hazar  言の葉の林を抜けて、有明の道  風の音

細々と書きためたまま放置していた散文を、少しずつ書き上げ、楽しみにしてくれていた母に届けたい

彷徨(さまよ)ふ花

2019年06月30日 | 随想

【小督(こごう)と仲國(なかくに)(実は おそらく實國(さねくに)】

平安末 二人の貴人 年長の 藤原 隆房
年若き 高倉 天皇 に深く愛された
箏(こと)の名手 小督(こごう)

二人の正室は 共に 平 清盛 の娘
清盛の逆鱗(げきりん)に觸(ふ)るることを畏(おそ)れ
宮中から逃れ 嵯峨に身を隱(かく)す

小督(こごう)を探し出し 密(ひそ)かに
宮中に連れ戻すよう 勅を賜(たまは)った源 仲國
―― と伝えられるが おそらく そうではなく
藤原 實國で 高倉 天皇の笛の師 ―― は
賜(たまは)った駒を駈(か)り 嵯峨野を経廻(へめぐ)る

日も暮れ いましも仲秋の月が
皓皓(こうこう)と昇り來る頃
水際で ふと見事な「想夫恋」の調べが
かすかに聴こえて來る

渡りかけた瀨を戻り 音のする方へ駒を向けると
果たして 片折戸(かたおりど)の苫屋(とまや)に
小督(こごう)が隱(かく)れ住んでいた

清盛を畏(おそ)れ 宮中に帰ることを憚(はばか)る
小督(こごう)に 帝(みかど)よりの文(ふみ)を渡し
久方振りに聴いた 箏(こと)の調べに
帝(みかど)を慕ふ心が 溢(あふ)れていた と
いうと 小督(こごう)は 折れ 御意に添ひ

戻る旨 認(したた)め 仲國(實國)に託す
役を離れ 二人は 打ち解けて かつて御前で
共に奏樂した如(ごと)く 笛と箏(こと)を手にとり
懐(なつ)かしく 奏で合せた後(のち)
駒に うち乗り 帰る仲國(實國) 見送る小督(こごう)

宮中に戻り 程なく懐妊 皇女を生み 出家
庵(いほり)に独居する 小督(こごう)が病床にあった折
歌人 藤原 定家や その姉君が 見舞ったという

九州には 別の伝承 も ある
知合いの僧を賴(たよ)り 大宰府(だざいふ)
観音寺へと向う 尼君(あまぎみ) 小督(こごう)が
昨夜來の雨に逆巻(さかま)く
川を渉(わた)ろうとして

溺(おぼ)れ 助けられるも 弱り臥(ふ)せったまま
間もなく二十五歳で 白鳥成道寺に没した という

香春岳 を望む 白鳥成道寺 には 七重塔が
高倉天皇陵へと続く 京 清閑寺には 宝篋印塔が
それぞれ 小督の墓と伝えられて在る

渡月橋 北詰の橋は 仲國(實國)が
小督(こごう)の奏でる 箏(こと)の音(ね)を聴いた
駒留橋 または 箏聴橋 と 呼ばれている という

法輪寺 参詣 曼荼羅 176.2×166.6cm 16C    

国宝 虚空蔵菩薩像 絹本着色 132.0×84.4cm 12C 平安時代 東京国立博物館

法輪寺 虚空蔵菩薩 降臨の御本誓に
「智恵を得んと慾し」「福徳を得んと慾し」
「種々の芸道に長じ 技芸に上達せんと慾し」
「玄妙の域に達するような 流暢な音声を出し
 歌舞音曲の奥義を極め 栄達を得んと慾し」
「官位 称号 免許を得るよう慾し」
「内外とも 身分に ふさわしい威徳を得るよう慾し」
など祈願するものは わが名(虚空蔵尊名)を 称念せよ とある という
四番目が氣になる

渡月橋 は 法輪寺橋とも いわれ
渡ると程なく 法輪寺 境内に入る
数え十三 春十三日の頃には 十三夜まいり という
法輪寺 虚空蔵菩薩より 智慧を授かる 行事が ある
虚空蔵菩薩の生れ変りである 羊の像の頭に ふれ
お詣りを濟ませての帰り道 渡月橋を渡りきるまで
振り返ってはならぬ とされ 振り返れば
授かった智慧は すべて戻ってしまう という

伝 金春 禅竹 作 四番目能『小督(こごう)』は
嵯峨野の場面を 表す

笛の名手である 仲國(實國)は
小督(こごう)の奏でる 箏(こと)に応えて笛を吹き
捉えた箏(こと)の音を 巧みに途切らすことなく
手繰(たぐ)り寄せ 嵯峨野の原から
小督(こごう)の隠れ住む苫屋(とまや)へ たどり着いた とも
 
能 小督(こごう) 駒ノ段           
小督(こごう)が 高倉天皇に見初められる以前
彼女の恋人として知られた 藤原 隆房(1148-1209)卿は
小督(こごう)が 帝(みかど)に愛されるようになった後(のち)も
小督(こごう)への想いを 断てなかった という
 

隆房卿 艶詞 絵巻 紙本白描 紙本水墨 25.5×685.0cm 13-14C 鎌倉時代 国立歴史民俗博物館


【隆房卿 艶詞 絵巻】

隆房卿 艶詞(つやことば) 絵巻 は 小督(こごう)への想いを 綿々と綴った
隆房卿 傷心の物語で 第一段には 右端の桜の幹にそって 蘆手(あしで)文字で
「のとかに(長閑[のどか]に)」と記され 小督(こごう)と高倉天皇が
清凉殿にて 月を眺めて過ごす場面が描かれる

第二段(冒頭 老松にからまる藤の蔓(つる)が
「木たかき(木高き)」と記され 憂いに沈む女房たちと
隆房卿の居る 部屋の後に)さらに 別棟に
手紙らしき束を傍(かたへ)に置く 小督(こごう)
と思(おぼ)しき人物が居て その直ぐ外の庭には
柳と梅と梅の幹に「としたち(歳経ち)」と記される

第二段 前半は 初夏 第二段 後半は 早春で
間に 時の経過が示される
 (「歴博」第198号 小倉 慈司『隆房卿艶詞絵巻』に見える葦手 ―王朝絵巻のかな文字絵―

最後は 隆房卿が 車で かつて小督(こごう)が住んでいた
邊(あた)りを 通りかかり いまは すっかり人けなく
荒れ果ててしまっているのを 時の霞がおし包み 終る

詞書(ことばがき)には つぎのような歌で 物語が綴(つづ)られる

 女に つかはしける         女に 送った歌

人知れぬ 憂(う)き身に       人知れず 辛(つら)い我が身には
繁(しげ)き 思ひ草         思い草が生い茂るように 物思いばかりが増えてゆく
想へば君ぞ             どうして こんなことになったのか ご存知であろう
種は蒔(ま)きける          種を蒔(ま)いたのは あなた なのだから

 わかき人々あつまりて       若い人々が集まった折 わたしも彼(か)の女も
 よそなるやうにて         同席していたが 何でもない振りをして
 物がたりなど するほどに       雑談する裡(うち)
 しのびかねたる心中        堪(こら)えきれず 心中の思いが
 色にや出(い)でて見えけん       顔に出てしまったのだろうか
 すずりをひきよせて        彼(か)の女が硯(すずり)を引き寄せ
「ちかのしほがま」と かきて     「千賀(ちか)の塩竈(しほがま)」と書いて
 なげおこせたりし ことの       その紙を投げて寄越(よこ)した ことが思い返され
 おもひ いでられ           心を抑えかね うわの空に なってしまった

思ひかね 心は空に          これでは まるで 遙(はる)か遠くへ追い遣られる
陸奥(みちのく)の          ようなものだ 陸奥(みちのく)の
ちかの塩竈(しほがま)        千賀(ちか⇔近)の塩竈(しほがま)へ
近き甲斐(かひ)なし         本當(ほんたう)に 近くにいる というのに

 なにの舞ひとかやに入りて     何の折の舞楽であったか 舞人の間に入れられ
 はなやかなる ふるまひに       そのように華やかな行事に
 つけても「あはれ 思ふ事なくて    つけても「恋の悩みが なくて
 かかる まじらひをも せば      このような奉公をするのだったら
 いかに まめならまし」        もっと身を入れて 誠心誠意 出來(でき)るものを」
 と おぼえて 又 さしも         と思いながら 見れば 彼(か)の女の態度も
 うらめしく あだなれば        恨めしいほど 不実な様子だったので 目の
 見る事つつましく         遣(や)り場もなく 自分の舞を見られることも 気が引け

ふる袖は             振って舞うはずの袖は
涙に ぬれて 朽ちにしを       涙に濡れ 朽ちてしまったのに
いかに立ち舞ふ 吾が身なるらむ    どうやって 人前で舞うつもりなのか この わたしは

 逢ひ みぬことの          逢えないことが
 後まで 心に かからんことの    いつまでも 堪(たま)らなく残念で
 返す返す あぢきなくて       幾度となく想い返しては 口惜しく

恋ひ死なば            わたしが 恋い死にしたら
浮かれむ魂(たま)よ        せいせいした とばかりに 出てゆくであろう 魂よ
しばし だに             ほんのしばらくの間だけでも
我が思ふ人の           恋しい人の 裳裾(もすそ)の 左右の端を合せた
褄(つま)に 留(とど)まれ       褄(つま)のところに 留(とど)まってくれ

 つくづくと おもひつづくれば    ずっと想い続けて來たが
 この世ひとつに           この世で ただ一途に
 恋し かなし と おもふだに      恋しい 哀しいと想っても
 いかがは くるしかるべき      こんなにも苦しいわけなのだが
 そののちの世に ふかからん     あの世で 罪の深さを悟って
 罪の心憂さに            悔いることになるのかと想うと

あさからぬ            淺くない縁(えにし)の
この世ひとつの なげきかは      この世だけの歎(なげ)きなのだろうか
夢より のちの            夢のように儚(はかな)い この世を去った後に
罪のふかさよ           償(つぐな)うべき 罪の深さを想わずに居れぬ


 Yamma Ensemble - Komitas - Armenian love song           高倉 天皇

   小督(こごう)

隆房卿 艶詞(つやことば)絵巻では 髪に隱(かく)れぬ顔(かんばせ)の
唇に朱を差すほかは 墨の毛描きのみにて
入(い)り組む 宮中の部屋部屋を 棚引(たなび)く霞が
隱(かく)したかと思うと また ふいに披(ひら)く
靜(しづ)かに音の絶えた時と場所が 幾重(いくへ)にも交錯し
離れ隔(へだ)たり 螺旋(らせん)に旋回してゆく

縁にて 月を眺める 帝(みかど)と小督(こごう)
その髪に 桜の花びらが散り紛(まが)ふ

十二世紀の 仏蘭西(フランス)の吟遊詩人 ジャウフレ・リュデル 「彼方からの愛」
ケルト起源で同じ頃 同地に成立した「トリスタンとイゾルデ」に見られるような
恋人たちの間を取持たねばならぬ 使者としての立場にある 實國(仲國)は
小督(こごう)をめぐる男たちの裡(うち)では ひときわ年嵩(としかさ)だが
笛の匠(たくみ)として 心は小督(こごう)に 最も近く在ったのかも知れぬ

小督(こごう)が 心から希(こいねが)う事柄については 誰も知りようもなく
誰も知ろうとしていないようにも見える

小督(こごう)が 心から希(こいねが)ったこと それは音樂では なかったか
誰かに執着されたり 嫉妬されたり 憎まれたりせず
穩やかに 奏樂を匠たちと樂しめる 暮し

小督(こごう)の心に 追いつけず 守ってやることも出來ず
夢の中で 宮中を 嵯峨野を 彷徨(さまよ)ひ
小督(こごう)を探す 隆房卿

探しに行けぬ身を輾転反側 いつしか こと切れ 魂を解き放ち
小督(こごう)を探し 離れまいとする 高倉天皇

小督(こごう)を勞(いたわ)り見守りながら
心の侭(まま)に音樂をさせてやろうとするものは 居らぬようだった

天の川に浮ぶ 星々の影が
蘆(ヨシ)の戰(そよ)ぐ 水面(みなも)の遙(はる)か下
睡(ねむ)る未草(ヒツジグサ)に重なる
風と月光が吹き渡り 水は樂の音に煌(きらめ)く

(続く)   


未草(ヒツジグサ)の睡(ねむ)り

2019年06月13日 | 随想
また ここまで來た
佇(たたず)んだまま 風に吹かれ
鈍色(にびいろ)に 光傾(かし)ぐ 瀨

探していたものに 出會(でくわ)しそうな 夕
探させられなければ 知ることのなかった 心

暮れなずむ水に映る
蘆(ヨシ)の連なり靡(なび)く蔭
散りぼふ 小さき花白く

囁(ささや)き聲(こゑ)で絶え間なく 口誦(くちづさ)む
日暮れとともに止みて 合掌(がっしょう)
仄(ほの)めく灯明包み
泡翳(かげ)鏤(ちりば)む水紋 挿頭(かざ)し 莟(つぼ)む

忘却を希(こひねが)ふ音色 消え果つ 奥つ城(き)
鏡の裡(うち)なる顔(かんばせ)が 渦巻く髪の蔭
泣き崩(くづ)れ

水底(みなそこ)の沙(すな)
昇らぬ日と月 沈み煌(きらめ)く 夢の破片
涙 目覺(めさ)め 風と波 翳(かす)め響(とよ)み
惑(まど)ひつつ辿(たど)る 月へ戻る橋
月より日へ帰る道

水に浸(ひた)ったままの蹄(ひづめ)
廻(めぐ)る白毛が かすかに戰(そよ)ぐ
水面(みなも)に滑り広がる 山の端(は)
透き融(とほ)る月の瞼(まぶた)より伝ふ 陸離 空白の橋

觸(ふ)れている間 流れは限りなく遲(おそ)く 遲(おそ)くなる
蒼き翳(かげ)搖(ゆ)らめく波間
月白(げっぱく)の橋 渡り 古(いにしへ)の夢 消えて還(かへ)る
遙(はる)かに望む 時の螺旋(らせん)の彼方(かなた)
薄光注ぎ 蒼き翳(かげ)差す 同じ心に湧き出(い)で

    Amalgamation Choir - Ksenitia tou Erota(Giorgos Kalogirou)
   Amalgamation Choir - Tis Trihas to Gefyri(Pontos)    DakhaBrakha - Vesna

 【未草(ヒツジグサ)

日本に自生する 唯一の小型の白い睡蓮(スイレン)
花の大きさは四センチ程で スイレン属では世界最小 

寒さに強く 初夏から秋に
山間の小さな池や 湿原の水溜(たま)りなどに生え
水位の安定した 養分の乏しい水域に育つ 多年草

浮き葉と 水中葉を持ち
蓮(ハス)と異なり 浮き葉に露を転がす撥水性はない
楕円で 先の深く切れ込んだ葉の形は 遠くから眺めるとき
羊など偶蹄目の 群れ惑(まど)ふ足跡に似る とも

大きな湖では 魚が水中葉を食べ
絶へてしまうことが多い
浮き葉は紅葉し 冬枯れて 水中葉のみで越冬
初夏から秋まで 花咲く
一つの花が 三日程の間
日が落ちれば 閉ぢて 水中に没し
日が昇れば 水面より浮び出て 開くことから
睡(ねむる)蓮(はす) の名が あてられた という(『大和 本草』)

明治以降に 外来種 water lily が輸入されると
ヒツジグサ と同様 スイレン と呼ばれるようになるが
大和本草』(1709)の刊行された 江戸時代 以前 日本には
ヒツジグサ しか存在せず 睡蓮 といえば ヒツジグサ を指した

この花について詠(よ)まれた歌 纏(まつ)わる物語
伝承は 記紀 万葉集などに 見当らぬようだ
何故(なぜ)だろう

数多(あまた)の別れとともに 忘れ得ぬまま消え果て
遙(はる)かに立ち昇る 霧の螺旋(らせん)の間を漂ひ
探し求める夢の畔(ほとり)を彷徨(さまよ)ふ
胸の底深く 切立ち抉(えぐ)れた山奥 ひたひたと溢(あふ)る
水溜(たま)りへ浮び出(い)で ひっそりと花咲く

「未草」という 花名の由来について『大和本草』には
「京都の方言で呼ばれている」もので「未の刻 すなわち 午後二時頃
(季節により 午後一時~三時)から花が閉じる」ことから と説かれ

   『大和本草』 八 水草  睡蓮(ヒツジグサ)

  ヒツジグサ ハ 京都ノ方言ナリ、此花 ヒツジノ時ヨリ ツボム、
  荇菜(ジュンサイ)ノ葉ニ似タリ、酉陽雜俎本草綱目 萍蓬草ノ下ニ、
  唐ノ段公路 北戸錄ヲ引ケリ、夏秋 花サク、花白クシテ 數重ナリ、
  蓮ニ似テ 小ナリ、其葉ハ (アサザ)ノ如シ、
  其花 夜ハ ツボミテ 水中ニ カクル、晝(ヒル)ハ又 水面ニ ウカブ
  故(ユエ)ニ 睡蓮ト云(イフ)、北戸錄ニ 所云(イフ トコロ)ト
  相同(アヒ オナジ)、他花ニ コトナル物也、蓴菜 荇菜(ジュンサイ)ノ
  類ナリ、畿内 江州 西土 處々(トコロ ドコロ)ニ多シ、他州ニモ多シ、

一方『和漢三才図絵』(1712)や『本草図譜』(1828)では
逆に「未の刻に花が開く」と紹介されているが
実際には 朝から夕方まで咲き
ほぼ平らに全開するのが 正午から未の刻の頃

花は三日程の間 日々開閉を繰り返し
明け方 水中より水面(みなも)に
蕾(つぼみ)を擡(もた)げ 開花
日暮れ 花を閉ぢ 水面下に没する

その後 花のついた茎を螺旋(らせん)に曲げ
水没したままとなり 水中で実を熟成させる (初冠 睡蓮と未草

   Debussy: Prélude à l'après-midi d'un faune / Rattle      water lily スイレン

【ウェールズ民話 銀の牛】

竪琴(たてごと)の音(ね)を愛し 山間(やまあひ)の
池より 六匹の銀の牛の姿で顕(あらわ)れた精霊が
竪琴(たてごと)の沈んだ池に スイレンとなって
花咲くようになった物話が ウェールズに伝わる

「ウェールズの山間(やまあひ)の池に
 water lily(スイレン)が 咲くようになったわけ」

ウェールズの山間(やまあひ)に暮らす 少年が
白い牛と黒い牛を連れ 池の畔(ほとり)の草地で
竪琴(たてごと)を奏(かな)でていた時のこと

池から銀色の牛が六匹浮び出て 岸へと上がり
少年を取り巻いて 楽の音(ね)に耳を傾け
日暮れて家路につく時も 少年についてきた

銀の牛たちは 濃い乳を出し 家族は喜んだが
一頭が乳を出さなくなると 肉屋に売払うことにし
助けてほしいと頼んでも 耳を貸さなかったので
少年は牛たちを連れ 池の畔(ほとり)で曲を奏でる裡(うち)
悲しみのあまり 竪琴(たてごと)を池に投げ入れた

すると六頭の銀の牛は皆 竪琴(たてごと)の後を追い
池に走り込んで ニ度と姿を現わさなかった
やがて その池を埋(う)め尽(つく)すように えもいわれぬ銀色の
water lily(スイレン)が花咲くようになったという
 
その最初の花々に 少年は 心の裡(うち)で
竪琴(たてごと)を かき鳴らしつつ 独(ひと)り旅立つ

Silver Cow, written by Susan Cooper, illustrated by Warwick Hutton   
 
見返しから見開きで 夜明けの池が描かれる 最初と最後
汀(みぎは)に咲くスイレン越しに 向う岸から
丘の向うへ見えなくなる その道を ずっと見送るように
 
閉ぢた目を 池のほうへ向けたまま 少年が遠ざかってゆき
やがて見えなくなった後も あちらこちらを向いて
白いスイレンが 静かに群れ咲いている
 
「狭き山間(やまあひ)を抜け 共に奏で響き合ふ
 心に出逢(であ)ふまで 立ち止まらず 行きなさい」
明るく馨(かを)る かすかな聲(こゑ)で
響(とよ)み 頷(うなづ)き 励ますように
「振り返らずに わたしたちは あなたの音楽を忘れぬ
 わたしたちは あなたの音楽に棲(す)む いまも これからも
 いつも ずっと いつまでも 生きとし生けるものの 心に鳴り響く」
 
少年は 竪琴(たてごと)を奏でていたのではなかったか スイレンたちに
ここでも 脇に挟(はさ)んで
 
少年の竪琴(たてごと)は これまで 怠(なま)けているとして
幾度となく 叩(たた)き壊(こは)されてきた
疲れと眠気と闘(たたか)ひ 辛抱(しんぼう)強く 繕(つくろ)ひ
粉々に砕(くだ)かれたものは 一から作り直した
 
身動きのとれぬ 深い夢の底で 少年が
ずっと堰(せ)き止めていた 涙を流し
旅立ちを心に決め 安らかな睡(ねむ)りに落ちた頃
銀の牛たちが 池の底から掬(すく)ひ上げ
潰(つぶ)れた くしゃくしゃの枕元へ届けてくれたのではなかったか
 
本を閉じるとき その音色が 聴こえて來そうになる
清清(すがすが)しき 花の馨(かを)りとともに
 
 
「花に な(鳴)く うぐひす(鶯) 水に す(棲)む かはづ(蛙) の こゑ(聲)を き(聴)けば
 い(生)きとし い(生)ける もの いづれか うた(歌)を よ(詠)まざりける」
                     (古今集 仮名序 紀 貫之 十世紀初頭)
 
 
牧神(パーン)に追はれ 蘆(ヨシ または アシ)になり
 蘆笛(あしぶえ)となった シュリンクス

太古の神々の物語を 次々と取り込んでいった ギリシャ神話に
牧神(パーン)に付き纏(まと)はれ 追ひ詰められた
水辺で 助けを求め 蘆(ヨシ)に変身する物語がある

風に震へ 哀しげに鳴る蘆(ヨシ)牧神(パーン)は手折り
蘆笛(あしぶえ パン・フルート) を作って
乙女の聲(こゑ)と共に在ることを悦びとしたという
 
牧神(パーン)シュリンクスを 自分のものにしたかっただけなのか
そうではない と 蘆笛(あしぶえ) は語る
 
ただ その歌聲(こゑ)に 尽きせぬ天の惠(めぐ)みを感じ
解き放ちたい と感じながら 傳(つた)へることが出來ぬまま
 
月の女神の巫女(みこ)として満足していた 幼きシュリンクス
突如 間近に見(まみ)えた 牧神(パーン)の異性と異形に 恐れ戰(おのの)き
話も聴かず 逃げ惑(まど)ひ 早瀬の深みへ向ったのを 止めようと
伸ばした手が 届かず 觸(ふ)れられまいと その背は捩(よぢ)れ
 
失はれたものに茫然とし 水瀨(みなせ)を通るたび 戰慄し
暗澹たる想ひに駆られ ある夕べ 坐り込んで
その日 何度目かの許しを乞うていたら
風が枯れた蘆(ヨシ)を そっと揺らし かすかに鳴らした
蘆(ヨシ)は歌ふようだった
 
「あなたが わたしの歌聲(こゑ)を好きだったこと
 いまは知っています ありがとう」
「優しい人だと わからなくて 怖がって ごめんなさい」
「ここは靜(しづ)かで とても冷たい わたしが ここに居ることを
 あなたが ずっと悲しんでいると 月の光が 敎(おし)へてくれた」
「わたしは もう 何も出來ないけれど あなたを怖がってはいない
 恨んでもいない あなたは わたしの歌聲(こゑ)が
 好きだったのだから それを想ひ出して 聴かせてほしい
 わたしは もう 歌ふことは出來ないけれど あなたは出來る
 悲しまず その歌聲(こゑ)と 生きてほしい」
 
牧神(パーン)の閉ぢた眼から涙が溢(あふ)れ
耳にシュリンクスの聲(こゑ)が甦(よみがへ)る
 
亡き人の聲(こゑ)を伝へてくれた 枯れた蘆(ヨシ)の一つに
あの日 届かなかった 手を伸ばし 注意深く 折り取って
並べて結び そっと息を吹き込むと それは 歌ってくれた
 
 
李 賀の詩 伶倫(れいりん)の作った 竹の笛】

唐の 李 賀(791-817)の詩に詠(うた)はれる
伶倫(れいりん)黄帝に仕えた 音楽の創成者
竹を切り 二十四の笛を作った とされる
黄帝は 半分の十二を用い
天地を構成する諸物質の運動を調整した

黄帝が天に昇られるとき 二十三管は帝に從(したが)ひ
殘された人類の爲(ため)一管が この地に留(とど)まった
が すでに人に德(とく)なく 誰も手に入れられなかった
黄帝の再来と称(たた)へられ惜(お)しまれた 帝の(びゃう)から
その笛は発見された という


李 賀の詩 天上の謠(うた)】
 
李 賀には 回転する銀河について 歌った詩も ある
 
天上の謠(うた)

天河夜轉漂廻星     天の川 夜 回転し めぐる星を漂わせ
銀浦流雲學水聲     銀の渚(なぎさ)に流れる雲 水聲を模倣する
玉宮桂樹花未落     月宮の桂の樹 花は未(ま)だ落ちず
仙妾採香垂珮纓     仙女らは佩(お)び玉たれて 香る花つむ
秦妃巻簾北牕曉     秦の王女 簾(すだれ)を巻けば 北窓は暁(あかつき)
牕前植桐青鳳小     窓の前に植えた桐には 青い小さな鳳凰(ほうおう)がいて
王子吹笙鵝管長     王子 喬 鵞鳥(がちょう)の首より長い笙(しゃう)を吹き
呼龍耕煙種瑤草     龍を呼び 煙を耕し 瑤草を植えさせている
粉霞紅綬藕絲君     朝焼けの紅綬をおびた 蓮糸のもすそ
青洲歩拾蘭苕春     青洲を散歩して 蘭の花を拾う春
東指義和能走馬     東方を指させば (日輪の御者)義和は巧みに馬走らせ
海塵新生石山下     乾いた海に新しい砂塵(さじん)が上がる 石山のもと
 
(李賀歌詩編1 原田 憲雄 訳注 平凡社 東洋文庫 645)   

二十代半ばで 病に斃(たお)れた 李 賀
生きていたのは ガリレオ の八百年前

初句「天河 夜 転じ 廻星を漂わせ」
地上から遍(あまね)く深く くっきりと銀河を捉(とら)へ
同じ深度 角度で虚空へ身を投げ上げる
 
体内の古き道 仄(ほの)暗く通底する 天体物理の翳(かげ)
記憶の底を うねり流れる 脈打つ波動
耳を傾ける裡(うち) いつしか睡(ねむ)りの底に 投影し されて

魂魄の巴投げ 結び合ったまま
手を放すことはない 螺旋(らせん)を舞ひ上がり
一目一翼 比翼の鳥が 合体せず
一つの呼吸で舞ひながら 翔(かけ)り飛ぶ
 
天の川銀河の 渦巻く腕の一つの一端に
ぶら下がる 明るき炎の瑤(たま)
遠く近く廻(めぐ)る昏(くら)き瑤(たま)
その中に 碧(あを)く仄(ほの)光る地球が見えただろうか
 
続く「銀裏流雲 學水聲」
「銀河も雲も音を立てないが
 銀河の渚を流れる雲が
 観ていると 水音の感じがするのを
「学ぶ」摸倣するといっている
 このような疑似感覚を歌ったものは 空前で
 すぐれた表現として たいへん有名になった」
             (原田 前掲書)という

星々は音を立てているらしい
李 賀には 聴こえたのかも知れぬ
木星は人間の可聴域で 和音の中を
廻(めぐ)る歌聲(こゑ)を響かせている ようだ
そのように

銀河の回転を眺めながら 月の仙宮で笙(しゃう)の笛吹く春
太陽が廻(めぐ)り 忽(たちま)ち悠久の時が過ぎ去って
海底が隆起し 岩山となり屹立する

終盤 二句
「春といえば東だから そちらを指さすと
 日輪の御者の義和が駆け登ってくる
 なかなか うまいじゃないか と思っているうちに
 たちまち何億年かが過ぎ去って
 海が干上がり あらたに生まれた陸地では
 岩石の山のあたりで砂塵が舞い上がっている」
              (原田 前掲書)

近年 地軸のづれと それに伴ふ 生態系の変化を
古来 肉眼で日月星辰の位相から 季節の到来と
気象を読み取ってきた というから

李 賀も 透徹した視力と聴力
天翔(あまかけ)る 斬新 鮮烈な洞察力と想像力で
渦巻き耀(かかや)く天の川銀河の 腕の先の一端に
ぶら下がる 太陽 を廻(めぐ)る 地球 が
天の川銀河の腕に一波 搖(ゆ)られる間の

二億五千年余り前のこと
すべての大陸が衝突し終へ
超大陸パンゲアが形成された頃
地球内部からスーパー・プルームが上昇
あらゆる火山活動が激烈となり
古生代の海生生物種の九割五分以上が絶滅した のを
遠く海塵立ち昇る裡(うち)に 見てとったのだろうか
(続く)