犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

和解勧告 前半

2011-02-12 23:55:57 | 国家・政治・刑罰

 民事裁判に携わる裁判官は、判決を書きたがらず、原告と被告を和解させようとする。判決文を書くには労力がかかるからである。中には、原告と被告が和解を拒み、判決を望んでも、なお和解勧告を試みて期日を重ねる裁判官もいる。これは、書かなければならない判決が溜まっているときの引き延ばし策である。そして、それを上手く誘導するのは裁判所書記官の役目である。
 
 原告側の弁護士からは、悲鳴に近い電話が書記官室にかかってくる。弁護士の言葉は、書記官である彼の胸に容赦なく突き刺さる。
 原告本人は、すでに精神的に限界に来ているという。この期に至っては、勝ちなら勝ち、負けなら負けでよい。腹は括っている。宙ぶらりんの状態に置かれるのが一番つらい。そして、あまりに裁判が進まないと、弁護士が真剣に訴訟に取り組んでないように思われ、原告本人と弁護士の信頼関係が崩れてくる。弁護士の立場も少しは考えてくれないだろうか。彼は、弁護士の言葉に対し、わざと苦しそうな声色を作って「裁判官に伝えます」と繰り返すしかない。

 被告側の弁護士からも、不快感を露わにした電話が定期的にかかってくる。彼は何度も怒号の矢面に立たされているが、なかなか免疫力がつかない。
 弁護士によれば、被告本人は裁判所の遅延のせいで今後の生活の見通しが立たず、国家賠償を検討せんばかりの剣幕だそうである。彼は立場上、やはり「裁判官に伝えます」と繰り返すしかないが、弁護士は「人のせいにするんじゃないよ」と憤慨する。彼は苦し紛れに「裁判所も大量の事件で忙しいんです」と理解を求めるが、弁護士は「忙しいのはどこも同じだ。理由になるか」と激怒して火に油となる。

 裁判所への審理の催促には、大きく分けて、「不快感」と「悲鳴」がある。前者は爆弾であり、後者は地雷である。人間の心理としては、爆弾のほうが遥かに単純である。
 裁判など一刻も早く終わらせて、事件そのものを忘れたい。勝ちでも負けでもいいから、とにかく過去のことにしたい。引きずりたくない。このような意志を有する側からは、強烈な不快感が爆弾となって投げつけられる。これは多くの場合、被告側である。
 他方、悲鳴が地雷となる側、すなわち原告側の多くは、勝ちでも負けでも救われることがない。裁判を起こした以上は、表面的には「無念を晴らす」「正義を示す」という大義名分が必要である。しかし、実際のところは、裁判を闘っていないと死んでしまうという恐怖感が、裁判を続けている根底の部分にある。裁判の過程でますます傷つき、二次的被害を受けようとも、事件以外のところで気を紛らわすことなどできるはずもない。


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フィクションです。後半に続きます。

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