土: 3.4km、28分
母にとって母の正しいは、絶対的な正しいだと思っていると、私が感じているから。
他人の話はちゃんと聞くと母自身は言うけど、聞くだけで、他人にも別の正しいがあることを理解もしないと、私が感じているから。
そして、沢山、沢山、色々なことを否定してきたセリフを私に浴びさせたから、どんなことでも否定する人だと認識してしまっているから。
これ、本当の所とどのくらい認知がずれてるのだろう…。
自分が小学校高学年の頃の話。
・班で食べるはずの給食は、離れた席で一人で食べてた
・物が無くなるのは、当たり前だった
・悪口が書かれた紙が回ってくるのも当たり前だった
・イスの背中って蹴られるものじゃないの?
・笑うと気持ち悪いと言われたから、笑えなくなった
・トイレに行くと閉じ込められるから、家まで我慢してたけど、家に入る直前で限界に来て何度か漏らした
・少し学習して、閉じ込められる時間が短くなるようにトイレは授業が始まるか始まらないかの時に行くことにした
・もしくは休み時間全部トイレから出ないことを覚悟してトイレに行くようになった
・体を殴られるのは痛いから、新聞紙で作った棒で頭を殴ることで体は勘弁してもらった
・片道20分の帰り道、いつも一人だった
・昼休み、いつも図書室に居たのは本当に本が読みたかったからなのかな?
・屋上へつながる出入口は人がいなくて気楽だった
・エプロンの柄、クラスの女子と話してたはずなのに、私だけみんなと違ってた
しんどかったなと。
なぜ、あんな目に合わなければいけなかったのかと。
1σの中に入るような子供ではなかった自覚はあるが、そこまでやられなければいけないような他害のある子供ではなかったハズ。
むしろ、卵が先か、ニワトリが先か。
いじめられて、更に万人受けする性格からは遠ざかった気がする。
今のところ、幸いなことに、娘は率先していじめる側でも、いじめられる側でもないように感じる。
まぁ、彼女が意図せず傍観している立ち位置である可能性はあるのだが、親としては苛められるぐらいならば、傍観者でいて欲しいのも事実。
(心配して親に相談してくれるような子ならば、一番良いのだが、そこまでは難しいのではないかと思う)
こんな私が育てた彼女でも、とてものびのびと生きている。
ありがたいことだ。
でも、なんだか、混乱してくる。
彼女は私ではない。
わかっている。
でも、なぜ、この歳になっても苦しくなるような苛めを、娘と同じころに私は受けなければならなかったのか。
よく言われる
「苛めた側は覚えてないし、今頃メロンソーダ飲んで笑ってるよ。囚われるのは時間がもったいない」
とのセリフ。
未だに、夫以外には苛められていたことを言えないような、傷になってる人間には、意味がないセリフだと思う。
きっと、囚われているのではなく、傷が癒えてなくて今もまだ修復中なのだ…。
娘が中学生になって、私が苛められてた時期を過ぎたら、少しは楽になるだろうか…。
ついに年明け。
寒くなってきて外を走るのは辛いので、ともかくリングフィットを頑張ろうと思う…。
金: 3.4km 28分
日: 4km 31分