2010年01月08日
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医院の代替わりからアメリカへの移住まで、たった数ヶ月でやらかしてしまった。
なぜ移住できたんだ。グリーンカード(アメリカ永住権)は?
死ぬ瞬間に勝ち組やら勝者で逝けるのは私か、それとも・・・・・
1993年2月11日・・・・・姉妹の後見人に「師範の本を書いております」とだけ、お知らせする葉書を投函している。
3月9日・・・・・・阿蘇の所轄署に院長の圧力が掛かったのを確認した。担当する若い刑事さんに苦悩の色が滲み出ている。二人一組で捜査するので、もう一人の刑事さんが何か言い含めている。上意下達の哀しい歌だ。
6月11日・・・・自治会による刑事告訴を受理され、書類送検された。それも、罪状は私が地域社会を守り抜くべく〝自治会との約束事を履行した件〟で。
7月2日・・・・・この自治会から今度は民事訴訟を起こされる。訴状には〝東京の組織を◯◯◯抗争に追い落とした張本人の名まで自治会員として記されていた〟。自治会まるごと東京の組織に組み込まれてしまったのは既得権益の渦と欲望に付け込まれた院長に因る罠、小市民の性。
8月20日・・・・私利私欲に走りすぎた自治会長E氏個人の事を焦った失敗で、またしても一方的に民事告訴を取り下げてきた。一人相撲を取っている。
11月15日・・・書類送検されての呼び出し状が届いた熊本地検宮路支部に「警察の脅しでしょ」と電話を入れた。
24日・・・立野駐在所に譲っていた書類の閲覧にて、一周忌に阿蘇の地を購入した理由の記憶だけ断片的に取り戻す。
25日・・・地検宮路支部で検察官から取調べを受ける。が、隣室で盗み聞く奴が居る。こいつは盗み聞きに気付いた私の前に現れた。そして、とんでもない失敗をやらかす。〝院長の関与〟を〝師範を持ち出した質問の内容〟と言葉尻で本人自ら認めてしまったんだ。この手合いは下手に出ると何処までも木に登ってくれます。で、落ちる羽目になる。加えて、〇〇〇抗争の勃発さえも知らなかった。組織の手先に成り果てた警察の末路です。
12月27日・・・・地検支部は大掃除の最中でした。この中における質疑応答、完全なる不問に終わってから私は〝師範殺し及び勃発した抗争の真の牽引車たる院長〟を、まず〝東京の組織に組み込まれた自治会〟から逆に告訴しようとしたのですが、〝私は告訴されたのではない〟と検察官は嘘を言われ、私の告訴を受理してくれなかった。そもそも告訴したのは私が〝詫び〟を自治会やら院長に入れて〝告訴の取り下げ〟を哀願してくる、と踏んでの恐喝行為だったんです。そこで〝何かしらの条件〟を出す腹だったんだ。私が平気だった時点で〝告訴した意味も何も〟水泡に帰していた負け組だ。
1994年6月28日・・・・・・姉妹の後見人と私の代理人弁護士に説明として半年で急いで書き上げた560枚の原稿用紙を郵送する。
8月25日・・・・・
1995年1月末・・・・・・・・まず所轄署が〝逃げ〟に走った。電話してきた刑事の慇懃無礼な口の利き方は脅しに他ならぬ。
3月15日・・・・・姉妹の医院に手紙を出す。
4月14日・・・・・警察官ばりの男が電話で〝姉の死、医院の代替わり、長女どころか院長までのアメリカ移住〟を私に教えた上で、「だから、もう関係ない」と言ってきた。
16日・・・・東京の組織に属する人を除いた阿蘇の自治会員全員に手紙で説明する。
7月12日から・・・
8月・・・・・・・・・熊本県警と地検宮地に6枚の説明文を送る。
1998年3月・・・・・・・・・・三年半を費やし改稿の444枚から部分的に抜き出しての郵送で〝攻め〟に転じる。
8月24日・・・・・新たに依頼したいと考える弁護士に接触する私でしたが・・・・・。
9月・・・・・・・・・銀座七丁目の画廊に〝帳簿〟の間違いから精算を指摘する手紙を郵送する。
1999年5月・・・・・・・・・・佐賀県警の狂犬病に警告する。
6月28日・・・・・新たに依頼したい弁護士へと相談に出向くも・・・