で、ポジティブな心で生きていても、ちろちろと罪の赤い舌はすべての人間の内にあるのです。今日の聖書個所の最初には、時系列としては逆転した形で、洗礼者ヨハネを殺した後、ヘロデが、人々が主イエスのことを洗礼者ヨハネの生き返りだと言っているのを聞いて恐れたことが記されています。「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」とヘロデは言います。ここにもヘロデの弱さがあらわれています。推測ですが、ヘロデをそそのかした妻のへロディアはそんな噂を意に介していなかったでしょう。ヨハネが生き返ったと怯える夫を笑ってバカにしていたかもしれません。しかし、恐れるにしろ、バカにするにしろ、まさに罪は人間の内でゾンビのようによみがえって暴れるのです。洗礼者ヨハネは生き返ることはありませんでしたが、罪はアダムとエバの昔から人間の内に生き続けているのです。そしてそれは人間には決してコントロールできないのです。

 そのコントロール不可能な罪に立ち向かってくださり勝利してくださったのが、主イエス・キリストでした。キリストは十字架において、すべての人間の罪の罰を受けるという形で罪を引き受け、私たちから罪のくびきを取り除いてくださいました。その主イエスを信じない限り、どれほど聖書を学ぼうが、讃美歌を歌おうが、人間は罪のくびきからのがれることはできません。この地上においても、そしてそののちも罪によってさいなまれるのです。

さて、無残な最期をとげた洗礼者ヨハネですが、ヨハネはその自分の生涯をどのように思っていたのかは聖書からはうかがい知ることはできません。彼自身がどのように思っていたかはわかりませんが、ヨハネもまた御国で主イエスと出会い、その生涯におけるすべての涙をぬぐっていただくのです。その無残な最期を含めて、彼の生涯の歩みのすべてに神の愛が注がれていたことを彼自身も知ることになるのです。罪もないのに斬首されることのうえに神の愛があるのかと感じられるかもしれません。キリスト教の伝道者の多くが殉教し、悲惨な最期を遂げました。ペトロもパウロもそうです。しかしなお彼らは神の愛を感じていたのです。自分自身が神に救われたことを知っていました・

ある牧師がこういうことを書いていました。「罪の反対語は正義とか聖だと思っていたけど、愛だ」正しい正しくないということに注目するなら正しくない罪の反対は正義、義です。また罪のあらわれが醜く汚れたことを考える時、罪の反対は聖、清らかであると言えます。しかし、神の教えの神髄は、神と隣人を愛することです。罪は神から離れることですから、神と隣人を愛することから離れることが罪です。ですから罪の反対は愛であり、罪とは愛のないことであると言えます。ヘロデもポンテオ・ピラトも何が正しく清らかであるかは知っていたのです。しかし、そこに愛がなかったので、内なる罪が暴走したのです。何度も申し上げているように、愛とは単に相手に忖度したり、和やかに仲良くすることではありません。ヘロデもポンテオ・ピラトもむしろ人間相手に忖度をして罪に陥りました。愛ではなかったからです。新約聖書で主イエスと対抗したファリサイ派の人々は誰よりも神の義と聖を求めた人々でした。しかしそこに愛がありませんでした。なので主イエスから非難されたのです。愛とは相手のために自分自身が痛むことです。キリストが十字架で痛まれたように、相手のために痛むことが愛です。私たちは生首を盆に乗せて楽しむことはしませんし、ファリサイ派のように律法を掲げることはしませんが、愛することがなければ、罪がうごめきだすのです。そして愛がなければそこには罪ゆえの不安と恐れが満ちてくるのです。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。(ヨハネの手紙一 4:18)」自らの内にもこの世界にも罪が満ち、恐れに満ちていますが、なお私たちは恐れません。神の愛が注がれているからです。私たちもまた愛を捧げて生きていきます。



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