自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

死刑存続はヒューマニズムの欠如

2008年06月30日 21時53分08秒 | コラム
昨年(’07年)12月の国連総会で、死刑の執行停止の決議が多数決で可決された。日本はアメリカと共にその決議案には反対したのだが、その反対の意志を明確化する必要があると勘違いしたのか、その決議以後半年の内に13名の死刑確定囚の刑が執行された。それでもなお100名を超す死刑確定囚が居り、粛々と法の定め通りの事務処理にあたる意欲を見せているのが現法務大臣である。一部メディアに、『死に神』と指摘され激怒しておられるようだが、、、。
                                                                           死刑制度は民主国家では廃止され、非民主国家では維持される傾向にある。ヨーロッパ連合で定めた欧州人権条約第3条に死刑制度は違反するとされ、欧州会議では、2001年、日本及びアメリカに、死刑囚の待遇改善および適用改善を要求する決議を可決した。その決議によると日本の死刑の密行主義と過酷な拘禁状態が指摘されたのだが、その批判に応えたつもりなのか、近々の死刑執行は、死刑囚の氏名、罪状を公にしている。
                                                                          『幼子が次第次第に知恵付いて、仏に遠くなるが悲しき』の歌にあるように、生まれた時は、みな赤子であり、仏の子であり、神の子だったはずだ。育てられ方、育ち方により、聖人君子にもなれるし、極悪人にもなるのであろう。親鸞の悪人正機説などは、それだけ仏の加護なしに畜生道に落ちた不運な人間こそ、救いを与えるのが仏に仕えるものの道であると自らに戒めたのであろう。  『嘘つきは泥棒の始まり、閻魔様に舌を抜かれる』の言で、幼少時から育てられたものが、その嘘に気付いてもなおかつ、正直に生きようとする人間もいるし、己の利のために嘘を付き通す人間がいるのも現実である。住井すゑさんが、ある対談で話しておられたけど、地球人類の憲法はただ一条『嘘を付くな』で十分だとのこと。その結論に達したのが、太平洋上のある島国で、その国の憲法はただ3箇条、『盗むな、怠けるな、嘘をつくな』で済んでいる国があって、一方、日本では民主憲法といわれるものでも103条ある。103条もあってろくな政治も行われてないし、毎日のように人殺し、強盗だってある。国が小さいといえ3箇条で治まる国は素晴らしい。しかし、盗むな、怠けるなもいらない、嘘をつかず働けば、ものを盗む必要もなくなるし、人間は『嘘をつくな』の一条で全ておさまるはずだ、との結論に達したようだ。
                                                                           宗教と生活が深い関わりを持つ地域では、独自の社会規範があり、欧米での宗教改革、悲惨な宗教戦争、市民革命等によって確立した、政教分離に基づく人権尊重、ヒューマニズム精神、法治主義の原則を適用しようとしても、『文明の対立』を浮き上がらせることはあっても、文明の克服までは至らないであろう。それぞれの地域、民族、宗教はそれぞれの文明を生み出したのだから、その文明の違いを克服した上に人類の文化が生まれてくるのだ。
                                                                           民主主義の先進地域であり、死刑制度を廃止したヨーロッパでも、かってはおぞましい刑罰が数多く執り行われていた。異端者は見せしめの火あぶり刑に処せられたし、首切り役人の過剰役目を和らげるためにギロチンまで発明された。自白が唯一の証拠だった時代、自白を強いるための様々な拷問が古今東西を問わず執り行われた歴史を持つのも悲しい人間の性である。                                                       来年から裁判員制度がスタートするのだが、死刑制度を存続したままで一般人を刑の決定にまで関与させるのには問題があるのではないだろうか。犯罪被害者の家族がメディアに多く登場し、その熱烈な訴えが多くの一般人の共感を呼び、一気に死刑制度の存続への理解を深めたとの判断がなされているようだが、極悪人は直ちに社会から抹殺してしまえば、同様の犯罪の防げるとでも考えているのだろうか、、、。犯罪被害者の家族にしてみれば、犯人に対しては殺しても気が済まぬ心裏があるのは当然だ。法治主義の下では『仇討ち』は否定される。国家が成立したことにより、国家の最大の役目はそこに属する国民の生活を保障し、犯罪が起きない国を作ることである。それでもなお犯罪が起きた場合には犯罪被害者に代わって、国家が犯罪者を断罪するために定めたのが近代国家では刑法、古代中国では我が国にも取り入れられた、『律』の定め、鞭・杖・徒・流・死、である。ところが国家が本来の仕事をおろそかにし、そのために犯罪を犯す人間が増えてくると、その防止に見せしめのために残虐な刑罰を公開で実施した例は歴史上無数に存在する。ある本で読んだのだが、今でも任侠として人気のある、「国定忠治」は最後は磔け獄門の処せられたのだが、江戸で処刑されたのでなく、唐丸籠で地元まで運ばれ、鑓で12回突かれ、13回目に絶命したという。その決定をした奉行所の奉行と同じ感覚を持っているのが政治家三世の現法務大臣なのだと思う。

我想う、そして行動する。

2008年06月13日 11時09分54秒 | 学校・教育
 人間は考えてから行動する、そして行動して後また考える動物である。考えを縦軸に、行動を横軸にとると、交差する所が原点、第1象限から第4象限に分かれる。プラス思考が第1、第2象限であり、マイナス思考が第3、第4象限。行動面では、Activeが第1、第4象限、Passiveが第2、第3象限となる。

 よく褒めて、伸ばせと言うけど、褒めて伸ばして良いのは、第1象限にいる者である。つまり、考え方が前向きで、着実に実行しているのだから、褒め励ましてやるだけだけで良い。しかし、いい気になり出したら、諫めることが必要だ。そして限りなくのびていくために、常に原点に戻り、そこからまた地道に努力する姿勢を身につけさせるべきだと思う。第2象限にいる者は、行動力が伴わない、つまり、大きくなったら鯉になる、鯨になる、という夢を持ちながら、スイスイと己のそれまでの生活を変えないでいるのだから(多くの人間がこのタイプ)、叱責が必要だろう。時には懲罰も。叱責も懲罰もマイナス行動だが、その対象の行動がマイナスなのだから、マイナスを掛けるとプラスになるというが代数の基本である。

 『人間みな同じ、だが一人一人違う。一人一人違うけど、やはりみな同じ。』との原理が通用する社会では、教育は第1象限にいる者をさらに伸ばし、第2象限にいる者を第1象限に導くことで完結するのだが、作今の教育の難しさが取りざたされてる根本原因は、勉強が出来るのがベストの風潮である。よって勉強が出来ないと『私はダメな人間だ』とのマイナス思考を小さい時から持たせてしまう。勉強が出来るというのは、記憶力が優れていることでもあり、それはそれで素晴らしいことだ。但しその素晴らしさはベストではなく、one of them、である。

 勉強が苦手で、俺はダメと思いこまされ、活動的な者は、第4象限で突き進むことになるだろう。つまり、反社会的行動、行き着く先は犯罪行為にも手を染めるかもしれない。消極的な者は、第3象限、引きこもり、オタクはこの類となろう。

 人間は自らの意志で自分を変革していける唯一の生きものである。そのためには御破算をする勇気を持つことだ。つまり、それまでの自分の考えと行動に、ゼロを掛けて原点に戻ることが必要だ。前の言葉で付け加えなければならないのは、人間は良くも変われるし、気付かぬうちに悪くもなるということである。社会的に高い評価を受けていた人の信じられない犯罪(公金横領や破廉恥罪)は第1象限で上り詰めながら自己反省を怠ったため、良心の腐敗が進み、第4象限に落ち込んだ姿なのだろう。

 『ワイドショウ独占』との歪んだ欲望が現実のものとなってしまったが、『信じられない犯行』が起きるたびに大騒ぎしても、人間不信をまき散らしこそすれ、類似の事件は後を絶たないであろう。今回の事件の青年の生育歴で、生まれた時は原点で、名前も親の願いがこもった素晴らしい命名がなされている。親にとって、勉強が出来ると幸せな人生が送れるとの思いこみがあったのは間違いないであろう。 中学時代までは順調に第1象限で歩んでいたのだろう。名門校に入り、上には上がいるを理解した時、我慢強さ、集中力等の精神力が育っていれば、さらに勉学に力を入れただろう。おそらくそれまで勉強さえ出来ればと免責されていたため、精神力が育ってなかったので、その勉学さえ怠るようになった、つまり第2象限に移ってしまった。当然成績も低下し、それまでの誇りが喪失し、第3象限に入る。後は外部からのマイナス刺激があると、一気に第4象限の『信じられない犯行』となったのだと思う。

 類似の犯行は、およそ第1、第2、第3、第4との人の悪しき変わりようを示していると思う。しかし、死刑にしてしまえばそれでお終いだが、原点に戻り、長い時間掛けて、第1象限で生き直すことが出来るのも人間であることを忘れてはいけない。多様な価値観を認める社会の構築に向けて、政治も経済も社会も努力し続ける必要がある。

今、韓国が熱い

2008年06月11日 08時42分46秒 | ニュ-ス
 6月10日、ソウル市内を埋め尽くした70万人(警察発表では8万人)の抗議行動、発端は発足間もない李大統領が訪米で約束した、米産牛肉の輸入再開、直ちに反応したのが中高生といわれている。インターネットを介して、輸入再開反対の動きがあっという間に広がりを見せている。発足当時圧倒的支持を受けていた李政権だが、2ヶ月もしないうちにどん底状態、『盛者必滅・会者定離』を地でいく有様ですね、、、。ノムヒョン前政権もインターネットの威力で、太陽政策継続を約束して、初期には圧倒的支持があったのだが、三大新聞が米韓関係を危ぶみ批判勢力になった上、経済の停滞もあり、その末期には大幅な支持率ダウンとなり、経済立て直しのエースとして保守回帰に成功した李政権だったのだが、、、。

 やはり、多くの犠牲を払いながら、軍政を自らの力で打倒した、韓国市民の政治性の高さは見習わなくてはならない。ちなみに、6月10日は、1987年、大統領直接選挙など「民主化宣言」を引き出した国民集会の記念日に当たる。戦前は軍政に協力させられた(欲しがりません勝つまでは)この国の国民だが、自らの力でなく、アジアの民衆の抵抗、最終的にはピカドンでの軍部解体の歴史を持ち、現在に至るまで、親米昂じて、従米政権を支持し続けた自らを反省する時だ。

 韓国の小中高生の役割を、この国では後期高齢者が担っていますね。それも年金から天引きされてから気付いたくらいで、後の祭りにならないと良いのだが、、。
 沖縄県議選挙でその一端が示されたのに、メディアは、『秋葉原』事件、一辺倒ですね。山口県補選でも示された民意をどこまで無視続けるのだろうか。ジャーナリズムを担うと思うのだったら、メディアは全面社告で、即衆院解散を提言すべきだと思う。

時の記念日に寄せて

2008年06月10日 14時51分33秒 | コラム
 7世紀後半、我が国最初の水時計が作られ時を告げたとの故事にちなみ、太陽暦になおした6月10日を時の記念日に定めたのが、1920年のことだが、この梅雨の時期、軒端から定期的に落ちる水滴を眺めながら時間についてゆっくり考えてみたい。

 時間には、人類誕生以前、地球、太陽系、宇宙誕生以前、一定の割合で過ぎ去っていく物理的時間があり、地球上では、人間が考えた、地球が太陽の周りを一周する時間を一年、地球の自転を一日、さらに一日を24等分した1時間、1時間を60等分した分、さらに秒、速さを競うには、100分の1秒まで必要としたのか、人間は考え出した。

 時の大切さは、ギリシャ時代、時は高い出費であるとの格言を生み、フランクリンによって、『Time is money.』となったのだが、本来は、moneyでなくgoldにすべきだったのかもしれない。この世に、全知全能、造物主としての神が存在するとしたら、それは時間のことであろう。時間の下では全ての生きものは絶対的に平等であるし、その支配から逃れることは出来ない。

 時間と金は似た要素を持っているし、人間に大きな影響を与えている。時間も金もなくては困る、少なすぎても困るし、ありすぎるともっと困った問題を人間にもたらす。ブッダは『有り余る財は身を滅ぼす。』と教えているし、孔子は『小人閑居して不善を為す。』と諭している。今欲しいものを我慢することは、お金の積み立て、知らず知らずに大きくなって将来の大きな買い物が出来る。今のやりたいことを我慢するのは、時間の積み立て、将来の大きな夢を実現させるための人間としての真の実力に繋がる。似ているのはここまで、時間に人間が絶対的に支配されるが、金に人間が支配されるようでは困る。しかし、今の世は金が全て、金に支配される人間が多いのも残念ながら事実である。昔から守銭奴とはよくいったもので、金儲けの道に外れた人を指す言葉だが、投機資本主義には、法の制裁を加える必要が生じたようだ。 

道路交通法は何のために

2008年06月04日 12時18分13秒 | コラム
 道交法改正(?)で、6月から後部座席のシートベルト着用が義務化された。交通事故で不幸な目に遭う例は少なくないし、万が一起きた事故の死亡率が着用、不着用で大きな違いがあるとしても、法律で着用を義務づけるには問題があると思う。法律で定めてしまうと、交通警察の取り締まりの対象となるし、どのような取締方をするのであろうか。法の下の平等は維持されないであろう。

 メイカーが万が一の事故に対する安全性を考慮して、シートベルト、エアーバックシステムを取り入れるのは当然だが、その安全システムを利用するかしないかははやりの自己責任の問題だと思う。法律で定めても許されるのは、その安全システムを利用しないでで死亡事故を起こした場合、保険金の支払いを減額できるぐらいの定めであろう。

 私自身、最初に車を運転した時、歩行者や自転車通行者がすごくじゃまに感じたのを記憶している。そして車というものの危険性、非人間性に気を付けてきた。クラックションを鳴らし注意を促すことは一切すまいと決めた。狭い道で大きく迂回できない時は、静かに近づき、歩行者や自転車が気付きよけてくれるのを待って、会釈して通り抜けることにしてきた。50年自動車に乗って無事故であるが無違反ではない。摘発されたのは、スピード違反で一回、シートベルト着用違反で2回、それ故に、ゴールド免許とは無縁である。自己申告すれば、スピード違反は車に乗るたびにやっていると思う。常に法定速度を守って運転している人は皆無だと思う、ちなみにある運送会社の車の後ろを走ったことがあるが、法定速度で走っていますとの表示をしているが、実際に20キロ近くオーバーして走っていた。シートベルトに関しては、高速道路では万が一を考え着用してきた。摘発された2回の内1回目は、高速に入る側道で着用しようとしてた直前であり、もう一度は、一般道で、電信柱の後ろに隠れていた警察官から通報され、200mぐらい先で止められて違反切符を切られた。

 思うに、交通警察の取り締まりには多くの人が疑問を持ち不満を持っているのではないだろうか。それ故に、刑事警察に対する市民の協力体制に齟齬を来たし、初動捜査がうまくいかず、事件解決を長引かせたり、迷宮入りになってしまう一因になってはないかとの危惧の念を抱いている。法の下の平等を確保できない法を作っては、市民の遵法意識を損なうことになりこそすれ、小悪を捕らえ巨悪を見逃す現実を是正することは出来ないであろう。

 道交法ですぐにでも定めて貰いたい決まりは、車の合流地点でスムーズに流れるために、一台ずつ交互に合流し合う決まり、さらに同じく、右折帯のない道路で、右折の車があった場合、対向車は、速やかに右折車を優先して通行させる義務を負わせる。こんな決まりだったら、運転者は喜んで守るし、混雑緩和、イライラ防止にもなるし、結果的に交通事故も大幅に減少すると思う。

夫れ兵は不祥の器なり。

2008年06月01日 11時04分45秒 | コラム
 鉄器が用いられるようになり、急速に生産性が高まり、人類にとって幸運をもたらす文明と考えられた時に、文明を否定し人類に81章の警告を残し、何処かへ消え去ったといわれている老子の言が、タイトルの言葉である。30章、31章で、戦争について老子は所見を述べているのだが、ブッシュ大統領が発動したイラク戦争の愚を、2500年も前に警告している。

 人殺し以外の何物でもない不祥の兵器、クラスター爆弾の全面禁止の合意がダブリン会議でなされ、日本も合意、海岸線の長い日本の防衛のために必要だと強弁し保持していた自衛隊も、100億以上の金をかけてこれから破棄することになったようだ。アメリカ・ロシア・中国はこの会議にすら参加してないのだが、老子の教えに従えば、クラスター爆弾のみならず、核兵器の全面禁止に向けて人類は歩む必要がある。

 その先頭を切って、人類に貢献できるのは、憲法第9条を持つ日本である。陸海空軍、その他の戦力の不保持を決めたのだから、君子の国になれるはずだったのだが、、、。国際情勢(冷戦)がそれを許さなかったのだが、その冷戦を発動したのが、戦争経済から脱却出来ず、産軍共同体をバックとするアメリカの保守勢力であって、その勢力の対日工作が、秘密文書の公開によって近々明らかになってきている。砂川事件での明快な憲法判断が、最高裁で覆された裏には、駐日大使の露骨な内政干渉があった。またポツダム宣言違反の、独立後の米軍並びにその基地の存在を認めた、旧安保条約の締結は、吉田氏一人が調印し、他の代表はその内容を知らなかったことも分かってきた。

 日本国憲法第9条を世界拳法にという市民運動が少しずつ浸透してきてるが、不祥の器をこの地上からなくし、人類の課題である戦争のない地球に向かう千里の道の第一歩であろう。