一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

大学教員からみた学生の就職活動

2008-02-22 | よしなしごと

そろそろ2009年度の新入社員の就職活動が本格化しているようです。

昨日の朝日新聞の「私の視点」というコラムに加藤恵津子国際基督教大学準教授が「早期採用活動 学生に熟成のための時間を」という文章を書いていました。

多くの大学生は一年次に学問の基礎を身につけ、二年次に志望専攻の入門科目を取り、三年次から専攻の中・上級科目を修めつつ、卒業研究のテーマを絞っていく。

だが早まる一方・・・の採用活動は、すべての学生を浮き足立たせ、残りの大学生活を真剣に送ろうという気力をそいでいないか。

企業には学生が「優秀な人間になる」時間を与えてほしい。

私も採用の面接官をすることがあるのですが、大学3年生(または4年になったばかり)だと、卒業論文のテーマも決まっておらず、「大学で何をやったの」と聞いても、サークルの幹事だとかなんとかいう話しかかえってこないことがよくあります。

それでも10人に1人くらいは「明らかに優秀」という学生がいるのですが、人事部からは一定数上げてくれ、と言われると、残りのドングリの背比べ(学生の能力というよりは面接官の眼力からはそう見える)の中から何人か「ままよ!」と選ぶことになります(私は天邪鬼なので、そういうときには妙にそつなくこなす「いかにも○○大学」というような学生は意図的に落とすようにしているのですが・・・)。

それはさておき、上のような問題意識は大学教員にはある程度共通しているようです。


先日某国立大学法人の工学部の教員をしている友人も同じようなことを言っていました。

学生は上のコラムのように段階的な学習・成長をするのでなく、(少なくとも彼の学科においては)卒業論文を書くことによって一気に成長するそうです。
それまでは座学で知識を受け取るだけ(なおかつ1年生は(工学部なのに受験科目として選択しなくてもよくなっている)高校の物理を教えている、というレベルだそうです)だった学生が、はじめて自分の頭で一から考える機会が卒業論文です。
テーマの絞込み、仮説の検証には指導教官だけでなく先輩や同級生との議論も大事ですし、スパコンとか実験設備という限られたリソースを融通しあうことも学びます。
卒業論文を作ることで、初めて「自ら学ぶ」ことの難しさと楽しさを経験として身につけることになるといいます。

ところが今では3年次から就職活動を始め、4年次の最初には就職が決まってしまうと、卒業論文にも身が入らず、結局それは企業においても必要な資質が磨かれる機会を失ってしまうことなのではないだろうか、というのが友人の危惧です。
そして、将来研究者になってほしい人材も、早い時期に就職が内定するとそちらに流れてしまいがちで、学界的にも損失です。


友人は、学生の能力は卒業論文を読んで、指導教官にインタビューすればほぼ正確に把握できるといいます。
指導教官も自分の学生の就職には協力したいが、長期的な評判を考えると学生を過大評価し続けるわけにもいかないのでウソをつくということもさほど考える必要はありません。

逆に3年生だと能力的にはそんなに違いがないので、専門性よりは基礎的能力・人間力が問われるわけだろうが、それを見定める企業の眼力もどうかと思う。
何年か前、研究室の教官から見ると「困ったちゃん」が就職できて優秀な奴が機希望の企業に内定が取れないということがあり、けっこう落ち込んでいた。
ある日、内定先の人事部の人が指導教官である友人に挨拶に来ることになった。
しかしそれを指導教官たる友人に言っておらず、友人は学会で出張だったためその企業を空振りさせてしまったことがある。そして何より本人が内定先の人事部長に無駄足を踏ませてもへらへらしている。
如才ない学生なので企業も騙されたのだろうが、採用してしまったなと思っているだろうな・・・

友人の提言ももっともなのですが、卒論の仕上げの時期と就職活動が重なるのも大変だと思います。
そうなると、大学はきっちり勉強して卒業させ、卒業後に就職活動、と言うことになりますが、そのためには卒業後1年間兵役なり(宮崎県知事の苦し紛れの)徴農制なり社会奉仕なりを義務付ける、というのもいいかもしれません。

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