hazar  言の葉の林を抜けて、有明の道  風の音

細々と書きためたまま放置していた散文を、少しずつ書き上げ、楽しみにしてくれていた母に届けたい

茨姫

2014年02月24日 | 散文詩
項垂れて眠る、人々の間を廻って行った。 彼方此方に白く、平らな花を咲かせた茨が
鬱蒼と生い茂っている。 香りは噎せるようで、日差しは雲の彼方で微かなのに、首筋に汗が
滴り、眩暈がする。 重い兜を脱ぎ、鎖帷子の頭巾を後ろへずらした。 風が吹かないものか

高い処に登れば、馬を繋いだ場所が判るかも知れない。 狭い螺旋の石段を登って行くと、
茨に覆われた小さな窓から、斑の光が瞼を撫ぜ、汗の滲んだ睫の上で、虹色の羽扇を次々と
広げていく。 狂とか気とか昏とか睡とかいう言葉が、何処かから身を擡げ、白っぽい綿毛の
ようなものになって、次々とその扇に煽がれ、ふわふわ漂う。 暗い廊下の前へ、とうとう
登りつめると、一段一段脚を曳き摺り、帷子の上で跳ね回った鞘の騒々しい音も止んで、深く
湿った息遣いだけが塔の中に響いた。 もう一度汗を拭った。 目を凝らす。 突当りは、厚い
緞帳に覆われている。 緞帳の裾は床の上で陰を蟠らせ、ぼんやりと揺れて、奥へ続いている
ように見える

確かめるべく、剣の切っ先をそろそろと隙間に差し入れると、俄かに腕が攣って、引っ張られ
るように滑り、払い退けた拍子に、緞帳は頭上へ裂け墜ちて、濛々と埃が舞った
咳き込んだ末に、やっと目を上げると、幾つもの穹窿の間に、ほっそりとした飾り柱の
彫り取られた、明るい窓が奥にあった。 初めはそれしか見えなかった。 外は薄曇りで、
目には涙も溜っていたから。 だが何か、軋むような音が聞こえていた。 部屋の中程の床に、
古暈けた糸車があって、ゆっくりと回っている。 傍らに、髪を太く三編みにした老婆が、
全身灰色に背を丸めている。 眠っているように、夥しい深い皴の中に目を綴じて、身動き一つ
しない。 襤褸襤褸の緞帳に塗れた剣を持ち上げようとして、また腕が攣り、取落しそうになった
魔女なら敵うまい。 あれだけ咳き込んだのに眠っているのなら、わざわざ起こすこともない

糸車は何を紡いでいるのか。 眠りか、茨か。 一歩ずつ、そっと後退りしながら、
辺りを見廻すと、床の上にも糸車の周りにも、壁の飾り柱にも、白い腕の置かれた
大理石の長椅子の背にも、茨の蔓が這い込んでいて、白い花を夢のように咲かせている
此処は花の数が少ない。 日蔭だからか。 もう一歩下がった。 白い腕

入口の壁の脇に、動物や蔓草の彫られた、大理石の長椅子があって、夢のように白い
女の人が坐っていた。 彫刻か。 顔の前に下がった茨の蔓が幾つか、微かに震えている
自分が起こした風だろうか。 ふっと息を吹きつけてみる。 瞼が開いて、真直ぐに此方を見た

その眼を一目見て、いつも呼んでいたのは、この人だったのが判った。 いつもこの茨の森を
避けていた。 近くに来ると落ち着かなくなり、呪われているような気がして、向きを変えた
明日の婚礼も整い、何となく森へ行って確かめて来るか、と思い立ったのだった
重装備過ぎたかとは思った。 噂には聞いていたが、自分に関係があるとは思いもよらなかった
今更、何をどうすればよいのか。 随分、待っていたのだろうか

だがその人は笑った。 声もなく静かに。 笑うと顔から白い粉が落ちた。 先刻より彼方此方で
漂い蟠っている、綿毛のようなもの。 顔立ちは崩れず、はらはらとたくさんの白い粉が、
胸から膝へ舞い落ちていく。 深々と裾の広がる足許へ眼を落すと、雪のように白い粉が
堆く積もっていた。 恐ろしく、だが去りがたく、声も出なかった。 その人はまた笑った。
泣いているのかもしれない、と、ふと思った。 はらはらと粉が舞った。 擦れた息が白い喉から
出てきたのだった。 粉が床に宙に、文字を描いていく。 ようこそ。 涙も声も疾うに枯れ果てて
しまい、花粉で話します。 随分と迷われましたね。 曾曾曾祖父様の代から変わることなく。
それでも御婚礼の前、男子が身籠られる前に来られたのは、其方が初めてです。 遅き裡にも
疾く早く、早き裡にも頗る遅く、と老婆が眠ったまま呟く。 それ故、全員揃われました

彼女が僅かに身体を動かすと、その髪や衣に入り込んでいた茨は、白い肌を貫いて更に深く
彼女の裡に入り込んでいることが判った。 彼女が再び深く椅子に凭れて静かに見つめた時、
身体中に震えが走り、踵を返して、石段を駆け降りた。 御祖父様、御父上様。 最初の踊り場で
溢れ殖えていた蔓に躓いて、鎖帷子に覆われた身体は打ち砕かれながら転がり落ちた
剣や兜が耐え難い程の騒々しい音を立て、やがてそれも止んだ

塔の中で、白い喉が声なき声で呟いた。 叫んでいたのかもしれない。 また、と、はらはらと
白い粉が舞った。 迷いつつ来りて遅きに失し、疑いつつ帰らんとして早きに失す、
さらば、と幽く文字を連ね。 老婆は白い女の人の歳月を撓め、眠りの糸車を回し、茨を紡ぐ、
夢は、白々と花咲き、白い綿毛となって漂い去る。 老婆は白い女の人の老いでもあり、
白い女の人は老婆の夢かも知れない、その場合、生きているのは誰だろう、茨 ?

遠くで馬の嘶きが聞こえ、日が沈んだ。 塔の下の石の床で、捻じ曲げられた首は仰向き、
直ぐに茨の蔓が、その身体を覆い始めた。 見開かれた眸から白い粉が、波のように床の上に
満ち溢れた。 呼び掛けるように半ば開かれた、唇の間から一筋の血が、石の割れ目を伝って
深く地中へと浸み落ち、太い茨の根に触れた

茨の白い花々が一斉に散った。 白い女の人が静かに目を閉じた。 来年からは薄紅の花が咲く
かも知れない。 或いは薄紅の綿毛が何処へか飛んでいくのかも知れない。 深い深い茨の
静まり返った森の中で幽かに、軋むような音だけがいつまでも続いている

天つ風

2014年02月20日 | 散文詩
いつもその時刻に見舞いに来てくれる友が、此方を見ながら歩いて来るのが見えた
常夏の午後。 二時半から三時の間に、渡り廊下の曲り角の柱の処で姿が消えて、
もう入り口に着く頃だなと思ってみても、一向に現れない

曲り角の向うと此方の間を、一群れの白い草の花が揺れ動き、小さな蝶が飛び過ぎていく
潰れた枕の上で、渡り廊下と病棟の入り口を見比べて居る裡、日が暮れた

夢の薄膜の靡く中、白い花が一群れの蝶になって、一齋に飛び立つ
また戻って来る。 未だ待って居る。 常夏の午後
行き交う白い服や、浅黒い腕の突き出たシャツが、不意に翳り、動きが鈍くなる
睫の隙間で、友だけが半ば透き通るように薄明るく、人々の間を、すいすいと通り抜け

ふと目覚めると、もう暗がりで、遠く近く、虫の音が幽く渡り来ては返っていく
星の光が細かく細かく挽かれていく。 未だ草の花は揺れている。 螢がすいと光って、
消える。 それとも、あの蝶だろうか。 海原に消えていく航跡のように、誰かが
立ち去った気配ばかりが漂い、どちらが夢だったのか、その日その時刻に、微かに
風の吹き込む寝台で、手入れを怠ることなく使う機会もないまま、いつしか遠く離れた
骨のようになった銃剣を、楽器のように抱えた友が、足下に開けていく奈落を亘る風に
耳を傾けるように、銃口を銜え、素足の指で引き金を下ろしたことを知ったのは、
病が癒えてからだった

生は、死の数多ある仮面に過ぎない。 それともその逆だろうか。 それともどちらも仮面で
己のような己でない誰かが被ってみたり外したりしているのだろうか。 降り頻る死を
かい潜り熱に歪んだ狭間へ降り立って、友は援護してくれようとした。 もはや思い出せぬ
顔を探して彷徨い続ける死が、不意に行き止まりになる隘路で、最後の角を廻り込んで来る
此方だ、友が呼ぶ。 だがもう追い詰められた。 堂々巡りが始まっている。 己が顔をした
死のようなものと争うのも、追われるのも御免だ。 終いにしよう。 斃れ臥したまま
重く渦巻き始めた水に面を浸けて居ると、気の遠くなるような腐臭と冷気の間に立ちはだかる、
友の素足を間近に見た。 靴はどうした、俺の靴を履いて行け、死人に靴は要らぬ。 足下の
水溜りに剥がれ沈みかける映像の陰から、去れ、と執拗に念ずる、友の面影が閃き、浮び
上がっていく。 その時は、何処へ向っているのか気づかなかった。 生と死の狭間で揺らめき
立つ如く、挑み呼び掛ける友の聲は、熱く塞がれた瞼に茫洋と影を落として、形の無い巨大な
指が通り過ぎ、不意に逸れて、水面から友の面輪を掬い上げ、虚ろな眼窩へ宛がう迄続いた

全てが砂のように崩折れ、影が延びては解け、棚引いて、寄せては返す波になる。 視野の隅で
傾き揺れている、毀れた小舟のような、臥した仮面のようなもの。 誰かが、立ち去った
気配がして居た。 彼処に未だ残って居る、小さく渦巻き続ける、灰のような、風のようなもの
退いて行った熱の残した、頭蓋の内に細く刻まれた縁に、置き去られた貝が開くと、零れ、掻き
消えた。 失われた面差しがいつしか水底で貝になり風の谷間で花になる。 どの貝にもどの花にも
友の顔が閃き、直ぐに消え失せた。 何処へ向おうとしているのか。 どうすれば取り返せるのか
消えながら、明るく真直ぐな眼差しは、病は治る、生きて帰れ、と呟くのだった。 君は何故、
共に来られないのか。 遙かに永く、共に在る為に、と君は応えた。 今一度、別れる、と

パウル・クレーの舟に乗って居たことがあっただろう。 降りて行ってみると、半身の漁師だけが
居て、此方を向くと一本の線になってしまい、話し掛けることも出来ない。 向こうも櫂だか
銛だかを手渡したいらしいのだが、やっぱり出来ない。 宙に挟まったまま膨らんで、落ちて
来ない魚の血。 何かの果実にも似て。 深海魚めいた持ち主のほうは影も形も無い。 違う次元へ
出掛けてしまったか。三匹で一人の裏返しか。 諦めて、ちっとも進まない舟の両側を
上がり下がり滑り広がる、音符の無い譜面のような波を二人して眺めて居た
ベン・シャーンの階段を昇って居たこともあったな。 入り口の無い壁に取り附いた、上って
下りるだけの階段なのに、一歩も譲らず昇り続けて居るから、追い駆けて声を掛けようとしたが、
追いつけなかった。 アキレスと亀のように。 アトラスと天地の間に転がり続ける、巨礫のように

ピエロ・デラ・フランチェスカのキリストの笞打ちの谺が響き続ける、奥の部屋の、壁の背後
源氏物語絵巻の笛の音の消え残る、庭の塀の裏手。 死と別れの瀬戸際で踏み留まり、来るべき
苦難と悲嘆を持ち堪え、やがて運び去る。 煌めき遠ざかる、力の穹窿を亘る風に、耳を澄ませて
居た。 天井を外し、壁をぶち抜いて、其処に降り立ってみると、月の光のような静けさが
あるばかり。 君が其処に居るのなら、君がそれを見るのなら、死と虚無を乗り越え、
輝きと再生へと転ずる力の宿る、全てのものを見続ける。 君の旅を見届ける

マティアス・グリューネヴァルトの聖アントニウスの傍らで、貧しさと麦角菌の劫火に内側から
灼き尽くされ、膨れ爛れた吾身を指差し、嗤う幻のように。 背後で起こった核融合か中性子星の
誕生に吹き飛ばされ、影となって消えようとするかの如く、復活する、復活し続ける救世主の下で
つんのめり、ゆっくりと斃れ伏す動きの最中で凍りつき、斃れ伏し続ける兵士のように
パオロ・ウッチェロの部屋の中、扉の叩かれる音に身を固くする商人の家族のように
それ程遠くない向う側で、のんびりと顔を伏せ手元を見つめる天使たちの集う
庭の輿のようなものの端で足を組んで顔を見合わせる、悪魔たちのように

ノアの方舟。 瓦礫の山。 それともチベットの山奥の岩壁に五色の旗を靡かせる寺院か
攀じ登ってみると誰も居ない。 吹き荒ぶ風に積み上げられた岩がぬめぬめと磨かれ、
襤褸襤褸になった五色の旗が猶も身を捩り黙して、何処にも居られない光のように、
誰にも追いつけない速度で満ち溢れ重なり合い去りゆく神々を称え、呼び掛ける
こんな高い処に、あの地中に埋もれるまで崩折れた摩天楼が凍てついて居る
右手の親指の骨だけが帰って来た息子は何処へ行ったのか。 其処では、右手の親指だけは
無くて。 父母の心は其処に、小さく親指の形に絡まり合い固まっている
海の底に沈んだ船が墜ちた飛行機と共に、雲の峰々の間の広い台地に散らばって、
星座のように休んでいる。 津波が来ます、高台に避難してください、海岸には絶対に
近づかないでください、と殷々と谺する娘の聲が響く。 そして津波が、海が、来た。
海岸が、近づいて来た。 恐るべき速さで。 聲だけが人々の頭上で導いた。 いつまでも

死して猶、人々の夢の中で建てられ続けることを伝えようとする、アントーニオ・ガウディの
寺院のように、アンコール・ワットの石像の側で石組を割り崩したかと思うと、鷲掴みにして
支えながら根を張り、聳え立つ熱帯樹のように。 痛みと苦しみ、悲しみに耐え抜き、引き裂かれ
た深い狭間に結晶のように沸き立つ祈りが、内側から全てを洗い流し、天空の浜辺へ運んでくれる

緑滴る梢が、空襲を免れた古都の小川に沿った石畳に濃い影を落とす。 音もなく繰り返し、
何かを洗っている。 初夏の午後。 二時半から三時の間に、明るい窓の傍らで煙草を燻らせて居る
と、沓音が谺する。 振り返ると、不意に翳った視野の向うへ、駆け抜けて行った
子供のような姿。 沓音がした、と思ったのに、裸足だった。 日差しと煙の煌めく
螺旋の途を、半ば透き通るように薄明るく、細い枝を手に緑滴る彼方へ昇っていった

目を開くと、潰れた枕の上に頭が載っていて、長い患いが癒えたように身体が軽い
目を遣ると、光の溢れる中庭の曲り角の柱の陰から、友が現れる処だった。 胸から息が迸る
あの時からずっと何処かで止まっていた息が。 待ち侘びたような笑顔で、行こう、と言っている
手に、長い草を持っている。 虹のようにも見える。 素足の下に、影になってすっぽりと
収まって居るのは、龍だろうか。 雲だろうか。 君の靴。 世界の記憶の天辺で風化に耐えた
君自身の亡骸のようにも見える。 死を飼い犬の如く影の如く足下に蹲らせ、天翔る大天使
君が住み、独り大きな苦痛と悲しみを運んで帰っていった虚空の廃墟。 君自身の掌の中へ

光が何処までも重なり合うように、君が自らを貫かせた死をしっかりと踏み締めている限り、
絶対零度の凍てつく風の吹き荒ぶ目眩く高みを通り、超流体の劫火の煮え滾る果てし無い深みを
潜って、再生へと吹き抜ける門は開いて居る。 君自身が門となったから

長い間、その門を探していた。 何処に在るのか判らなかった。 インドにもミャンマーにも
なかった。 最期に足を止めた処、帰り着いた家の、家族の集う食卓の椅子の傍らに、それは
開いた。 そして曲り角の柱を廻って、君は迎えに来てくれた。 素足に地面がひんやりし、
光のほうへ一歩踏み出した。 草がざわめいている。 ふと振り返り寝床に目を遣ったが、
もう思い出せぬ長い夢のように白く誰も居なかった

ずっと、聴こえて居たような気もする。 今はもう聴こえぬその聲が、何故なら私自身も聲と
なったから、澄んだ鉦のように響く度、ざわめく生の樹冠から死の水面へ散り落ちる、記憶の
木の葉、ひっそりと沈んでいくと、底にうち重なる数多の仮面の虚ろな眼窩に、泡沫の実が宿り、
煌めいて、細く長い視線のような根を延ばし、遠く運ばれて、芽吹いていく。 静けさの中で、
痛みの記憶が幽かに戦慄く。 それに耐えていく。 皆耐えた。 耐えられるよう、祈ってくれる。
もう一度、一緒に耐えてくれる。 沢山の手、沢山の聲。 すると目の前が開ける。 落ちていない、
浮び上がり、舞い天翔るように飛んで居る。 支え合う掌と祈り励ます聲が押し続けてくれる
翼だ。 何処へ向って居るのか。 透明な力強い幹、天辺の樹冠は渦巻き滴るように眼差しを
漲らせ、数多の星々を実らせていく。 翼の背後に鎖されていく門と、目の前に開けていく、
見たことも無い、懐かしい風景。 白く静かに鎖された広やかな瞼に、別れを告げ、眩い程の光を
背に、向きを変えつつ、手を延べて差し招く、友の方へ翔けていく。 そして今、追いつく
永遠へと続く軌道に入る。 今も未だ広がっている。 私達が脱ぎ捨てた死が重さを集めている
それが、私達を繋ぎ続けているから

実方

2014年02月18日 | 散文詩
暗い道を急いでいた。 木の間に懸かる夕空が青昏く解け、年の瀬の眸が閉ざされていく
何処にも辿り着けず、何処へ向かえばよいかも最早判らず。 朽ちかけた夢に
纏わりつく妄想を薙ぎ払っていくと、夕闇に烟る社へ出た

笑止。 願いは子宝でなく都へ戻り詠い暮らす事にて、と呟くと、森閑と薄明るくなり、
時が刻まれるのが鈍く、大いなる掌の間で圧し潰されていくように鼓動が重くなった
漆黒の翼が頭上を覆い、忘れられた骨の山を投げ落とす。 鬣を逆立て首を捻じ曲げ、
泡巻く歯を剥き馬は永劫の一瞬顧みたかと思うと、棹立ちになり真逆様に墜ちた

薄日が差し、遠い頂の梢から松毬が落ちる。 彼方より群れ成す炎がどよもす
回りながら小さな羽が実を離れ、ゆっくりと昇っていく。 風に乗り、煌めいて空谷を渡る
砕けた身と心の絡まる茨の高い枝先に、赤い実が膨らんで、滲むように朧に小鳥が啄みに来る
その羽音について行き、初めの夢に手を伸ばす

初夏の暮れ方。 晩夏の暁。 澄んだ風に孕まれ、言の葉の林に分け入り、
薄明の下生えを飛び移る、色の失せた鳥の影となり、飛び去った後の透き通った葉蔭で
微かに開いたまま薄れていく嘴。 林の翳に綴られる淡い迷路を辿り、消えゆく風の川を渡る
明星から滴り嘯く声が夜明けを波打たせ、一条の光が暗闇の集く下生えを吹き消して、
幽かに明かるむ露を宿した莟が揺らめく。 涸れ谷から仰ぐ、射干玉の虚空に尾を曳く
流星の残り香。 闇夜の炎芯で葉が揺れ、羽音がどよもし、水底で光が泡立つ
立ち去って久しい跫に耳を澄まし、仄かな翳に彩られ、門が消えていく
開きつつ閉じつつ、鼓動のように

担ぎ込まれた深更、切れ切れの眠りの波間に、舟端を掴む幼い拳に飛沫が白く、
浮かぶ眸は逆巻く浪裏を抜けて、目眩く切り立った嶺を、重い実を負い攀じ登る背を映し出す
未だ面貌のない顔が振り向けられ、岩角の痕の刻まれた幼い指を広げて、別れを告げる

灼熱の雫が凍りつき、古びた松毬を着て、頬の白い雀になり、よく知った苑へ舞い降りた
鏡の奥の暗がりで、子らが鳥達といる野に流れが仄光る。 震える息で縁が曇ってゆく

やがて視線の掻き分ける文字と文字の間が、微かに日の光を帯びて耀き、
房々と雪のこびりついた若松の枝となって左右に垂れ、揺れ動く。 霧が立ち籠めている
幻日が左右に凝然と凍り、彼方に視線と声だけが辿り着ける岸がある

海松貝で作られた沓が舟に、松の羽に託された消息が帆に、
うねり流れる時空の薄明を、杳として流離い、瞼を鎖し風と星の唄を聴く
母が呼んでいる 

身を浸し渡る川中、白髪振り乱したる身を映し嘆きつつ、探し当て弔ってくれた
娘が呼んでいる
松籟已んで照葉の黙の奥つ城に、羽搏き囀る声が寄せては返す岸近く、
沓を脱ぎ、光の羽を深く内へ畳んで、身が千々に切り裂かれると、
絶え間なく届かぬ視線の、最早聴き取れぬ声の、緩き螺旋の橋となり、臥して待つ
子らが渡り終え、鳥が遍く飛び過ぎるまで。 光と翳、風と黙で編まれた階梯
幼い指が丹念に解いていく。 曳き起こされ、手を引かれ、自らを渡る時まで

渡り切るその刹那、眸が開き、声が迸る。 涙は流れず、息が漂う
身は灰と掻き消え、歌だけが星明かりの葉蔭と風に散り敷く
夜半舞い散る桜の花びらに映り流れて浮き沈み、雨降り霽て風吹いて、星の消えゆく明け方、
雫が詠っている。 日暮しと杜鵑が歌い初める前と黙して後に聴こえる、その歌

風の洞穴

2014年02月13日 | 散文詩
闇の中で、顔に細かな雨が当たる。 冷たいものが何故温かく感じられるのだろう
瞼の中で目がゆっくりと水になって、仄暗い坑道を下っていく
いつか来たことのある洞穴。 朧に幹と樹冠が連なり、微かに風が吹いている

いつも頭を締め付けている輪がある。 後ろから蟀谷まで、時には額まで
目を閉じて居ると、後ろにごつごつした幹が当たって、菱形の葉枕が並んで居るのが判る
闇に拳を突き出して居ると、鼓動も彼方此方へ突き出して、全身が堅く覆われ、
身体が鱗木の一部になって、中空に飛び出している
地上数十メートル。 今、一体どの辺りに居るのだろうか。 地面は何処に在るだろうか

幽かに雨の響く階段で坐って居ると、昔其処に在った鱗木がそっと頭の後ろに触れる
締めつける輪がずっと上まで繋がっていて、水を曳き揚げて居るのが解る
空の高い処では、踏み荒らされていない記憶が風の中に洞穴をつくっている
そこではごつごつした皮に鎖され、毛の逆立つような冷たさが、遠くの足指のような
温かさの裡から伝い上って来る。 次第にそれは高く昇って、締め付ける輪から、
星のように花開いて滴り落ちる

コンピュータの陰になっている細い窓に手を突くと、針のように落ちる雨の跡が見える
いつの間にか睫に水滴がついて、視野の一部が鳥の目のように、不意に大きくなったりする
音を聴く為には、非常扉を解除して、裏返しのような階段を昇る
暫く出口の傍で佇んでいるとサーサーと響く音がする。 輪が廻っている音かもしれない

鱗木に止まって、小さな歯を煌かせている始祖鳥。 最初に飛べると思ったのはどの眸だろうか
半眼に鎖された大きな目は、濁っているように見えて、遠くの雨を映している
瞼の下で、風に冷たく睫がそよいでいる。 羽毛に覆われた薄い胸が、静かに上下している

鱗木は羊歯植物で、石炭紀に地上数十メートルに達する大森林をつくった
始祖鳥は、それより百年程後のジュラ紀に顕れた。 爬虫類に近く、地面を走ったり
転んだりしている裡に、鱗が羽毛になったともいわれている。 そうだろうか

テレビで、南米の波打つ短剣に似た角を頭に生やしたナナフシが、枯れ枝に擬態する前に
ゆったりと踊るのを見た。 腕を差し伸べ一頻り踊ると、畳んでそれきり動かない。 踊る訳
は知られていないというが、木の律動に合わせ節々を解しながら、仮居に溶け込む間合いを
計って居るのだろう。 そうでなければ二度と動けなくなる。 獲物が来ても。 焔や嵐が来ても

最後の鱗木は、石炭紀から百年程後迄残り、最初の始祖鳥は、ジュラ紀より百年程前には
未だ蜥蜴で、高い木の上で、葉枕に身体を擦り付けながら風に吹かれて居たかもしれない
葉枕と葉柄から成る、鱗木の鎖された目は、昔は葉だった
葉は天辺で樹冠をつくり、空へと高く差し伸ばされる。 もっと高く伸びる為に、葉が落ちて、
無くなると目になる。 空を夢見て、固く鎖された目に

硬い瞼に雨が伝っている。 下のほうの目が一つ、二つ開いた。 雨を見て、周りの鎖された
目を牽き連れ、上へ登っていった。 蜥蜴になって。 天辺に着くと風にそよいで居る葉が在った
目はそれを見て、葉だった頃を思い出す。 眠ったまま曳き摺られてきた目が夢の中で
鱗から柔らかな瞼に戻り、長く睫を伸ばして羽になった

肋骨が籠のように発達していなくて、胸骨も残っていないから、羽搏いて飛ぶことは出来ない
前肢の爪で高く攀じ登り、風に吹かれてやがて左右の翼を広げ、尾を伸ばして滑空した
墜ちていく雨と、伸びていく葉の間を

誰でも夢を解き放つ力がある。 雨となって滴り落ち、木となって限りなく伸びていった夢が、
半眼の爬虫類へと通じたように。 同じ夢、空と、大地の夢。 夢を肌から解き放つために、
幹に寄り掛かる。 半眼で遠くを見つめていると、ふと頭を締め付けて居た輪が
冷たい雫を滴らせながら離れていき、星の渦となって耀くのを見る

地上数十メートルの窓から、夜更けに鱗木の夢を辿る。 空から還れなくなった飛行士たちも
居た。 輪を喰い込ませたままの頭蓋骨は、深い霧に包まれて、静かに記憶の枝の分れ目に
凭れている。 眸は流れ去ってしまった。 ガラスに細かな滴が伝っている
下まで行き着けるだろうか。 何処かで自分を見失わず

始祖鳥は世界で十体見つかっている。 最初の一つは、羽一枚の跡だけ。 よく知られた
大天使のような二体は完全で羽も揃っている。 目はとても大きい。 石になって地上近くに
留まった。 頭を締め付けて居た輪はもう無い。 夢を運んで、空へ還った

空の高みで鱗木の堅い腕が、大気の波の上にぽっかりと拳を突き出す。 ずっと下のほうでは
雨が降っている。 硬く鎖された葉枕が一つ、二つ目を開く。 星々を見返しても破れない、
透き通った柔らかな、大きな瞳を持って居る。 ゆっくりと息を吐くような視線の先に、
壊れた衛星が漂っている。 もう、皆眠ってしまった。 まどろんで居た輪が、鼓動のように
耀きを弱めていく

廃坑のような、深い川床を歩いていた。 雨が止んで、地上を弓なりに横切っている空に
星が一つ、二つ浮かんだような気がしたが、暗過ぎて判らない。 額に廻る明りは
弱くなって、時々しか辺りを照らさない。 一面にごつごつした壁のような幹がある
高過ぎるのか低過ぎるのかも、もう判らなくなった

古くなった空気の中で、まどろんで居る飛行士の顔に灰色の髯がぽやぽやと伸びて、
奇妙な陰が、弾力のない肌を這い進んでいく。 涙が流れずに跡だけが刻まれる

何かが開く音がした。 照らし出されたのは、羽の生えた木。 振り返って大きな目で見つめ、
踊るような仕草で羽と尾を広げ、飛んだ。 鱗と爪の付いた指が薄明るい夜空に差し延ばされ、
仄光る輪がずっと付いていった

高い処へ攀じ登っていき、一息ついて眠ってしまう前に、薄く羽のそよぐ両腕を広げ、空を蹴って
滑る。 鎖された堅い瞼の上を、指を喰い込ませてずっと攀じ登って来た。 震えを抑えていると、
最後の鱗木と最初の始祖鳥の間に、風の洞穴が開かれていく。 木々の記憶の中を、
雲梯を辿るように、何処までも。 夢は羽搏かずに、そっと息を潜めて滑空する

晩鐘の余韻が何処かで未だ響いている、やがて満月の天空では陸離の舞

2014年02月07日 | 絵画について
夕暮れ時のことを 「たそがれ」 というが、 「黄昏」 という中国語からの
当て字は、日没後の光が僅かに残っていて、暗い感じをよく表している
もともとは 「誰そ、彼 (は)」 という呼び掛けの言葉で、薄暗くなって
人の顔もはっきり見極められず 「誰だろう、あの人は」 と考え込むことが
多くなることから来ているという

目の 網膜 には、主として明るい光の下で、色彩や形態を識別する 「錐状体」 と
薄暗い光の下で、明暗や動きを感じ取る 「桿状体」 という、二種類の視細胞が
分布している。 錐状体の多くが朝目覚めて、夜眠りに就くのに対して、
桿状体は、殆どが夕方目覚めて、明け方眠りに就く

この二つは、外光が三十ルクス位の明るさになると、昼夜を問わず交代し始め、
明け方と夕方には、かなり大幅な交代が行われる
この為、夜明け頃と日暮れ時には、もう眠りに就いた 「錐状体」 と、
未だ目覚めていない 「桿状体」 か、その逆の組合せが、入混じっていて
どちらも完全には機能していない時間帯が生ずる
本人は目覚めているつもりでも、実は物がよく見えていないことになり、
交通事故なども多発する 「逢魔刻」 とは、この内なる状態の時をいうらしい

いつの頃からか、明け方を 「かはたれ」 と言い分けるようになったが、
これは 「彼は、誰 (そ) 」 で、 「誰そ、彼 (は) 」 の逆の言い回しになっている
目の構造が解明される以前に、物がよく見えない時間帯があり、同じようで
実は逆のことが起こっている、ということが、体験的に表現されていたのかもしれない

下村 観山 の手になる 「晩鐘」 という絵には、人けない深山の大寺らしき門前に、
ひっそりと桜の老木が花咲いていて、晩鐘の深いどよもしに驚いたか、
その根方から貂が走り出ていく …



桜の樹もまたよく知っているその音を聴いているようであり、
見るものとてない満開の花を差し広げて、貂を引き留めようとするようでもあり、
そうではなく、また明日、早くお帰り、と見送るようでもある
だが夜半雨が降り敷けば花は散り、明日貂は来ず、またいつ雷に撃たれ老樹の生涯は
終わるやも知れぬ … それでも、今この穏やかな春の夕べは永遠であり、
貂は画面を走り出てはおらず、宵闇も未だ画面に忍び入っては来ない … 
貂とて、忘れていただけで、この音はよく知っているのであり、
恐らく門を鎖しに人が来るであろうことを想い起こし、また里の子どもら
同様、日暮れ前に家路に着くよう、母親から言い含められていただろう
桜の花びらと貂の毛が、柔らかく透き通っていき、黄昏の日差しに
耀きながら、その一つ一つが鐘の音に仄かに震えるようでもある

江戸時代の不定時法では、日の出約三十五分前の明け六つから
日没約三十五分前の暮れ六つまでと、その逆を昼夜として、それぞれ六等分し、
出来た約二時間の十二辰刻を、約三十分毎に、各四刻に分ける。
明け六つ (卯の刻) は、夏には四時前だったのが、冬には六時過ぎに、
暮れ六つ (酉の刻) は、十九時半頃だったのが、十七時過ぎとなり、
昼の一辰刻が、夏には約二時間四十分、冬には約一時間五十分と、随分異なってしまう
当時は十五日ごとに調整したらしい
昔から自分の影が十歩程の長さになると (太陽の角度から) 日没の約一時間前
ということが判るので、これを目安に辺りが闇に沈む前に帰宅したという

三十二歳の 三木 露風 が、北海道で夕日の中を飛ぶアキアカネを見て作ったという
「赤とんぼ」 の詩は、当初は 「夕やけこやけの山の空」 と始まっていたらしい
「こやけ」 の意味するものについては、諸説ある中で、 「日没の十数分後に、
地平線の向こう側に沈んだ太陽から、眼前 (の地平線上) に浮かぶ雲の下側に
光が差し込んで、再び一段と赤々と照らし出されるさま」 というのが、
「負われて見たのは幻か」 という詩句を考え合わせると、かなり有力に思われる

Wikipedia の 貂 (テン)鼬 (イタチ) の項には、次のような記述もある

日本古来からイタチは妖怪視され、様々な怪異を起こすものといわれていた。
江戸時代の百科辞典 『和漢三才図会』 によれば、イタチの群れは火災を引き起こす
とあり、イタチの鳴き声は不吉の前触れともされている。
新潟県ではイタチの群れの騒いでいる音を、6人で臼を搗く音に似ているとして
「鼬の六人搗き」 と呼び、家が衰える、または栄える前兆という。
人がこの音を追って行くと、音は止まるという。

(此処を 「六人を臼で搗く」 と読んでしまって、肝を潰したのだが、そうではなく、
 三人が次々と杵を振り下ろす中、別な三人がまた間髪を入れず、水を付け捏ね …、
 というように、賑やかで調子の速い、大騒ぎを繰り広げているのだった …)

三重県伊賀地方では 「狐七化け、狸八化け、貂九化け」 といい、
テンはキツネやタヌキを上回る変化能力を持つという伝承がある。
秋田県や石川県では目の前をテンが横切ると縁起が悪いといい
(イタチにも同様の伝承がある) 、広島県ではテンを殺すと火難に遭うという。
福島県ではテンはヘコ、フチカリ、コモノ、ハヤなどと呼ばれ、
雪崩による死亡者が化けたものといわれた。
その他、キテンの毛皮は特に優れていて、最高級とされる。
そのため、 「テン獲りは二人で行くな」 ということわざが猟師に伝わっている。
高価で売れるので、一方がもう一方を殺しかねないという意味である。

サキ の 「スレドニ・ヴァシュター」 には、見るからに獰猛な神獣のような鼬が
出て来て、主人公の少年を苛める伯母さんが、少年が秘密裡に飼っているペット
だと思い、閉じ込められた二階から少年が見守る中、始末すべく小屋に入って行った後、
細く開いたままの扉から鼬だけが堂々と外へ出てきて、血濡れた頭を廻らし、走り去り、
後は唯静寂が支配する中、少年は小声で嬉しげに鼬につけた見知らぬ神の名を唱える …
コードウェイナー・スミス の 「ノーストリリア」 や 「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」 で、
不老不死の秘薬を守っていたのは、きわめて獰猛に品種改変された、たくさんのミンクたちで、
侵入等の非常事態には狂乱状態になり、その獰猛かつ狂える強い脳波を収束して
侵入者の感覚器官から注ぎ込み、脳を破壊するという凄い兵器だった …

再び Wiki に拠ると、

鳥山 石燕 の画集 『画図百鬼夜行』 にも 「鼬」 と題した絵が描かれているが、
読みは 「いたち」 ではなく 「てん」 であり、イタチが数百歳を経て魔力を持つ妖怪
となったものがテンとされている。 別説ではイタチが数百歳を経ると狢になるともいう。
画図では数匹のテンが梯子状に絡み合って火柱を成しており、このような姿に絡み合った
テンが家のそばに現れると、その家は火災に遭うとして恐れられていた。

とあり、この重なり合って煤を噴き上げる火焔となった鼬 (テン) の傍に、
観山の山門とよく似た、塀の続く切妻が覘いているのだが、その手前には松がある …



恐らくこの火焔は本物の火災ではなく、 「こやけ」 のように、薄暗くなった辺り一面が
再び急に赤々と耀く時に見えた、陽炎のようなものであり、翳った筈の西日を浴びた鼬が、
屋根の上を並んで組んず解れつ追い駆け合いながら走っていた数匹が、一瞬将棋倒しに
なりかけながら、立ち止まって赤く目を光らせ、尾を揺らめかせただけかも知れない …

菱田 春草 が、満月の晩、白鷺が空中を群れ飛ぶ姿を、同じ宙に浮いた視点から
近々と描いた 「陸離」 は、東京美術学校の教授時代に、日本美術院の同志たちとの
絵画互評会で発表された時は 「月夜飛鷺」 で、この時の会の課題が 「陸離」 だった



互いに評し合う、記録を見てみると、

  下村 観山         着想甚だ妙、別に夐點を見ず。

  横山 大観         着想に於ては塲中第一ならん、月夜に白鷺の飛びかふ情、
              十分に現はれたり。 唯月なくして鷺を今少しく小にせば、
              全局廣くなりて一層面白かりしが如し。

  鈴木 華村         同感、鷺に當れる光線に變化なく、一様なるはいかゞ、
              眞白の鷺と淡鼠に見ゆる鷺と相交へて、光線を一層面白く
              描き分けしならば、殊に妙なりしならん。

  山脇 荷聲         着想描方ともに佳なり、唯形よりいはゞ、鷺無意味にして、
              模様の如きを免れざる歟。

  (数人各論あって)

  川合 玉堂         予は大観君に反して、荷聲君に賛せざるを得ず。
               着想の卓抜奇警、眞に驚くの外なしと雖、
               鷺活動を夐きて、空の色に變化なく、一面に塗りたるが如き、
               十分成功の作と見るべからず。

  (更に数人各論あって)

  (岡倉 天心 纏め)   着想の新、圖様の奇、眞に天外より落つるもの、
              用筆の温雅にして、賦彩の沈着なる、亦得難き作といふべし。
              これを模様畫といふものは、酷評に失するを免れずと雖、
              華村子の言大に味ひあるが如く、
              其他鷺に就ての非難あるは、濃淡の微瑕より来るにあらん歟。

(日本美術院百年史 二巻下 〔資料編〕)   


この空は、まさに天空というべき空気の薄い高層圏で、満月が大きく見える程、月光を満たし、
ゆっくりと地球が自転し、月との引力の満ち牽きを感じながら、はらはらと時の雫を落とす
かのように羽を散らしながら夜気を漕ぐさまは、時間の流れが殆ど無限大に引き延ばされて、
まるで大気が超流動化していくかのようでもある
今にして見れば、 等の、若く青白い重量級の星々が互いに間近に集う様子も想い起こされる

陸離」 にしても、

  三省堂 大辞林
  りくり 1 【陸離】
  (ト / タル) [文] 形動 タリ

  (1) 光が入り乱れて美しくかがやくさま。
  「光彩―」「麗しい七色が―と染出される/青春(風葉)」

  (2) 複雑に入りまじるさま。

何となく単純に、 「離陸」 と似たような感じなのだろう、と勝手に思ってしまっていたので、
このような壮麗な意味だったのを知って、唖然とすると共に、また何と素晴らしく難しい
御題であり、他の後の大家が 「海月」 等を描かれる中 (… こちらも文字を見ると、一瞬
頭を過るクラゲではなく … その名の当て字の元になった、夜の海の波の上に揺らめく月影 …)、
この絵を描いた春草の発想に畏れ入る …
二つの意味が渾然一体となり、まるで語源となる光景が立ち顕れたかのよう …

一つは、聴こえない深い音がどよもし殷々と消えていく中に、老いた花樹といたいけな小獣の
交感が立ち昇り、一つは、故郷か新天地かへ旅立つ、仲間裡に脈々と流れる、古から受け継がれて
きた本能の、浮き立つような力と喜びに満ちた、翼の羽ばたきと軋みに、幽かに空気のはためく中、
月の光がひたひたと照り映える … その硬質でありながら柔らかな、重くまた軽やかな、
力強くしなやかな音が、胸の奥より血潮となって聴こえて来るような気が …