2012年7月23日
全体像は、あらすじ 【 朝顔 】 - 事実は映画よりも奇なり
2010年01月10日
【十夜 夢想】 から
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時なるかなと最期に笑って姉妹に会いに逝けるのは私か、それとも。。
1987年・春・・・・・・戦争終結。
7月・・・・・十三回忌まで御山に棲む決心を固めた。
8月・・・・・所轄署のK刑事が市内のI内科院長に護衛を依頼されたらしく、連れ立って所有される別荘地の様子見で阿蘇に来る。この時に初めてK刑事と顔を合わせた。
9月19日から23日・・・・・
秋・・・・・・師範殺しの院長の謀略に係り、「最新記事の中から【混浴露天風呂に良い人、悪い人・真の姿5/5】の恨み」を受け継いだK刑事どころか、東京の組織から阿蘇の連中から自治会内での内通者となるM氏から誰から誰までの地球上に棲息する欲望という人間の言動が連携を保って私に向かってくるようになる。
1988年2月・・・・・・最初の別荘となるN歯科医の別荘の棟上げ。
・・・・・・・・〇〇〇抗争となる双方の組織の初顔合わせ。
・・・・・・・・ペンション経営者、死す。
3月26日・・村民であり小学校校長でもあるE氏夫妻にとって終身年金となる管理費という私利私欲の思惑で自治会の結成に動き出すと共に、私を村八分にするべく教え子から村内総出となる。
4月24日・・E氏の旗揚げで自治会結成。
5月12日・・自治会総会。
6月末・・・・・H氏の別荘が二件目として完成。
秋・・・・・・・・私は山小屋の工事を再開する。
1989年・春にかけ・・・(秋となり、今こうして生きている私自身が不思議。巻き込まれた〇〇戦争どころの危うさではなかった。この時期を振り返れば・・・・・)
5月上旬・・・内通者に成り果てていたM氏の丸太小屋の工事が始まる。抗争への道をまっしぐらに走り出す。決定的となった。
5月15日・・23日にかけて、東京の組織の九州における関係者と言うべきか取り巻き連が近隣の土地を別荘地とした売り出しに動き始める。
夏・・・・・「連絡してくれ」との電報を◯◯総裁より受け取る。「なぜ東京の組織が手を出してくるのか?」という疑問を質したかったのでしょうが、この方の名前すら記憶を失っていた私です。この◯◯総裁、東京の組織の幹部のT氏に関係者、太鼓持ちの連中、所轄署のK刑事、自治会の内通者となるM氏に会員のアホなオバサンたち。それぞれは自分の不利益となる断片しか知らない。ひとつにまとめられるのは私に振りかかった一件一件の物欲で映画した事実であり、とどのつまり脚本家な院長に行き着く経緯の一切合財となる。
日本の雄と東京の雄、双方の組織とも訳分からないまま、経緯の道程は雌雄を決すべき抗争に突入していく・・・・・、
1990年1月に2月15日から・・八王子抗争勃発。
4月・・・・・・終わったとたん、自治会長のE氏が自宅の建設工事に取り掛かる。信じらんない卑らしさ。
5月12日・・東京の組織のT氏が手打ちで阿蘇に来られる。このT氏を陥れる結果を招いたTさんを探しておられた。私の忠告をT氏が聞き入れてくれなかった最大の要因が、院長の影響下にあった、このTさんの存在でした。二人だけでなくU氏も加えた東京の三人は幼馴染だった。
6月14日・・T氏を焚き付けていて行方不明だったTさんが宝珠山に現われる。生きていた・・・
9月15日・・私は下界に下る。
九州という地域社会は守り抜けた満足感はあるが、東京都民から被害者の方々には何んと言ったら良いのか、複雑です。一人にされても命を賭けて戦わざるを得ない世界に年月での限界を、熊本における著名人という名の内通者どころか警察まで自治会の名を借りた組織の支配下に成り果てた現実で痛感しました。申し訳ありません。力不足でした。
確かに「旬な話題で投稿」ではありません。昔の話です。
でもこれを計算づくの逃げ得は許されないし、放置し続けた関係機関なんです。
時効も停止しています。
こんななか、やれるだけの事はやった記録だけでも日の目を見せたい良かれ悪しかれ「暴力団対策法」成立前夜の歴史上の事実だと私は思います。
歳月に埋めた生き様、世間に負けた死に様は娘に見せられない。