hazar  言の葉の林を抜けて、有明の道  風の音

細々と書きためたまま放置していた散文を、少しずつ書き上げ、楽しみにしてくれていた母に届けたい

果てなき旅

2018年10月31日 | 絵画について

下村 観山(1873-1930)「採桑翁」
画中で 翁の突く杖の上に とまっている
ように 描かれている 小鳥

採桑老 は 一人舞の舞楽で
非常に老いた面 をつけ


足下も覚束ぬ樣子で 鳩杖を突き
不老長壽の薬草を探し求め さ迷い歩く

鳩杖 は 中国古來より
高齢者への贈り物として
握りに 白玉(はくぎょく)翡翠(ひすい) の 鳩の彫り物を
配(あしら)ったものが 作られてきた





各年齢ごとに 老いゆく樣(さま)を 漢詩
詠(えい)じ 不吉な終盤の二つは 歌わず

   三十情方盛 四十気力微 五十至衰老
   六十行歩宣 七十杖項榮 八十座魏々
  (九十得重病 百歳死無疑)

   三十にして情まさに盛んなり 四十にして気力微なり 五十にして衰老に至る
   六十にして行歩宣たり 七十にして杖に懸りて立つ 八十にして座すこと巍々たり
  (九十にして重き病を得 百歳にして死すること疑いなし)


百済国 の採桑翁が老いて 鳩杖を取る 屈んだ姿を舞いにした
(樂家錄 / 重田みち「韓国の仮面舞劇と翁猿楽」)
とも 秦の始皇帝に願い出 日本へ不老不死の薬草を探しに來て
戻ることのなかった 徐福 の物語に由來する ともいわれる

舞えば 程なくして死す との伝承もあり
実際に 平安時代 一子相伝の舞い手が 殺(あや)められ
途絶えたが のち勅命により 復曲されたという


年老いた翁を描くにあたり
観山は 杖の上の鳥を 生きているかのごとく描く
ふんわりと小さく 幼く

杖の握りの下 左の親指の爪の向うに
付け根が薔薇色で 先が緑の 長い尾羽も覗(のぞ)く

杖に重ねられた 皴(しわ)の刻まれた灰色の指が
薔薇色に膨らむ小鳥の 背後から脇へ
朽ち木のごとく垂れ下がる

杖を介し 土気色を 翁の裡へ濾(こ)し残し
赤みを帯びた色が 小鳥へと集められてゆく
サイフォンの原理 が 働いているのか

嘴(くちばし)の付け根で 鼻孔を覆(おお)う 米粒様の鼻こぶは
鳩にも インコにも見られる というので
コザクラインコ か とも想われたが

大磯などで 林から群れをなして飛來
砕け寄す波を潜(くぐ)り 次々と岩礁に降り立って
窪(くぼ)みに溜まった海水を飲む 不思議な アオバト かも知れぬ


穏やかに老いゆく 翁の命は 杖の鳩へと移り 宿り
いましも 翁が 息を引き取ると 鳥は 羽搏(はばた)き 飛び去るか

薄日 充ち溢(あふ)る空の 一点となり
滲(にじ)み消ゆるまで 見送り 振り返ると そこに

まだ仄温かい 鳥の巣立った洞(うろ)のある
老木が 道野邊(みちのべ)に 佇(たたず)んで居るかも知れぬ

見て居たのは 誰なのかと
眼を轉(てん)ずると 足下は老木の根なのだ


   【銀杏】 いちょう

   「金色(こんじき)の 小さき鳥のかたちして
    銀杏(いちょう)散るなり 夕日の岡に」  与謝野 晶子 (恋衣


   長くなった西日を受け、眩しいほどに輝く黄金色は青空によく映える。
   カエデは種類が多いが、銀杏は一種で、現存種のみである。

   2億年前に繁栄したイチョウ属の唯一の生き残りで「生きた化石」と呼ばれる。
   草食恐竜によって種子を拡散させていた裸子植物で、恐竜の絶滅と共に消滅したが、
   中国の山中で発見された銀杏の実が、世界中に広まった。

   寿命が長く、大木になる。
   日本には十世紀頃に渡って来たと推測されている。
   欧州には、江戸時代に来日した ドイツ人医師 ケンペル によって伝えられ、
   多くの都市の街路樹となって親しまれている。

LUNAWORKS『和暦日々是好日』手帖 2016年版 神無月 より)
Flower Healing Society 佐藤しんじ




観山には 音響や 思考 處作や 気配が 時空に傳(つた)わる
軌跡を とどめ描こうとするようなものがある
そのような作 荘子 胡蝶の夢


うたた寝する 荘周(荘子) の 頭上に 夢見る自らが 浮び上がる
首(かうべ)を廻(めぐ)らせ 半眼より 視線を投ずる
その先で 薄明と薄暗(うすくらが)りが そよぎ
時空の狭間(はざま)より 煙のように 仄(ほの)暗き 星雲のように
蝶が 縺(もつ)れ出る


しだいに羽搏(はばた)いて 上へと昇る
荘周の視線に向い合う かそけきもの から
視線の先へ 身を轉(てん)じ 翼を揚げようとするもの
緩やかにS字形を描いた高みで 翼を拡げ

やがて 同じ道すじを はらはら伏し降り 荘周の視線へと吸い込まれ
瞼(まぶた)は落ち 首(かうべ)を戻し 眠る姿へと還(かへ)りゆく


   昔者 荘周 夢為 胡蝶   栩栩然 胡蝶也
   自喩適志与 不知周也  俄然覺 則蘧蘧然 周也
   不知 周之夢為 胡蝶与   胡蝶之夢為 周与
   周与胡蝶 則必有分矣  此之謂 物化

   昔者 荘周 夢に胡蝶と為る      栩々然として 胡蝶なり
   自ら喩しみて志に適えるかな 周たるを知らざるなり
                    俄然として覺むれば 則ち 蘧々然として周なり
   知らず 周の夢に胡蝶と為れるか  胡蝶の夢に周と為れるかを
   周と胡蝶とは 則ち必ず分有らん  此を之れ 物化と謂う

   かつて あるとき 私 荘周は 夢の中で胡蝶となった
           喜々として 胡蝶そのものであった
   自づから樂しく 心のまま ひらひらと舞った
           荘周であろうとは 想いもよらなかった
           はっと目覺めると これはしたり 荘周ではないか
   荘周である自分が 夢の中で 胡蝶となったのか
           自分は 実は胡蝶であって いま夢を見て 荘周となって居るのか
           どちらなのか もはや判らぬ
   荘周と胡蝶には 確かに 形の上では 違いがあるかも知れぬ
           だが 主体としての自分には 変わりはなく
           これが 物の変化というものであろうか


実際に蝶が來ていて その羽搏(はばた)く音で
夢に誘(いざな)われたのか それとも
漂い過(よぎ)る蝶が 薄く開かれたままの
目の端を 翳(かげ)らせたのか

その可能性は 元の歌に遺されているものの
観山の画には 荘周の魂の痕跡が
描かれているのみ のように見える

だが魂が 時空の記憶の 搖(ゆ)らぎを感じ取り
そこから延ばされた 翼や滴(しづく) 花びらや指に ふれ
互いを解き放ち 一つに生成しなければ それは起こり得ぬ

そのような邂逅は 魂と 時空の裡(うち)に
巻き上げられた 小さな渦となって 残りつづけるのだろう
だれかが それに目を留め 耳を傾けて
手を延べ 魂にふれ 開き 開かれ
一期一会の舞を 舞いながら 命の一ひらを渡し 受取るまで


双幅で 双鶴と 幻日 を表し
一幅づつで 時空の経過や 乖離(かいり)を あらわすかのような作

  

幻日は 太陽から22°ほど離れた 同じ高さのところに
見える 小ぶりな太陽のような 輝きである

雲の中に 六角形の板状になった 細かい氷の粒があり
風が弱いとき それらは落下しながら 空気抵抗で
地面に対し ほぼ水平に 浮ぶようになる

この氷の粒の 一方の側面から 太陽の光が差し込み
側面を一つ挟んで また別の側面から 出てゆくとき
二つの面は 60°の角を成し 氷の粒は 頂角60°のプリズムとなる

たくさんの 小さな氷のプリズムによって 屈折された太陽光は
太陽から 22°ほど離れたところから 射し來るように 見える

鶴は ほんとうは一羽だったかも知れぬ
右目に見えるものと 左目に見えるものが
少しづつ ずれ 離れゆき 別々に動き始める

見られているものが そうなのではなく
見ているものが そうなのだ
右目の側と左目の側が ずれて離れてゆく

なんとなく 欠けたところは まだ ついて來ているように想いながら
二つに別れた半身は 互いを置き去りにし 置き去りにされながら
二人で一人だった頃 行こうと想っていたのとは 22°ほど離れた
互いに 正反対のほうへ 逸れてゆく

双鶴か 孤鶴が 飛び去り 歳月が経っても
日輪は廻(めぐ)り 若松は濱(はま)を傳(つた)い
汀(なぎさ)を渡り 芽吹き そよぐ

   Röyksopp - Keyboard Milk

唐代の詩人 崔顥(生年不詳 - 754年)に かつて威容を誇った 黄鶴樓 を詠んだ歌がある


安 正文(明代 14C末-15C初頭) 黄鶴楼 絹本着色 162.5×105.5cm

   昔 人已乗 黄鶴去  此地 空余 黄鶴樓
   黄鶴 一去 不復返  白雲 千載 空 悠悠
   晴川 歴歴 漢陽樹  芳草 萋萋 鸚鵡洲
   日暮 郷関 何処是  煙波 江上 使人愁

   昔人 已に 黄鶴に乗りて去り 此の地 空しく余す 黄鶴樓
   黄鶴 一たび去りて 復た返らず 白雲千載 空しく悠悠
   晴川 歴歴たり 漢陽の樹 芳草 萋萋たり 鸚鵡の洲
   日暮 郷関 何(いづれ)の処(ところ)か 是れなる 煙波 江上 人をして愁へしむ

   昔の仙人は すでに黄鶴に乗って飛び去り この地には 黄鶴樓だけが空しく残された
   黄鶴は飛び去ったきり かえって來ず
       白雲だけが 千年の間も 悠々と流れつづけている
   晴れわたった 長江の対岸には 漢陽の樹々が くっきりと見え
       芳しい草が 鸚鵡の洲のあたりに 青々と生い茂る
   日の暮れゆく中 故郷は いづかたに あるのだろう
       やがて川の上には 波や靄が立ち籠め 私の心を深い悲しみに誘(いざな)う

黄鶴樓に登り 刻まれた この歌を見た 李白(701 - 762)は 超えられぬ と洩らした という

李白の詩 黄鶴樓送孟浩然之廣陵

   黄鶴樓送 孟浩然之廣陵
   故人 西辞 黄鶴樓  烟花 三月 下揚州
   孤帆 遠影 碧空尽  唯見 長江 天際流

   黄鶴樓にて 孟浩然の広陵に之(ゆ)くを 送る
   故人 西のかた 黄鶴樓を辞し  烟花 三月 揚州に下る
   孤帆の遠影 碧空に侭き  唯だ見る 長江の天際に流るるを

   黄鶴樓にて 孟浩然の広陵に之(ゆ)くを 送る
   旧友(孟浩然)が 黄鶴樓に別れを告げようとしている
   霞すら花咲く この三月に 揚州へと下りゆく
   船の帆が だんだんと青空に吸い込まれるように 小さくなってゆき
   ただ長江が 天の彼方に向かって流れているのが 見えるだけになってしまった

これらは いずれも伝説に基づく

   昔 辛氏という人の酒屋があった
   そこに みすぼらしいなりをした仙人がやって來て 酒を飲ませてくれと言う
   辛氏は嫌な顔一つせず ただで酒を飲ませ それが半年程も続いた

   ある日 仙人は辛氏に向い「酒代を随分溜めてしまったが 持合せがない」と言い
   代わりに 店の壁に 蜜柑の皮で 黄色い鶴を描き 去っていった

   客が手拍子を打ち 歌うと それに合せ 壁の鶴が舞う
   それが評判となり 店は繁盛 辛氏は 巨万の富を築いた

   その後 再び 店に仙人が現れ 笛を吹くと 黄色い鶴が壁を抜け出して來た
   仙人は その背に跨り 白雲に乗って飛び去った
   辛氏は これを記念して 楼閣を築き 黄鶴楼 と名付けた という


   Kongos – Traveling on

西部戦線 異状なし という映画の終り頃 蝶が出て來る
泥に埋もれかけた 缶の蓋に とまり はためく
囟(ひよめき)のように 心搏のように


戦場に斃(たお)れた 数多の若者は 空に浮ぶ 墓碑の海の上を
一ひら一ひらの波のように 故郷を振り返り 振り返りつつ 漂い去る






小泉 八雲「果心居士のはなし」 (日本雑記)がある

まるで目の前で繰り広げらるる 熱風や劫火 阿鼻叫喚
肉の焦げる匂いや 血飛沫(しぶき)の味まで感ぜられる
幻燈か映画のごとき 地獄絵を傍らに 仏法を説く

仙人 は 絵を所望する暴君に 値千金と言い放つ
刺客は散々な目に 奪った絵は白紙に
支払えば 目の前の白紙に絵は戻る と豪語

果たして 確かに絵が現る やんぬるかな
無限の価値から有限のそれへと やや色褪せた絵が


ヤン・ブリューゲル(父) Jan Brueghel the Elder(1568-1625)
冥界 を廻(めぐ)る アイネイアース巫女シビュラ Aeneas and Sibyl in the Underworld
油彩・銅板 26.4×36.2cm c.1600頃
ブダペスト Budapest ハンガリー国立美術館 Szépmüvészeti Múzeum


この小さな絵の迫力は ブック型PCのバックライト画面で
正しく発現されているはずだ

つるつるに磨き上げた銅板に 稀少な岩絵具を
透き通った油に溶いて 薄塗りで描く

太陽光線や蠟燭の灯明りが 絵具層を透かし
銅板に温かく反射して 闇の奥から煌(きらめ)く 地獄の劫火を迸(ほとばし)らせ
蠢(うごめ)く罪人の裸身に 熱き翳(かげ)を閃(ひらめ)かす



こちらは 障壁画級 お化け屋敷
炎噴き上ぐる火山は 未だ見ぬ重工業の煙害に取って替わられている

暴君亡き後 藏が空になるまで酒を注ぎ 仙人をもてなす
過去には不遇が 未來には不運が 控え待つ 知将に

少し満足した と言って 部屋を囲む 近江八景 の襖(ふすま)絵より
遠景の小舟の 船頭を呼ばわると 近づく櫂の音が響き

立ち籠める霧と 腰まで ひたひたと流れ寄す水面より
現れた舟上へよじ登り 漕ぎ戻らせ 画中へと消えゆく


牧 谿(1210?-1269?) 漁村夕照図 南宋時代 13C 紙本墨画 33.0×112.6cm 根津美術館 国宝



雲谷 等顔(1547-1618)瀟湘八景 図(の一) 室町時代 late 16C末 紙本墨画 フリーア美術館

老絵師の行方 に翻案したのを ルネ・ラルーアニメ化 した)   

この話を 観山は 描かなかったろうか
それとも どこかの藏の隅で いまもなお
滿月の大潮になると かすかに水が浸み出し

頭蓋骨の縁へ傳(つた)わる 間遠く櫂のきしむ音
間近で肚(はら)に ひたひたと響く ふいに波紋の広がる うねりに
目を開(ひら)くと 足を丸め 斜めに横たわった
腰まで 水に浸かって居るだろうか

いつの日か 伏し目の船頭となり
陽気で太っ腹な仙人の見据える 霧の彼方へ
竿も櫂もなく 手を下げ 立ち尽くし 運ばれるとき

顧みれば 朽木のようで
耀(かがや)く黄葉をつけた古木の岸が
目を戻すと 煌(きらめ)き晴れゆく霧の向うから
差し延べられた数多(あまた)の手が

互いに ふれ合い あなたを解(ほど)いて
永く捩(よじ)れた霧に 変えてゆくだろう
ゆっくりと脈打ち 廻る 大きな無限の
夢幻の輪に 編み込んでゆくだろう


カール・フリードリヒ・ガウス
サイン に 蝶が居る
メビウスの輪 を見出した弟子が メビウス他に もう一人 居た
ガウスもまた数多(あまた)の 時空の記憶の羽搏(はばた)きに 目を留めた

彼なら 櫻渦巻く カラビ・ヤウロイ・フラー の舞いを 蝶の夢に見ただろう
自らでなく その周囲の 時空の震え 搖(ゆ)らぎを あらわすため
消えることが出來た
命を無限に解き浮かべて 応え舞いながら

月下美人 の夢の花が咲き 老櫻 舞い散る 花びらから花びらへ
フィボナッチ の果てを潜(くぐ)り フラクタル の遠近(おちこち)に宿る
カラビ・ヤウ の夢を舞う 時空の蝶の翳(かげ)を追う
あなたの旅は つづく

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