犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

全国犯罪被害者の会(あすの会)岡村勲弁護士が代表幹事を退任

2011-01-26 23:26:10 | 国家・政治・刑罰
 1月23日、全国犯罪被害者の会(あすの会)の岡村勲弁護士が同会の代表幹事を退かれました。
 「1997年、仕事の上で私を逆恨みした男によって妻が殺害されました。弁護士生活38年目にして犯罪被害者の遺族となって、被害者や家族がどんなに悲惨で、不公正な取り扱いを受けているかということを、初めて知りました。加害者の人権を守る法律は、憲法を始め詳細に整備されているのに、被害者の権利を守る法律はどこにもありません」。あすの会のホームページの冒頭にある岡村弁護士の挨拶文です。
 岡村弁護士の上記のような決意表明に対し、「心変わり」「変節」「転向」との意見をあちらこちらで耳にしたことがあります。38年間も人権派弁護士として被告人のために働いてきたのに、ここまであっさりと信念を捨てられるものなのか。無罪の推定を原則とし、被告人の更生を願い、死刑廃止を訴えてきたのは嘘だったのか。第一東京弁護士会会長や日弁連の副会長まで務めたにもかかわらず、弁護士としての正義はその程度のものだったのか。これらに対する解答としては、「はい、その程度のものです」と答えるのが正確だと思います。

 岡村弁護士の行動を「心変わり」「変節」「転向」と捉えるためには、客観的な原理のほうが確固として変わらず存在し続けるのに対し、主観的に特殊な体験をした者が動揺のあまり真実を見失ってしまったという構造を前提としなければなりません。ここにおいて、原理が確固として変わらないのであれば、それは絶対的正義である必要があります。ところが、絶対的正義はそれが絶対的であると宣言した瞬間から束縛を生じます。従って、人は純粋に正義を追求することにより、誰に頼まれたわけでもなく自由意思で絶対的正義を背負い込み、それが譲れないということになります。
 これに対し、岡村弁護士の体験は、自由意思ではなく受動的に過酷な運命に巻き込まれ、正義や悪の理屈を弁じる以前の段階において、その人生を全身で生きざるを得なくなっていたというものです。弁護士の地位は単なる肩書きに過ぎず、肩書きよりも人間が先であるのは当然のことです。そして、人の心を動かす言葉は、なぜか弁舌の技術を超えたところに生じます。頭に血が上った威勢のいい言葉と、胸が潰された中で絞り出された言葉とでは、人はその質の違いを受け取ります。岡村弁護士の38年間の信念が「その程度のものであった」とは、このような意味で捉えられる必要があります。

 法律の素人は、法律家とまともに戦おうとすれば、頭と口でほぼ確実に負けます。この点において、岡村弁護士の法的知識、論理的思考力が果たした役割は計り知れないものであったと想像します。弁護士会の人権論が絶対的正義である限り、重罰化、被害者の裁判参加、公訴時効の廃止などの政策は絶対的に不正義となります。そして、このような不正義が行われようとしているのは、被害者は感情的に厳罰を叫んでおり、法の裁きを復讐と勘違いしているためだと結論づけられることになります。
 このような議論の核心となるところは、犯罪者の人権を守る人権論が犯罪被害者に対する逆差別となっている点の是非であり、これは絶対的正義の価値を根本から問い直す内容を含んでいます。日本で犯罪被害者の権利の確立が遅れてきた原因も、法律家の頭と口が素人の被害者を負かし続け、このような議論の核心が表面化しなかった点にあると思われます。ここ数年の議論においても、弁護士会からは「被害者は裁判参加によってさらに傷つく」「重罰化では根本的な解決にならない」といった意見が出されていました。逆差別の構造を不明瞭にするこのような懐柔策に対し、論理的に反論するためは、やはり岡村弁護士の力が不可欠であったと想像します。

 さらには、岡村弁護士の「心変わり」「変節」「転向」そのものに対する法曹界のショックも大きかったように見受けられます。人権派弁護士であれば、たとえ家族が殺されたとしても、あくまでも被告人の側に立つべきだとの主張も理屈としては成り立ちます。しかしながら、現実を前にしてみれば、それが動かぬ現実を正確に描写したものか、机上の空論であったのかは自ずと明らかとなります。そして、岡村弁護士のような被害に遭っていない弁護士は、その幸運が単なる偶然であり、自己の努力によるものではないとの現実に向き合わざるを得なくなるものと思います。
 仮に他の人権派弁護士が岡村弁護士と同じ立場に立たされたならば、これも想像の域を出ませんが、恐らく99%は岡村弁護士と同様の「心変わり」「変節」「転向」に至るのではないかと思います。個人的な感情により刑事司法を歪め、私物化しているとの非難など、全く意に介さないということです。他方で、1%の弁護士は、頑として従来の信念を曲げずにいるのではないかと想像します。そして、人々はその態度のうちに自己欺瞞を看取し、絶対的正義の恐ろしさを感じ取り、死者の救われない命に思いを寄せることになるのだと思います。

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