hazar  言の葉の林を抜けて、有明の道  風の音

細々と書きためたまま放置していた散文を、少しずつ書き上げ、楽しみにしてくれていた母に届けたい

流離(さすら)ふ橋 (承 前)

2019年10月03日 | 散文詩

 【描かれた 仲國(實國)】

下村 観山(1873-1930)にも 菱田 春草(1874-1911)にも
大正~昭和初期の 作例に 嵯峨野を彷徨(さまよ)ふ「仲國」が 見受けられる
春草の横額は 大正末には「業平(なりひら)」の画題に 変わってしまうのだが
 
小さなモノクロ写真で見る限り 春草の横繪(よこゑ)は
黒ずんでしまった 銀の望月に照らされた 薄(すすき)の原を
馬上の膝まで 埋もれながら 掻き分け 進む
 
それに対し 観山の竪軸(たてじく)では 乗り込んだ 流れの途上
途切れ途切れに聴こえて來る 箏(こと)の音に耳を澄ます
仲國(實國)の乗る 馬の足下は 小さな白い花が
群れ咲く如(ごと)く 早瀬の波が逆巻く
細部は判然とせぬ ものの
春草の仲國(實國)が 先ゆく徒歩(かち)の 供の者を
連れているのに対し 観山の仲國(實國)は 独り騎乗する

春草 観山の どちらも 仲秋の
満月に照らされた 白馬のようだが
 
別に ほぼ黒地に 白の斑(まだら)の
淺瀬に立つ 馬の繪(ゑ)を見た 憶(おぼ)えも ある
 
 
 【朱華(はねづ) 黄丹(おうに) 水淺葱(みづあさぎ)】
 

夢の中で 誰かが薄暗い茶室に独り坐っている
殆(ほとん)ど見えぬ 床の間に幽(かす)かに
黄昏(たそかれ)のように 軸が掛かっている
 
三対一くらいだろうか 
竪長(たてなが)の 大画面全体が
朱華(はねづ)か 黄丹(おうに)の やや薄まったような
高貴で温かな 淡い橙色の光に浸されており それが
 
広やかな 何もない
上半分より やや少ない ところでも
入り組んだ 葦(ヨシ)の繁る
下から三分の二くらいの うねりくねる
繁り立ち なびく葉の間でも
同じように 滑(なめ)らか なのは
すべてが 水面(みなも)だからだ
 
画面の四方(よも) 端から端まで
その水面(みなも)全体が 眠る柔肌のような
馨(かを)り立つ 温かな光に照らされている
 
左上に佇む 人を乗せた馬の
蹄(ひづめ)から脛(すね)までが
淡橙色の光の中に沈み込んで
陽に照り映え 温かく染まった 水の広がりが知れる
水紋や 漣(さざなみ)が まったく ない
時の絶えたような 広やかな湿地
 
朱華(はねづ)は 郁李(にわうめ)の花びらの色味に由来する
薄い紅色の 唐棣(にわうめ)と同じとする説や
黄色とする説などがあり 色名 朱華(はねづ)についても
中国の蓮の花の名が伝わったとも 郁李(にわうめ)の古名とも
 
褪(あ)せやすかった ことでも知られ 移ろふ心に かけた歌が知られる
 
 
想はじと 言ひてし ものを はねづ色の
うつろひ やすき 我(あ)が 心かも (大伴 坂上郎女 万葉集)
 
想うまいと(口に出して)言ったのに はねづ の(花の)色の ように
変わりやすい わたしの心よ
 
 
もう 想うまい と 聲(こゑ)にまで出して
自他ともに 宣言した のに 氣づくと また 想っている
というのは 変わりやすい どころか
変わろう としても 変わる ことが 出來ず
一途(いちず)に 想いつづける 自らを 嗤(わら)ふか
 
朱華(はねづ)色のように ふいに真直ぐに差し初め
あるいは 没し去ろうとする 陽の光を浴びて
淡く 初々しく 仄(ほの)かに耀(かかや)くように
染まった ように見えても
元來の色 染める前の 素地の色に
直ぐに 戻ってしまう という ことか
 
それなら 朱華(はねづ)色は 想うまい と言った ことや
自分が そう出來る と考えたこと そのもの であって
若さや 幸運や 美しさが そうである如(ごと)く
光のように 偶(たま)さかに降り注がれて 浴び耀(かかや)いても
傾き曇(くも)り黄昏(たそかれ)て 翳(かげ)り消えてしまい
殘らぬのだろうか
 
それは自分のもの ではなくて 仮のもの 借りもの なのか
 
馬上の人は ごく薄い 淺葱(あさぎ)色
(ほう)を纏(まと)っている ように見え
その色は 水淺葱(みづあさぎ)に近い のだが
これは 江戸時代には 囚人の纏(まと)う色だった
その色が 朱華(はねづ)色の光を浴び
斑(まだら)になって 双方の色が 相対する色の中に 見える
 
朱華(はねづ)色は 黄丹(おうに)色の淡い色だが 平安時代には
親王の纏(まと)う色で 禁色(きんじき)の一つだった
一方 薄められていない 黄丹(おうに)色のほうは 昇る朝日の色として
皇太子の袍(ほう)の色と定められ 今も禁色(きんじき)である
 
禁色(きんじき)の 昇る朝日の色が
囚(とら)われ人(びと)の色の中に浮び上る
互いに鬩(せめ)ぎあい 逃れては 身を翻(ひるがへ)し 追い求め
巴(ともゑ)なす 魂魄(こんぱく)の如(ごと)く
 
 
【未草(ヒツジグサ)の 花の間と葉の底に】
 
 
左右下より 画面全体を紆余(うよ)曲折しながら
淺瀬を満たす水に 迷路の籬(まがき)のように並ぶ
褐色に枯れた蘆(ヨシ)の葉が 靡(なび)き
茎の周りの 水面(みなも)に数多(あまた)
未草(ヒツジグサ)の白い花が散らばり 星々のように瞬(またた)く

その数 七十九 右上に 八 左から右へ 十七 十四 二十 二十
すべて 筆の穂先で 莟(つぼ)んだ状態を 描く
小さな卵型が深く切れ込んだ 浮き葉は もっと ある 三倍ほどか
蘆(ヨシ)と同じく 褐色に枯れている ようにも見える
 
が それもまた この差し初(そ)め あるいは 消えゆく
淡い黄丹(おうに)または 朱華(はねず)色の
陽光を浴びたから かもしれぬ
 
有明月 殘る かはたれ あるいは
日没直後の 望月 昇り來る 黄昏(たそかれ)

七十九は素数だが 和歌や俳句の 三十一 十七も 素数であり
歌や句を譜に 五七五の繰り返される 筝曲(そうきょく)の ように
蘆(ヨシ)の間の水面に ちらちらと小さく耀(かかや)く
光の破片が 上がり下がり並ぶ
 

陸 卿子(明末 1600年頃 女性) 短歌 行(後半)

悲歡未盡年命盡     悲しみと歓びとは 未(い)まだ尽きざるに 年命は尽き
罷却悲歡両寂寞     悲しみと歓びと 罷(や)み却(は)てて 両(とも)に寂寞
唯餘夜月流清暉     唯だ余(のこ)るは 夜の月の清き暉(ひか)りを流し
花間葉底空扉扉     花の間と葉の底に 空しく 扉扉(ひひ)

扉扉は ちらちらと 小さく かがやく 光の破片

(吉川 幸次郎『続 人間詩話』 その百 陸 卿子 朱 妙端 一九六一年四月 岩波新書 278 b)
 
 
その一つ一つが扉なのか どうしたら開くのか
 

褐色に枯れた 蘆(ヨシ)の叢(くさむら)の途切れた
左上の静かな水面に 斑(まだら)の馬に乗った 仲國(實國)が
後ろ姿で佇(たたず)み 遠く かすかな余韻に 耳を傾けている
 
これまでの紆余曲折の道を表すように
水辺の 蘆(ヨシ)の叢(くさむら)は くねり靡(なび)き進み

そこに 点々と躱(かく)れ浮ぶ 未草(ヒツジグサ)の
小さな白い花々が 偶(たま)さかに
小督(こごう)の奏でる 箏曲(そうきょく)の
仄(ほの)光る音符のように 消え殘る
 
蘆(ヨシ)の棚引(たなび)く譜に つぎつぎ灯(とぼ)る
未草(ヒツジグサ)の音色

身を捩(よじ)り逃れつつ 導く
かすかな音色を辿(たど)り 揺蕩(たゆた)ふ
目の前に ひらけた水を渡った 向う岸

躱(かく)れても 躱(かく)れても 薫(かを)り立つ
奏者の 嫋(たお)やかで 確かな気配

黒地に白の斑(まだら)の馬の 額や背の白は
仲國(實國)が 探索の旅の手掛かりとして集めて來た
箏(こと)の音色の よう でも あり

水に浸(ひた)った 蹄(ひづめ)の上に戰(そよ)ぐ 白い毛は
躱(かく)れながらも 導いて來た
箏(こと)の音色の かすかに瞬(またた)く 純白の煌(きらめ)きを
辿(たど)り染まりつつ 歩んで來たから だろうか

凍(い)てつく 冬の日の出の 左右に顕(あらは)れる 幻日
春の宵 殷殷(いんいん)と響きつつ 谿(たに)を渡り遠ざかる 鐘の音
胡蝶の夢を見つつ 眠る荘子の頭上に浮ぶ 透き通った 幾つもの顔

目に見えぬ 箏(こと)の 水面(みなも)に 棚引(たなび)き
とけ落ち 消え蘇(よみがへ)る 音色

    Claudio Arrau - Debussy, La cathédrale engloutie(沈める寺)
 
 【宮内卿(くないきょう)】
 
李 賀 と同じく 若くして 急な病に斃(たお)れた 女性歌人
宮内卿(くないきょう)(十二世紀末-十三世紀初頭)は 後鳥羽院に見出され
歌合に活躍するも 俊成 九十賀に 院から贈られる 祝の法衣に
建礼門院が 紫糸で 刺繍する 二歌の一に選ばれながら
贈られる 俊成自身が歌っているかのような 内容に作ってしまったものを
辛くも 二文字を替えられ 院からの祝の歌となるよう直された
経緯も あり 程なく「あまり歌を深く案じて 病になりて
ひとたび死にかけ 父から諌(いさ)められても やめず ついに早世した」
と伝えられる 享年 二十歳前後
 

うすく こき 野辺の みどりの 若草に
跡まで みゆる 雪の むら消え

軒 しろき 月の光に
山かげの 闇をしたひて ゆく螢かな

色かへぬ 竹の葉 しろく
月さえて つもらぬ雪を はらふ秋風
 
 
いまは もう 失はれ
いまは まだ そこに なき
朧(おぼろ)な名殘(なごり)
そこはかとなき気配を
見てしまはぬよう 視線を逸らし
そろそろ と静かに 心を開け放ち
聴き取らふとする
移ろひ 消えゆき
翻(ひるがへ)り 宿る 刹那(せつな)
 
俊成に贈られた法服に 縫い取られる際 直された歌は 次の通り
 
ながらへて けさ「ぞ」うれしき 老の波
やちよをかけて 君に仕へ「む」
ながらへて けさ「や」うれしき 老の波
やちよをかけて 君に仕へ「よ」

 
異なる 歌が載っている ように見える
 
 
行く末の 齢(よはひ)は心 君が経む
千歳(ちとせ)を松の 蔭に隠れて
 
 
心は 千歳 待つ 蔭に 隠れて
 
 
建礼門院は 高倉天皇の后(きさき)
高倉天皇は 小督(こごう)を愛し
高倉天皇の子 後鳥羽院は
宮内卿(くないきょう)の才を愛で
 
小督(こごう)は 音樂を愛し
宮内卿(くないきょう)は 詩歌を愛し
二人の歌う音色は 青空に透ける
月白(げっぱく)に浸され
咲いては 水底へ身を沈める
未草(ヒツジグサ)に似るか
 
 
 【魂と 魄と】
 
李 賀 に「長歌 續(また) 短歌」という歌が あり
その解説に 原田 憲雄 大師は言はれる
 
 
この詩は 昼の世界と 夜の世界との 二つの部分より なるが
夜の世界は 昼の世界に対応しつつ さらに幽奇である
 
夜の月を 昼の秦王に ひきあてて 説いてきたが
月は 実は 秦王の おもかげを存しつつ すでに秦王を超え
詩人の肉体を抜け出して 飛翔する魂であり
詩人は 実は 魂に去られながら 地を離れえぬ魄の
魂を慕いて鬼哭する姿に ほかならぬ
 
中国の人は 人間は 魂と 魄とが 合して
肉体に宿ったものだ と信じていた
 
魂は もと天上のもので 罪を獲(え)て
一時 地上に堕落したものである
 
魄は もと地下のもので たまたま脱出して
地上に その安住の居を 求めるものである
 
幽閉の黄泉を遁(のが)れた魄は
天上から來た魂の うるわしく気高い姿に
恋着結合し 肉体を愛の巣として 地上に宿る
 
魂も また 魄の可憐に心ひかれて
人間の世界を その住居とするが
もともと天上のものゆえ
何らかの衝撃を受けると ただちに飛翔して
天上に帰ろうとする
 
魄は 魂と結び その浮揚の力によって
辛うじて地上にとどまり 光明を楽しんでいるが
足は なお 黄泉の鎖が断ち切れていない ため
つねに地下に向って 牽(ひ)かれている
 
魂に去られては 再び闇黒(あんこく)の泉下に堕落せねばならぬ
そこで しっかり魂を捉へて離さず それでも己の手をすり抜けて
魂が上昇しようとすると 黒々とした峰と化して その後を追ひ
それも かなわずに 魂が月となって飛び去った後は
人間世界と黄泉(よみ)との境を 徘徊低迷するのである
 
人は そのような構造をもつ存在であるから
現実に不如意ならば これを棄てて 夢想の天上に遊ぼうとする
この詩の前半において 夏日のもとに飢渇しつつ彷徨した詩人が
夜の世界に歩み入ったのは 不如意の現実を去って
夢想の天上に遊ぶことを 歌ったものである
 
現実を去ることは すなわち死であり 魂魄の離散である
魂にとっては その離散は 地上の不如意からの脱出であり
天上の浄福への還帰であろうが 魄にとっては 地上の苦悩よりも
さらに恐ろしい 孤独 地獄への召喚に ほかならぬ
離離たる夜の峰の 不毛の石群を降下しつつ ふと振り仰いだ
中天に 嬉しげに遠ざかってゆく魂を見出したときの
魄のかなしさ うらめしさは いかばかりであったろう
 
「長歌 續 短歌」よりは たぶん後に作られた「感諷 五首 三」は
「漆炬 新人を迎え 幽壙 螢 擾擾」と結ぶ
漆炬は 魂に去られた魄を待つ 黄泉の迎え火であり
擾擾たる螢は 地獄からの脱出を果たさず ひとり さびしく 引き立てられて
泉下に帰る 魄に対して はなたれた 幽鬼たちの 声なき哄笑であろう
 
そうして この哄笑は また「蘇小小(そしょうしょう)歌」の 西陵の下に
雨吹く風となって 陰暗の世界に 冷冷たる鬼火を はなちつつ
永遠に吹きつづけるのである
(李 賀 歌詩編 1 蘇小小の歌 原田 憲雄 訳注 平凡社 東洋文庫 645)
聴こえぬだろうか
想ひ出せぬ 失はれて久しき調べが
柔らかなる指と 清らな唇が
音のせぬ 薄闇の膜一枚 隔てた 深遠の向ふで

この歌を奏でる花は 枯れ蘆(ヨシ)の下に躱(かく)れ咲き
人知れず寄る辺なき 侘(わ)び暮しの身
摘み取りて持ち帰り 密かに献上すれば
玉の階(きざはし)の籠の鳥 天の川に帰れるわけもなく
己自身が これを聴くのも最後と

この後(のち)ずっと また聴きたい と希(こひねが)ひ
その音色が消えた後の 静けさを聴き
閉ぢて沈む花の上に 鎖(とざ)されゆく水紋を
果てしなく空しく広がる 心に見るだろう

そう想ひながら 水面(みなも)に踏み込んだまま
佇(たたず)んで居たのは 誰だったのか
誰を探して 魄が 魂を 探すように
自らの翳(かげ)が 躱(かく)れ沈む 花と重なる

背後で高く昇りゆく 薄い満月が
空の闇の深みに 天の川を躱(かく)している
蘆(ヨシ)の茂みに劃(かく)されながら
仄(ほの)かに耀(かかや)き渡る水面(みなも)に
翳(かげ)は連なり咲いている

日暮れとともに閉ぢ 葉蔭に沈んだのに
それとも 夢見ているのだろうか
風に靡(なび)く形に月光を浴び
遠く廻(めぐ)る月を譜に記し
水底(みなそこ)に睡(ねむ)る 花の夢から
月白(げっぱく)に耀(かかや)く音色を 浮び上らせ

その音(ね)は あたりに立ち籠(こ)むる
月の光の背後に響(とよ)み
水底(みなそこ)に睡(ねむ)る 花の奥に明るむ
夢の音色を一つずつ 觸(ふ)れ渉(わた)りながら
逃(のが)れ躱(かく)れむとする
淡き片翼が水面(みなも)を翳(かす)め

映らぬ翳(かげ)を仄(ほの)白き響(とよ)みに浸し
両翼の幻となって 煌(きらめ)き消ゆる のか


夢から醒(さ)め 茶室を訪ねると
それらしき軸が 掛けられていた形跡は なかった
茶室へ通ずる池を渡る橋も 朽ちて久しい
杜鵑(ほととぎす)の聲(こゑ)が響くことも なかった
だが ずっと羽音は していた

胸郭の奥 いつからか そこに久しく捕へられて
肋骨にぶつかる 羽搏(はばた)き
繪(ゑ)の裡(うち)から漂ひ出(い)づる
月白(げっぱく)の調べの殘響が
消えゆくところ 橋は掛かる

いつか その橋を見つけ この羽搏(はばた)くものは また
飛び去ってゆくだろう
 
 
暗がりに 仄(ほの)蒼(あを)く光る
ずぶ濡れの 凍るように冷たい 手を取ると
叩きつけ 吹き荒(すさ)ぶ 雨の涙の中 轟音が途絶へた
 
黄昏(たそかれ)よりも 一滴(ひとしづく)の涙ほどに
温かき色が 初めて観る 翳(かげ)の顔(かんばせ)の
奥の 月かげの眸(ひとみ)から 初めて溢(あふ)るる
泉のように 伝はって來た
 
たをやかな馨(かを)り
見ると その手の中で 萎(しを)れ黒ずんだ
蘭草(フジバカマ)の花が 生き返り
仄(ほの)瞬(またた)く眼差(まなざ)しを咲かせていた
 
ふいに音もなく 大きな息を吐くような 風が巻き起こり
背後から数多(あまた)の蝶が ふはり ふはり 押し寄せた
一面に広がり続く 花に
 
誰も いない
永(なが)の雨が已(や)んで 蘆(ヨシ)の葉から水面(みなも)に滴る音
仄(ほの)かに甘い馨(かを)りが漂ふ
涕(なみだ)と微笑みを含んだ 伏せた眼差しのように
 
蘭草(フジバカマ)の花に 淺葱斑(アサギマダラ)が寄り添ふ
夢を
水底の未草(ヒツジグサ)の花が
見ている
水面(みなも)に散り敷く 月の光の翳(かげ)で
それとも
 
李 賀が 宮内卿の 濡れそぼった手を取り
黄昏烟(けぶ)る 年古(としふ)りた木の翳(かげ)から
歩み出すと そこは
一面に広がる 薄く濃き緑の野に 遅い春の淡雪が
消えゆく ところで
その手は ひし と 李 賀の指を握りしめ
視野の隅で 唇が燃えるように戦慄(わなな)き
 
永く緩やかに 白い息を吐くと
辺りは 月明りの宵に鎖(とざ)されゆき
白い手が置かれた壁から
視線は離れ
細く瞬き 燃える糸を曳いて
遠い山裾の森へ向ひ
草すれすれに かすかに速度を上げる

あなたは 何を見るか
月の光に 花は葉となり 葉は花となる
光は雪に 風は雨に
紅葉は消え 黒々と鎮(しづも)り
竹の葉が一枚 風に白白と搖(ゆ)れ
節の間で薄闇に眠る 冬の記憶を照らし
冷たい匂いを放つ
 
雨降りやまぬ 山かげの森の
蘭草(フジバカマ)の眸(ひとみ)から
旅立った螢が 月光の雪 舞う中
水底(みなそこ)で眠る 未草(ヒツジグサ)に夢を灯(とぼ)す
それは 箏(こと)の調べを明滅し
蘆(あし)を搖(ゆ)らし 笛の音を目醒(めざ)めさせ
水辺に眠る 旅人の馬の耳を欹(そばだ)てさせる
あなたは 何処に いるだろう
 
 
李 賀 感諷 五首 三 結句
 
漆(うるし)の炬(かがり火) 新(しき 死)人を迎え
壙(小暗き 深き墓穴)に 螢 擾擾(じょうじょう と 乱れ騒ぐ)


宮内卿

軒 しろき 月の光に
山かげの 闇をしたひて ゆく螢かな
 
 
螢が一つ 古く荒れ果てた墓穴を迷ひ出(い)で
山かげの蘭草(フジバカマ)のもとを目指し 飛んでゆく
昔 昔は 浅葱斑(アサギマダラ)か
 
月は 皓皓(かうかう)と耀き 想い返す 雪霽(はれ)の夜
忽(たちま)ち凍りかけ 螢は
白く鎖(とざ)された水面(みなも)へ 落下
 
遙(はる)か下で 実を孕(はら)み夢見つつ 永(なが)の眠りにつく
未草(ヒツジグサ)に その翳(かげ)が差す と
気泡氷結を伝い 靄(もや)が立ち昇る
 
螢は 夢から醒(さ)めたように ふらりと飛び立つ その後へ
薄い翳(かげ)が 身を起こし すい と 追い抜き 身を躱(かは)し
二つの螢は 絡み合い 二つの欄干を閃(ひらめ)かせ
夜明け前 消えゆく星星の後 扉を次次 開いてゆく
 
明け方 未草(ヒツジグサ)は  水底から
月へ帰った 蕾のまま
辺りには 箏(こと)の音色と
林鐘梅に似た馨(かを)りが 立ち籠めていた
 
星星の蔭で 螢が ひっそりと光を放つ
凍っては 融け
二つで 一つ
朱華(はねづ) / 水浅葱(みづあさぎ)
魂と 魄と
柔らかく 温(ぬく)く 薄く 涼しく