これは村山聖が私の所に来たときにみせてもらって、それからそのままま預かった「詰将棋ノート」である。返すの忘れたままになっていたのだが、多分私にみせて気恥ずかしくなって?お互いに忘れてしまっていたのだろう。亡くなったときにご両親に返そうとも思ったが、大事に持っておこうと決めさせてもらった・・
そのときも内容よりも、字の力強さと将棋への熱っぽさを感じた。私が村山聖を好きなのは、将棋が強くなったことでなくて、将棋を強くなろうとした生きる熱みたいなものに共鳴したことのように思う。それが自分にはないものだったと、漠然と感じていたのかもしれない。
今もグチや泣き言をいっぱい言いたくなるが、そういうものをはるか遠くに投げ捨てて、純なものを追いかける気持ちを持ちたい・・
そういう心にさせてくれるものが、このノートにはあるのだろう。
そのときも内容よりも、字の力強さと将棋への熱っぽさを感じた。私が村山聖を好きなのは、将棋が強くなったことでなくて、将棋を強くなろうとした生きる熱みたいなものに共鳴したことのように思う。それが自分にはないものだったと、漠然と感じていたのかもしれない。
今もグチや泣き言をいっぱい言いたくなるが、そういうものをはるか遠くに投げ捨てて、純なものを追いかける気持ちを持ちたい・・
そういう心にさせてくれるものが、このノートにはあるのだろう。
生きた姿が、いまだに森先生をはじめと
する棋士の皆さんの記憶に、鮮烈に焼き
付いている理由がまたひとつ、感じられ
た気が致します。
人物画を見るとき、その人物が見つめているものを思います。
このノートを見て、村山さんが何を見つめていたのか想像します。
懐かしさと切実さですね。