ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

クラクフ報告(2) バルバカン~フロリアンスカ通り~大広場

2013-06-13 22:10:17 | 2013年6月のクラクフ

6月4日(火)、クラクフ観光の初日です。まずは朝食に、地下のレストランへ。

降りていくと、いくつかテーブルが並んでいました。キッチンは階段の左手後方にあるようでした。

下左の写真の左手にあるアーチを抜けるともう一部屋あり、中央の大きなテーブルに朝食用のビュッフェがありました。下右写真の左手にあるアーチが、抜けてきたアーチです。

 

パン、シリアル、ハム、チーズ、生野菜、ゆで卵のサラダ風、サラダ、コーヒー、紅茶・・・十分な内容でした。 別のテーブルには、朝っぱらから、ケーキまで! もちろん味見に一切れ(2種類を半切れずつ)いただきましたけどね。

 

朝食係の女性が「温かいものはお召し上がりになりますか?」と訊いてくれましたが、そこにあるもので十分だったのでお断りしました。なるほど、それぞれのテーブルに、覚書が立ててありました。

『以下のものも朝食料金に含まれておりますので、ご希望があれば料理いたします: スクランブル・エッグ、目玉焼き、ゆで卵、ソーセージ、トースト、オムレツ(プレーン/チーズとハム/マーマレード)、パンケーキ(マーマレード/フルーツ/カテージ・チーズ)、コーヒー(エスプレッソ、アメリカン、カプチーノ)』

 

丸めた紙を突っ込んだりドライヤーを使ったりして何とか乾かした運動靴をはき、観光に繰り出します。どんより空の下、まずは駅前の大通りへ。

下右は、旧市街の北の外側に立つグルンヴァルト戦勝記念碑です。1410年7月15日にグルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団を破ったポーランド・リトアニア連合軍の勝利を記念するもので、500周年のお祝いとして愛国家で世界的に有名なピアニスト、イグナツィ・パデレフスキがクラクフ市に寄贈したものです。

彫像のてっぺんで馬にまたがっているのは、戦いの当時ポーランド王だったヴワディスワフ2世。足元前面に立つのは、彼の従弟でリトアニア大公のヴィータウタス。両脇を固めるのは、連合軍の勇敢な兵士たち。ヴワディスワフ2世の下に倒れているのは、戦いに敗れたドイツ騎士団長のウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン。だそうです。

 

1910年7月15日に除幕され、3日間続いたお祝いには16万人が参加し、パデレフスキは自腹を切って飲食物もふるまったそうです。(下右:除幕式で演説するパデレフスキの絵葉書。)

               

アントニ・ヴィヴルスキ(Antoni Wiwulski)による彫像は、当然のことながら、第二次大戦中にドイツ軍がクラクフを占領した際、ドイツ軍によって破壊されました。それゆえ現在立つのは、オリジナルに忠実に模倣され1976年に完成した複製品です。

南西を向くヴワディスワフ2世が見つめる先にあるのは・・・

どーん!と重量感のある要塞、バルバカン(Barbican)です。直径24.4m、壁の厚さは3m。15世紀末の建造で、当時は背後にあるフロリアンスカ門とは、跳ね橋で結ばれていました。そういえば19世紀始めまでは、その先の旧市街一体は、市壁に守られていたんですものね。

 

 

次は高さが33.5mあるフロリアンスカ門(St. Florian's Gate)に向かいました。14世紀の建造です。記録によると、1473年には17あった市壁の監視塔は、100年後には33に増え、最多時で47もあったそうです。フロリアンスカ門上の見張り塔は、今日4つ(3つという説も)しか残らない塔のうちのひとつです。この門を通ってヴァヴェル城に達する道は、歴代王が戴冠やお祝い事のため行進した道だったので、“王の道(Royal Route)”と今でも呼ばれています。

 

そうそう、バルバカンは入口のある正面側から見ると、こんな(下左)感じでした。4月から10月の間は、10時半から18時まで、内部(空っぽだそうですが)の見学ができるそうです。このときは、まだ時間が早すぎたため閉まっていました。

フロリアンスカ門には、小学生低学年くらいのグループが向かっていました。学校の社会科見学かな?

 

門に入ると、前方に聖マリア聖堂が見えました。中央に立つ男性二人は、日帰りツアーの客引きです。門の厚みの中には、祭壇が。そうそう、ポーランドは敬虔なカトリック国なのでした。

 

門を抜けて左手(北東方向)の光景。門の両脇にだけ、市壁が一部残っています。 市壁の名残りのおしまいまで、歩いて行ってみました(下右)。

 

途中、カラフルなピアスのお店がありました。もっと若かったら、欲しくなってたかも。(・・・って、ビビリの私はピアス穴、開けてなかったわ。)年季の入った車がいました。

 

市壁の名残りのおしまいから東南方向にすぐのところにあったのは、スウォヴァツキ劇場(Slowacki Theatre)。パリのオペラ座を模してデザインされ、1893年に完成し、1909年にポーランドの偉大なロマン派詩人にちなんでユリウス・スウォヴァツキ(Juliusz Slowacki)劇場と名づけられました。

フロリアンスカ門にもどって反対側を見ると、そちら側にも市壁の名残りと塔がありました。そっちに進むとチャルトリスキ美術館があります。

 

フロリアンスカ門からまっすぐ大広場に通じる道、フロリアンスカ通りを進みます。門を振り返るとこんな(下左)感じ。広場に向かって右手の40番地に、チェックしておいたチョコレートのお店 KARMELLO がありました。 そのうちお土産、買いに来るぞ~!

 

ショーウィンドウの小物たち。楽隊の置物が特にかわいらしいです。

 

フロリアンスカ門から聖マリア聖堂まで、約300m。聖マリア聖堂が、どんどん近づいてきます。 

 

反対に、どんどん遠ざかるフロリアンスカ門。 

・・・大広場の観光名所のひとつ、対面を夢見ていた聖マリア聖堂(St. Mary's Basilica)に、とうとう、ごたいめ~ん! 

 

                                                                                    天気が今いち・・・今さんですが・・・

クラクフ旧市街にある大広場は約200x200mもあり、中世から残る広場としてはヨーロッパで最大です。左から、聖マリア聖堂、織物会館、旧市庁舎の塔。

広大な広場のほぼ中央に威風堂々と横たわるルネサンス様式の建物は、織物会館(Cloth Hall)。2002年には日本の天皇陛下ご夫妻が訪れられたそうです。

商取引の場として重要だったこの広場には、13世紀の始めにはすでに、何らかの交易用の建物があったと考えられています。14世紀にカジミェシュ3世の許可が下り、交易のための大きなホールが建設されました。ゴシック様式のホールは長さ108m、幅10mあって、内部には売店が2列並び、今日とほぼ同じような構造だったと考えられています。ホール内では織物に加えて蠟、スパイス、皮革、絹や岩塩などが取引されました。それゆえ織物会館は、世界で最初にできたショッピング・モールのうちのひとつと言えます。おそらく当時はこの広場は、ヨーロッパで最も賑やかな市場だったであろうとのこと。

織物会館は16世紀半ばに火事で損失を被ったため、ルネサンス様式で再建され、その後も何度か修復・改良が加えられました。19世紀からは、2階部分が美術作品の展示に使われるようになりました。2006年8月から4年以上にわたり、老朽化していた何kmにも及ぶ電線や配管の交換や、エレベーターや空調設備や自然光と人口光の導入といった改造がなされました。

現在2階は19世紀のポーランド作品を展示する美術館とカフェ、地階は中世のクラクフ生活博物館になっています。

1階は、お土産物屋さんが並ぶアーケード。

 

かわいい小物がずらり。ポーランドっぽい柄の食器もステキ

 

ここは、とくに琥珀が“売り”だそうです。私は素敵な模様が入った小箱に魅かれました。買わなかったけど。

 

大広場の西の隅には、巨大な彫刻作品が。これ、クラクフで美術を学んだアーティスト、イゴール・ミトライの作品で、2003年にクラクフ市に寄贈されたものだそうです。歴史地区の大広場にこの作品を設置することについては大きな物議を醸しましたが、いざ設置されてみると観光客や地元民の人気を博し、内部に入って目の部分から外を覗いたところを写真に撮られたり、待ち合わせ場所に使われたり。 Eros Bendato (Eros Bound) というちゃんとした作品名があるものの、気軽に“アタマ(The Head)”と呼ばれているそうです。

 

このミトライさんの作品、何と日本にもあるんですねぇ 作品名は『月の光』。意外性が面白くてスキだわ~

他の作品も面白そうだし、近くだったら行っちゃうのにな、この彫刻公園

 

≪ つづく ≫

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