おはようヘミングウェイ

インターネット時代の暗夜行路。一灯の前に道はない。足音の後に道ができる。

2006年夏 パンセ Ⅴ 作家の死

2006-08-25 | Weblog
膵臓がんで7月末に79歳で亡くなった作家、吉村昭さんは、自ら選んだ覚悟の死だったことを読売新聞(8月25日付朝刊)が伝えている。

記事の一部を引用する。

「妻で作家の津村節子さん(78)が明らかにした。津村さんによると、吉村さんは死の前日の30日夜、点滴の管を自ら抜き、ついで首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートも引き抜き、直後に看病していた長女に「死ぬよ」と告げたという。遺言状にも「延命治療はしない」と明記していた。家族は本人の意思を尊重して治療を継続せず、吉村さんはその数時間後に死去した」

2001年春、吉村さんが長崎を訪れた際、地元放送局の展望フロアーでお会いしたことがある。吉村さんの知人、内藤初穂さんがノンフィクションの大著「トーマス・B・グラバー始末 明治建国の洋商」を上梓し、長崎での講演会に応援弁士として来崎した。「戦艦武蔵」「ふぉん・しぃほるとの娘」など長崎ものを素材とした歴史小説の先達として、内藤さんに書き方の助言などをしたことを話していた。

内藤さんは、あの「星の王子さま」の訳者、内藤濯(あろう)さんの子息だ。トーマス・グラバーは幕末から明治にかけて長崎を拠点としたスコットランド出身の冒険商人。キリンビールの創業にも関わり、長崎の名所グラバー園に邸宅が残っている。

お会いした時の吉村さんの印象。「長崎は何度も訪れたなあ。今回でえっーと……」と話す姿は好好爺然としていた。大学の文学部教授風にも見えた。温厚さがにじみ出ていた。ちょっと声に力がなかった。講演会では語り手としても一級だったことがうかがえた。ユーモアを交えた静かな語り口。長崎との関わりや思い出話が聴く者を引き付けた。30分ほどの講演だったが、「何時間でもいいからもっと聴きたい」と思わせた。

「死ぬよ」覚悟の尊厳死。新聞はこう見出しを付けた。吉村さんは生命維持の絆を自らの手で外した。いつかはやってくる死。どう向き合うかは、どう生きてきたかの最終章でもある。盛りの夏に生き方についてあらためて自問することになった。





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2 コメント

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最後の「作家」 (川獺(かわうそ))
2006-08-28 20:17:08
私が最初に吉村昭氏の著書に触れたのは「戦艦武蔵」だったのか「深海の使者」だったのか「総員起こし」だったのかは記憶にないのですが、怜悧な文章を積み重ね、鬼気迫る事象を描ききる作家であったと想います。



出色は「仮釈放」「漂流」「大黒屋光太夫」



特に「漂流もの」は、いつもの怜悧な吉村昭とは違って、より感情的、感傷的に描かれていたような気も致します。



「記録文学」と呼ばれることもありますが、その筆致力は文芸というものの醍醐味を教えてくれたと感謝致しております。



奇を衒ったフィクションではなく、事実の積み重ねのなかで、人間の営みの哀しさや、歓びを表現する最後の「作家」であったと、その死を悼みます。
感嘆 (nazo)
2006-08-30 17:35:25
川獺さん、よく読んでいるなあ。脳内に留め置くのが惜しいほどの読書量だ。精製しアウトプットされたものを読みたくなってくるねえ。どうしてます?

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