クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

第七回箕輪城まつり(2)(改) H-21-10-25

2009-10-26 12:51:15 | 伝説・史跡探訪
会場準備の出来た本丸跡で周りの出店などを見ながら到着を待つ。
これらの出店はフリーマーケット方式で軽トラ一台分で2千円らしい。
やがて二の丸方面から行列がやや疲れ気味の表情で続々と到着して
御前曲輪に入って休憩と昼食らしい。生憎と霧雨模様。



メイン会場ではアトラクションが始まっている。司令塔はここ。



箕輪太鼓・子供チームに続いて市役所チーム。



生原(オイバラ)北野神社獅子舞保存会



だんべえ踊りはmisatoだんべえ会の皆さん



鉢形城三鱗会による「居合」の演技。真剣による迫力に観衆がどよめく。



さっき見たより遥かに大型の模擬大砲が三台配置されている。恐らく
攻防戦の時に派手に効果音の役目をするのだろう。



模擬攻防戦は14.00頃からと言うので時間潰しに出場者の待機する
御前曲輪で見物。先ほど、目を付けて置いた甲冑愛好会を訪問。
信長をイメージしたというのがこの方。



「加藤です。加藤駿河守の末裔です」と名乗ったのが、この貫禄の
御仁。



加藤氏といえば源頼義時代からの名跡と考えられ、甲斐源氏に
属して子孫は繋がり戦国になってから信玄の旗本奉行・上野原城主として
駿河守虎景が著名。さらに面白いのはその息子が初鹿野家を継ぎ
これまた、史上に名高い「初鹿野伝右衛門」の二代目となっている事だ。
初代の伝右衛門は1548年の村上義清との上田原の激戦で板垣信方・
甘利虎泰と共に討ち死にしている。
彼は勝頼の最後まで武田に仕えたが、武田滅亡の後は家康に出仕し
小田原攻めや大阪の陣などでは使番を務め、1624年に81才で没。
詳しくは此方をどうぞ



この上の写真の方、支度も相当な懲り方。

その後、開会式で戦士たちが集結。



だが、ウンザリするほどの人数の挨拶を聞かされ、寒い霧雨の中で
待つ戦士は可哀相、観衆もドッ白け。
漸く鎮魂祭が始まるが、戦士たちが間に居るので観衆は全く見えない
という不手際。爺イは反対の演台側に移動。



二時になつて着到式。長野業盛役の若者が、つっかえながら着到文を
読み上げる。かって北条に奪われた上泉・大胡城の奪還攻撃の開始だ。



壇上で業正役の会長さん(多分)が北条への攻撃命令を下す。



伝令が走り敵が迫ってくると報告。



壇上では少し遠慮がちに刀を抜いてエイエイオー、あまり揃わないので
お姫様は下を向いて何か笑いをかみ殺している。



戦闘を避けて姫たちは本部に撤収。右から「正子姫」、真中が「業正室」、
左が伝説の主・「業盛室 藤鶴姫」。



箕輪城攻防戦で武田と戦うのかと思ったら、何と相手は北条氏康・氏邦
らしい。すると舞台は1561年の謙信率いる越後勢と関東の反北条連合の
小田原攻めの前哨戦か?だとすると、この時既に病の業正はこんな元気は
無かった筈だが、お祭りのための物語だから良しとするかな。
いよいよ、模擬合戦の開始。赤が長野部隊で先ず一回戦。
中には熱くなって本気で槍で殴ったり突いたりして転倒者続出。だが
観衆は大興奮で「やっちまえ」と乱暴な声援も飛ぶ。
よく見ると集団の中にディレクターがいて引けとか攻めろとか懸命の
演出。



一旦、両軍が引くと長野勢代表の藤井豊後守と北条代表増田丹波介の
一騎打ち。藤井豊後といえば勝頼の箕輪攻めのとき、血気にはやって
突出した勝頼を組み伏せて、あわや首級をとろうとした豪傑。



再び乱戦開始、双方とも慣れたのか、動きも少々荒っぽくなる。



少年たちも後方で銃を撃ちまくつて大奮戦。



乱戦が引くと再び一騎打ち。今度は長野代表・上泉伊勢守、対するは
猪俣能登守。だが、一寸待てよ。1508年生まれの伊勢守と1549生まれの
能登守? これが1561年の絵巻なら能登守は未だ12才だよ。
まあ、お祭りだからな。能登守は1589年に北条としての沼田城代のとき
真田の名胡桃城にチョッカイを出した。所が私戦を禁じた秀吉の
「関東総無事令」に反するとして、1590年の小田原攻めの口実になつた。
尤も、再三の上洛命令に従う事を拒んでいた北条は何れ何かの言いがかりで
殲滅されたであろうが。



三度目の乱戦では長野側が押し捲り、



勝どきを上げて目出度く終了。



そして閉会式。



気が付いたら霧雨は上がったが気温が急速に低下、急いで帰宅。

(猪俣能登守関連の詳細)
本能寺の変が起き、織田信長が倒れると、北条氏が神流川の戦いで滝川一益を
破り、伊勢に追い払う。
 上野は北条氏の勢力下に置かれる。ところが沼田城はちゃっかり真田昌幸が
どさくさに紛れて再占拠し、叔父の矢沢薩摩守頼綱を城代として置く。
 北条氏と徳川家康との密約では甲信は徳川、上野は北条という取り決めにして
いたため、家康は昌幸に沼田の引き渡しを迫る。
 当然、昌幸はこれを拒否、ここで遂に家康は武力行使に出、天正13年(1585)
真田氏を攻撃する。
これが第1次上田合戦であるが、結果は徳川の惨敗に終わり、真田の名を高める
結果となる。
 その間に北条氏も何度か直接沼田城を攻撃する。しかし、矢沢頼綱により撃退
され、秀吉が仲裁し、徳川領から信州伊那郡を替地として真田氏に、そして
真田氏は沼田領の2/3にあたる利根川の東を北条氏に渡すことになった。
 こうして、天正17年(1589)7月沼田城は正式に北条氏の所有となった。
 しかし、この仲介案ではなぜか名胡桃城だけが、真田領として残される。
 これは北条氏を罠にかけるための秀吉と昌幸の撒いたえさであったといわれる。
 案の定、沼田城代猪俣能登守はこの毒餌に食いついてしまう。
 名胡桃城代の鈴木主水重則を、猪俣能登守は謀略で岩櫃城に出かけさせ、その隙
 に名胡桃城を占拠する。
 餌に食いついた情報は昌幸から秀吉に知され、秀吉は天正18年(1590)北条氏を
 攻撃し小田原を陥落させた。
 猪俣も謀略を使ったが、秀吉の謀略はその比ではなかったということであろう。
 北条氏滅亡後、関東の大半は徳川氏の領土となったが、沼田城は真田氏の下に
 返還される。大笑いしたのは真田昌幸のみ。



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