名古屋の白ウサギ・・ 1964年生・自称宗教家

自称・宗教家とは・・肩書や職業ではありません。
「私の生き方」です。
職業・自営業個人事業主(電気関係)

「善い人」がどうして不幸になるのか?

2017-08-13 | 宗教


私の父親、は大腸癌で亡くなった
66歳の若さであった
あれから16年の歳月が流れた。

私の父親は13歳のとき、父親をチフスで亡くしている
それ以来、4人兄弟の長男として勉強など一切せず
ガムシャラになって働き一家を支え、
最終的には程々の財産を築いた。

父親の母親はのん気でお気楽な気質、
あまり働かない
            
父は13歳にして実質的には、
一家の大黒柱とならざるを得なかった。

そんな人生を歩んできたが故
父は物凄く金に細かく、ケチであった
幼い頃、父親に玩具など一度も買ってもらって事はない。

何か買ってと言うと物凄い形相で睨み付けられた。
父と母はいつも ‘金‘の事で喧嘩していた。

父は私の話には一切、耳を傾けず
何を言っても うるさい!!
と怒鳴った

私は、物心ついた頃から、
父親を冷たい視線で見るようになっていた。

父の ‘ ケチ ‘ な気質と
ひとりよがりな所が大キライであった。

勿論、尊敬する部分もあったが
腹の立つことの方が多かった。

いつしか、あんな人間にはなりたくない・・・・
と思うようになっていた

父を亡くして16年の歳月がながれ
私は、いま 2児の父親になっている。

今になって思う・・・・・・

私の目から観た 父親の長所、短所、は
私に科せられた課題である。

私と父親は親子と言えども別人格
私は親のコピーではない。

しかしながら、 ‘ 私 ‘ と言う人間の根底には
親から遺伝的に受け継いだ
‘ ある方向性 ‘
というものが存在する。

‘ ある方向性 ‘ とは短気だとか、
神経質だとか、真面目だとか、
と言った具体的な性質ではなく
精神や魂の根底の部分。

例えて言えば
コンピューターの
「 フォーマット 」

ハードデスクやメモリー
に文字や数字を記憶させるとき
ハードデスクやメモリーはそれを
受け入れる為の ‘下地‘ を必要とする。

もともと、ハードデスクやメモリーは
空っぽの状態であるが、
そこに、下地を覚えさせてやらないと、
データーを書き込む事はできない
その下地の事をフォーマットという。

フォーマットはデーターそのものではないが
データーを受け入れる基盤。

下地はイロイロな種類がある。

Aのフォーマットで書かれた文字やデーターは、
Aのフォーマットの媒体にしか
読み取る事が出来ない。

Aのフォーマットで作られたデーターは、
Bのフォーマットに読み取らせる事は不可能。

私の持つ人格や考え方と
父親の持つ人格や考え方は
まったく別物ではあるけど、
そのデーターが乗っかっている。

土台 (フォーマット)はまったく
同じものであると思う。

父親もフォーマットを、その両親から受け継いでいる。
血統とはそういうものではなかろうか。

昭和初期、出口仁王三郎 という宗教家がいた
このお方、幼い頃から神通力があり
神童と言われていた。

回りから 「八つ耳」
(直感力や理解力に優れた人間という意味)
と呼ばれる程であった。

後に、宗教団体を創設し、カリスマ的教祖となった。

最近知った事だが、

出口仁王三郎の孫Wさん、
ある有名進学塾の講師をしているらしい。

このお孫さん、進学塾講師の世界では、
‘ カリスマ講師 ‘ と呼ばれているらしい。

仁王三郎さんの作った宗教とは無縁で、
あくまでも講師という土俵で活躍しているのだが、
その世界で仁王三郎さんと同じように
‘ カリスマ ‘
になっている。

やはり、出口家の血統のなかには
カリスマを輩出するフォーマットがあるのだろう。

Wさんの子供もそれを受け継ぎ
また別の世界で‘カリスマ‘となるだろう・・・・

よくよく、調べてみると
この手の話はいくらでもある。

私の目に映る親の姿は、
客観的に見ているつもりでも
限りなく主観的であり客観的ではない。

実は、自分の意識を通して親を見ている

自分の意識 = 自分の根底( フォーマット )= 親の根底( フォーマット )

即ち、 私の目に映る親の姿は 
‘自分自身の本性‘ を見ているに過ぎない。

もし私が親の事を心の底から憎んだり、
怨んだりしたとするこれは、 

完全な自己破壊

親と自分は同じフォーマット、

親の性格、や気質、人格、モノの考え方を完全否定してしまう事は

自分の根源 ( フォーマット ) を否定する事になってしまう

もっと突き詰めて考えれば、

私の持つ 、親への思いは

「 私自身の心 」 なのだ。

親を見ているようで、そうでない。

実は、自分を見ている事に他ならない。

親の人格を否定したり嫌ったりしている限りは、
自分が潜在的に持つ 
  要因 ・ ( 宗教では‘因縁‘と呼ぶ)
から永久に抜け出すかとは出来ない。

即ち、自分の意識が受け取る、
親の短所、嫌いな面は自分の課題であり
真摯に受け止め、自分がそれを打破
していかなければならない宿命をもつ。

血統はいくらあがいても変え
ることの出来ない宿命。

だからと言ってそれを悲観的に考えてはいけない。

現に今、ここに自分が存在すると言う事は、
存続するに値する血統であるからである。

これは、私に限らずどんな人間にもいえる事である。

ダーウィンの進化論的に 
‘自然淘汰‘ の観点で人間に血統を検証すれば、
存続する意義のない血統はとっくの
昔に滅びていたはず。

でも、現に今ここに存在する人間に関しては
淘汰されずに先祖から血脈を受け継いでいる。

如何なる人も

今、現に、生きているだけで、だたそれだけで
素晴らしい事であると思う。

ならば、子供がいなかったり、親族すべて死に絶えた人、
そこで、血統が途絶えてしまうヒトは
存続意義がないので‘淘汰‘されという意味なのか?

それは違う。

どんな血統も、いつかリセットしなければならない時期が
必ずやって来る。

その時期に使命をもって生まれて来ただけの事なのです。

その場合、こういう人は、
血統維持の使命がない代わりに
普通の人とは違う、別の
大きな使命がある。

そういう意味で、重要な人間である。

聖徳太子は偉大なる聖者であるにも関わらず
敵対勢力の陰謀で一族全てが殺され
完全にその血統を絶たれた。

しかしながら、聖徳太子の人徳と功績は、現代の日本に
今なお大きな恩恵をもたらしている・・・・・

親との、確執を乗り越える事は、
先祖から受け継いできた課題を清算し、
新たなる飛躍を遂げる為のチャンスである。

まさしく
神が、人間に与えたチャンスと
受け止めるべきではないだろうか・・・

嫌悪で終わったら悲しい。

親を怨む事は、 「 自分を怨む事 」に他ならず。

自分で自分を怨めば、無意識のうちに自分にとって
不利な選択をする。

「 選択 」が未来の自分をを決定する。

結果、悪い運命を呼び寄せる。

これ即ち、「 自己破壊 」。

親を否定してしまったら、もう自浄作用はなくなり
自己の破滅へと向かう・・・・

不幸・不運・苦悩・挫折・不調和はこれが
原因であることが多い。

それを呪いや祈祷で打ち消すことはできない。
絶対に他力では解決できないのだ。

いくら善行をしても、それはそれ、
個人レベルでの根本的問題( 種 )を
消すことはせきない。

それ故、慈善的で、奉仕の精神を持つ「 善い人 」が
生涯、、不幸や、苦悩、不遇の連続・・・
このような不条理な現象が起きる。

このことは、長年、人間観察や分析をして来た私の結論、

親の全てを受け入れ
親に理屈ではない、無条件の感謝・・・・
これが出来ないと現状を打破すると徒はできない。

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