現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「井上丘隈」について

2014-11-21 19:00:46 | わが家のこと

②11/13 コメント蘭に T様から寄せられた質問

 戊辰戦争に興味を持っているものです。日本テレビの『白虎隊』で、

 井上丘隅が、娘の神保雪子を嫁ぎ先の神保家に行くように伝えるなど

 かなり具体的な話が出てきますが、これはどこから出てきた話なのでしょうか?

 

日本テレビの『白虎隊』は、森繁久弥が「井上丘隅」を演じ、涙涙でしたね。

森繁の演技力、存在力は圧巻でした。

このドラマを見るまで、私も「井上丘隅」については知りませんでした。

城下の絵地図を見ると、井上家は、わが先祖「牧原一郎」の隣人でした。

ドラマでは、甲賀口で幼少年を連れて戦い、その後も生き残り、戦後、

斗南(下北)へ移住するところで終わりました。

「井上丘隅」の娘が、神保修理の妻ということも、ドラマを見て知りました。

 

私が「知らなかった」というのは、会津戦争の一等史料ともいうべき、下記

著書には 載っていないからです。

1 明治37年 北原雅長 『七年史』

2 大正 6年 平石弁蔵 『会津戊辰戦争・白虎隊・娘子軍・高齢者之健闘』

2 昭和 3年 池内儀八 『会津史』 上下

3 昭和 8年 会津戊辰戦史編纂会 『会津戊辰戦史』

上記いずれの本にも、「牧原一郎が甲賀口郭門横の自邸で自決した話」や、

甲賀口の門番「佐藤與左衛門(74歳)とその孫 勝之助」の応戦戦死」の話は

載っていますが、「井上丘隅」についてはありません。

平石弁蔵 『会津戊辰戦争・白虎隊・娘子軍・高齢者之健闘』の306ページに

23日の戦死者34名が列記されており、その中に「井上八十郎(二百石)」と

あります。「井上八十郎」は「丘隅」の息子でしようか。他の史料では「朱雀士中

三番 原田隊。若松下町西堀端で戦死。享年28歳」となっています。

 
さて私の蔵書の中で、昭和52年発行の小冊子『会津墓殉難婦人名鑑』に
下記の記述がありました。
 
「井上丘隅は、8月23日、甲賀町口郭門に 衆を励まして防戦したが利あらず。
郭門の傍らの自邸に入ると、妻 トメ子(52歳)、長女 チカ子(31歳)、三女
雪子(神保修理の妻)が自刃の用意をしていた。丘隅は雪子を神保家に帰らせ、
妻と長女を介錯して自刃した。この時、白木又エ衛の長女 サダ子(45歳)も
この家にいたので自刃した」(「七年史」)
 
出典は『七年史』となっていますが、その『七年史』には書かれていません。
念のため、Wikipediaで調べましたら、判りました。出典は
 
『会津会会報第11号』「会津藩殉節婦人の事蹟」です。これは東京在住の
会津出身者の会で、毎年発行されているもので、「1917(大正6)年」刊です。
当事、まだ生存者からの口述を筆記したものと思われます。
 
今では入手不能と思われますが会津の図書館にはあるでしょう。
『白虎隊』の作家がそこまで調べていたとは驚きです。
 
 


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2 コメント

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Unknown (田中直樹)
2014-11-24 21:52:26
虚無僧様
白虎隊のドラマがyoutubeで上がっていて、何度も見ています。
今回は蔵書まで確認してくださってありがとうございました。
当時戦闘に参加していた藩士の目撃談などがあったのですね。そして、それが証言として書物になったということでしょうか。
WEBで神保雪子の件について検索すると七年史からの出典と書かれたものが出てくることがあるのですが、本来は違う出典だということに驚きました。原典に当たってみることが大事であると感じました。以前、白河の楽蔵にある戊辰戦争の展示をしている店で、平石弁蔵 『会津戊辰戦争・白虎隊・娘子軍・高齢者之健闘』の何版かを見たことがあったのですが、その内容の厚さに驚きました。来月また出張で行く機会があり、仕事をさぼって(?)またそちらへ出かけてみたいと思います。
白河の図書館で・・・ (田中直樹)
2014-12-13 09:22:45
先日、白河の図書館に行くことができました

戊辰戦争や福島県の歴史のコーナーがあり、
一級資料もいろいろおいてありました。
時間を忘れ2~3時間はいたかもしれません。

戊辰戦後の若松は桑畑になっていたんですね。
ライブカメラをみると今は雪景色です。

その中で、補修 会津白虎隊十九士傳(宗川虎次著、山川健次郎補修)のマツノ書店の復刻版を見たところ、「殉節婦人の事蹟」という章によると、井上丘隅・神保雪子のことで興味深い記述を発見しました。
白虎隊のドラマでも描かれている井上丘隅が神保雪子に実家に帰るようにといった場面は、戦後生存した井上丘隅の家臣が目撃していて、それを丘隅の男(子息?)金吾(後 東吾一)に話をしたから詳細にその状況が判ったとの記載がありました。(図書館でコピーをとってきました)
なお、上記の金吾あるいは東吾一という人名を検索すると、会津遊撃隊・、照姫のお付、斗南藩の住人の一覧として見受けることができますが、それ以上のことは判りません。

また、機会がありましたら調査に行きたいです。

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