昨年(’07年)12月の国連総会で、死刑の執行停止の決議が多数決で可決された。日本はアメリカと共にその決議案には反対したのだが、その反対の意志を明確化する必要があると勘違いしたのか、その決議以後半年の内に13名の死刑確定囚の刑が執行された。それでもなお100名を超す死刑確定囚が居り、粛々と法の定め通りの事務処理にあたる意欲を見せているのが現法務大臣である。一部メディアに、『死に神』と指摘され激怒しておられるようだが、、、。
死刑制度は民主国家では廃止され、非民主国家では維持される傾向にある。ヨーロッパ連合で定めた欧州人権条約第3条に死刑制度は違反するとされ、欧州会議では、2001年、日本及びアメリカに、死刑囚の待遇改善および適用改善を要求する決議を可決した。その決議によると日本の死刑の密行主義と過酷な拘禁状態が指摘されたのだが、その批判に応えたつもりなのか、近々の死刑執行は、死刑囚の氏名、罪状を公にしている。
『幼子が次第次第に知恵付いて、仏に遠くなるが悲しき』の歌にあるように、生まれた時は、みな赤子であり、仏の子であり、神の子だったはずだ。育てられ方、育ち方により、聖人君子にもなれるし、極悪人にもなるのであろう。親鸞の悪人正機説などは、それだけ仏の加護なしに畜生道に落ちた不運な人間こそ、救いを与えるのが仏に仕えるものの道であると自らに戒めたのであろう。 『嘘つきは泥棒の始まり、閻魔様に舌を抜かれる』の言で、幼少時から育てられたものが、その嘘に気付いてもなおかつ、正直に生きようとする人間もいるし、己の利のために嘘を付き通す人間がいるのも現実である。住井すゑさんが、ある対談で話しておられたけど、地球人類の憲法はただ一条『嘘を付くな』で十分だとのこと。その結論に達したのが、太平洋上のある島国で、その国の憲法はただ3箇条、『盗むな、怠けるな、嘘をつくな』で済んでいる国があって、一方、日本では民主憲法といわれるものでも103条ある。103条もあってろくな政治も行われてないし、毎日のように人殺し、強盗だってある。国が小さいといえ3箇条で治まる国は素晴らしい。しかし、盗むな、怠けるなもいらない、嘘をつかず働けば、ものを盗む必要もなくなるし、人間は『嘘をつくな』の一条で全ておさまるはずだ、との結論に達したようだ。
宗教と生活が深い関わりを持つ地域では、独自の社会規範があり、欧米での宗教改革、悲惨な宗教戦争、市民革命等によって確立した、政教分離に基づく人権尊重、ヒューマニズム精神、法治主義の原則を適用しようとしても、『文明の対立』を浮き上がらせることはあっても、文明の克服までは至らないであろう。それぞれの地域、民族、宗教はそれぞれの文明を生み出したのだから、その文明の違いを克服した上に人類の文化が生まれてくるのだ。
民主主義の先進地域であり、死刑制度を廃止したヨーロッパでも、かってはおぞましい刑罰が数多く執り行われていた。異端者は見せしめの火あぶり刑に処せられたし、首切り役人の過剰役目を和らげるためにギロチンまで発明された。自白が唯一の証拠だった時代、自白を強いるための様々な拷問が古今東西を問わず執り行われた歴史を持つのも悲しい人間の性である。 来年から裁判員制度がスタートするのだが、死刑制度を存続したままで一般人を刑の決定にまで関与させるのには問題があるのではないだろうか。犯罪被害者の家族がメディアに多く登場し、その熱烈な訴えが多くの一般人の共感を呼び、一気に死刑制度の存続への理解を深めたとの判断がなされているようだが、極悪人は直ちに社会から抹殺してしまえば、同様の犯罪の防げるとでも考えているのだろうか、、、。犯罪被害者の家族にしてみれば、犯人に対しては殺しても気が済まぬ心裏があるのは当然だ。法治主義の下では『仇討ち』は否定される。国家が成立したことにより、国家の最大の役目はそこに属する国民の生活を保障し、犯罪が起きない国を作ることである。それでもなお犯罪が起きた場合には犯罪被害者に代わって、国家が犯罪者を断罪するために定めたのが近代国家では刑法、古代中国では我が国にも取り入れられた、『律』の定め、鞭・杖・徒・流・死、である。ところが国家が本来の仕事をおろそかにし、そのために犯罪を犯す人間が増えてくると、その防止に見せしめのために残虐な刑罰を公開で実施した例は歴史上無数に存在する。ある本で読んだのだが、今でも任侠として人気のある、「国定忠治」は最後は磔け獄門の処せられたのだが、江戸で処刑されたのでなく、唐丸籠で地元まで運ばれ、鑓で12回突かれ、13回目に絶命したという。その決定をした奉行所の奉行と同じ感覚を持っているのが政治家三世の現法務大臣なのだと思う。
死刑制度は民主国家では廃止され、非民主国家では維持される傾向にある。ヨーロッパ連合で定めた欧州人権条約第3条に死刑制度は違反するとされ、欧州会議では、2001年、日本及びアメリカに、死刑囚の待遇改善および適用改善を要求する決議を可決した。その決議によると日本の死刑の密行主義と過酷な拘禁状態が指摘されたのだが、その批判に応えたつもりなのか、近々の死刑執行は、死刑囚の氏名、罪状を公にしている。
『幼子が次第次第に知恵付いて、仏に遠くなるが悲しき』の歌にあるように、生まれた時は、みな赤子であり、仏の子であり、神の子だったはずだ。育てられ方、育ち方により、聖人君子にもなれるし、極悪人にもなるのであろう。親鸞の悪人正機説などは、それだけ仏の加護なしに畜生道に落ちた不運な人間こそ、救いを与えるのが仏に仕えるものの道であると自らに戒めたのであろう。 『嘘つきは泥棒の始まり、閻魔様に舌を抜かれる』の言で、幼少時から育てられたものが、その嘘に気付いてもなおかつ、正直に生きようとする人間もいるし、己の利のために嘘を付き通す人間がいるのも現実である。住井すゑさんが、ある対談で話しておられたけど、地球人類の憲法はただ一条『嘘を付くな』で十分だとのこと。その結論に達したのが、太平洋上のある島国で、その国の憲法はただ3箇条、『盗むな、怠けるな、嘘をつくな』で済んでいる国があって、一方、日本では民主憲法といわれるものでも103条ある。103条もあってろくな政治も行われてないし、毎日のように人殺し、強盗だってある。国が小さいといえ3箇条で治まる国は素晴らしい。しかし、盗むな、怠けるなもいらない、嘘をつかず働けば、ものを盗む必要もなくなるし、人間は『嘘をつくな』の一条で全ておさまるはずだ、との結論に達したようだ。
宗教と生活が深い関わりを持つ地域では、独自の社会規範があり、欧米での宗教改革、悲惨な宗教戦争、市民革命等によって確立した、政教分離に基づく人権尊重、ヒューマニズム精神、法治主義の原則を適用しようとしても、『文明の対立』を浮き上がらせることはあっても、文明の克服までは至らないであろう。それぞれの地域、民族、宗教はそれぞれの文明を生み出したのだから、その文明の違いを克服した上に人類の文化が生まれてくるのだ。
民主主義の先進地域であり、死刑制度を廃止したヨーロッパでも、かってはおぞましい刑罰が数多く執り行われていた。異端者は見せしめの火あぶり刑に処せられたし、首切り役人の過剰役目を和らげるためにギロチンまで発明された。自白が唯一の証拠だった時代、自白を強いるための様々な拷問が古今東西を問わず執り行われた歴史を持つのも悲しい人間の性である。 来年から裁判員制度がスタートするのだが、死刑制度を存続したままで一般人を刑の決定にまで関与させるのには問題があるのではないだろうか。犯罪被害者の家族がメディアに多く登場し、その熱烈な訴えが多くの一般人の共感を呼び、一気に死刑制度の存続への理解を深めたとの判断がなされているようだが、極悪人は直ちに社会から抹殺してしまえば、同様の犯罪の防げるとでも考えているのだろうか、、、。犯罪被害者の家族にしてみれば、犯人に対しては殺しても気が済まぬ心裏があるのは当然だ。法治主義の下では『仇討ち』は否定される。国家が成立したことにより、国家の最大の役目はそこに属する国民の生活を保障し、犯罪が起きない国を作ることである。それでもなお犯罪が起きた場合には犯罪被害者に代わって、国家が犯罪者を断罪するために定めたのが近代国家では刑法、古代中国では我が国にも取り入れられた、『律』の定め、鞭・杖・徒・流・死、である。ところが国家が本来の仕事をおろそかにし、そのために犯罪を犯す人間が増えてくると、その防止に見せしめのために残虐な刑罰を公開で実施した例は歴史上無数に存在する。ある本で読んだのだが、今でも任侠として人気のある、「国定忠治」は最後は磔け獄門の処せられたのだが、江戸で処刑されたのでなく、唐丸籠で地元まで運ばれ、鑓で12回突かれ、13回目に絶命したという。その決定をした奉行所の奉行と同じ感覚を持っているのが政治家三世の現法務大臣なのだと思う。