毎日新聞のアフリカ特派員として95年から2001年までヨハネスブルグに駐在していた著者のエッセイ。
取材や生活を通じて知り合った人々と、それに向き合う著者の心の動きを素直な筆致で描いている。
「貧しいアフリカを援助しよう」という考え
アフリカといえば貧困、後進性、民族紛争、搾取、混乱であり、同情し、援助すべき対象として語られがち。
しかし私たちはそこに住む人々は自らのことをどう考えてに暮らしているのかについて知る機会はほとんどない。また、援助だけではとてもすべてを助けられないほどの絶望的な貧しさや混乱に対してどのように向き合っていくのか、ということについて、真剣に考える機会も少ない。
表題になったエッセイは、70年前の少年時代に英国人が撮った自分の写真が絵葉書になっていたことを知り、それを今も大切に持っている老人の話。
老人は言う。
「あの英国人も、これまで見た外国人も、それにあなたも、この国にやってきて、ほんのわずかの時間ですべてを見てしまう。・・・私たちが一生かけても見ないものを。・・・たいしたものだと思いますよ」
「でも、私たちにはそれができない。どうしてだと思います?」
「貧しさ、そう、思いますか。そうかもしれませんね。でも私はそうは思いません。仮に我々に、お金と暇があったら、どうするでしょうか。あなたの国に行ったり、欧州をくまなく歩いたりするでしょうか。そんなことしないと思いますね。多分その山の向こうにさえ滅多に行くことはないでしょう。・・・あの山の向こうのことを知りたいとも思いますが、それより家族や友人たちとうまいものを食べ、話をしているほうがよほどいい。気質でしょうかね」
「"inquisitive"(知りたがり、好奇心が強い)という言葉をご存知ですか。欧州人や日本人はそれでしょう。でも、我々は違う」
「で、あなたはどう思います。インクィジティブなのとそうでないのと、どちらが良いんでしょうか」
「そう、これは難しい問題です。好奇心旺盛であちこち見て回れば物の見方も豊かになり、お金も儲かるかもしれませんが旅行をするにはお金がいる。でも、そうでなければ、お金など大して使わずに暮らしていける。私が子供のころは、お金なんて、ないも同然でしたから」
また、筆者は「貧困」を目の当たりにしておきる「助けなきゃ」という条件反射的な情動、「"予定調和的"ともいえる流れ作業」についてこう書く。
ぼんやりとアフリカの貧民街を眺め、望遠レンズで貧しげな子供の絵を切り抜いているとき、「何とかしなくては」という思いは涌きやすい。しかし、目をこらしてそこに暮らす一人一人の生活をのぞき、その中に降り立ってみたとき、空気がすっと変わり頭の中の霧が晴れる。そしてそこで数日間も暮らしてみれば、次第に自分の周囲がごく普通のものに見え始める。そして「何とかしなくては」という切迫感はいつの間にか消える。
つまり、対象についての知識がないほど、「助けなくては」というメッセージは響きやすい。そして、それを伝えられたものは上野の横断歩道にいた小学生の私のように、条件反射的にポケットに手が行く。
漠然と無数の人々への援助を考えるよりも、救うべき相手をまず知ることから始めなければならない。先進国の首脳会議などの会場を取り囲み、「貧困解消、貧富の格差の是正」を叫ぶ若者たちがいる。こうしたエネルギーを見ていると、一年でいいからアフリカに行って自分の暮らしを打ち立ててみたらいいと思う。一人のアフリカ人でもいい。じぶんが親しくなったたった一人でいい。貧しさから人を救い出す、人を向上させるとううことがどれほどのことで、どれほど自分自身を傷つけることなのか、きっとわかるはずだ。一人を終えたら二人、三人といけばいい。一般論を語るのはその後でいい。いや、経験してみれば、きっと、多くを語らなくなる。
南アフリカの白人
今でも南アフリカには差別の残滓が残っているし、貧富の格差は圧倒的で、治安は悪化の一途をたどっている。
筆者は、アフリカ生まれの白人は、欧州生まれの欧州人と明らかに違い、皆厳しい顔をしている、そしてそれは彼らが単に先住民を搾取し、自らの特権を謳歌していただけではなく、何代にもわたり、アフリカ人ばかりの土地に住み着いているなかでしみついた彼ら自身の孤独と戦っているからではないか、という。
もともと南アフリカには17世紀にオランダ系の移民が最初に移り住んできた。彼らは自らを欧州と切り離し「アフリカーナー」と自称していた。それをイギリスがボーア戦争(1899~1902)で奪い取り、植民地とし、アフリカーナーたちは英国系白人の下で差別されるようになった。
第二次大戦後植民地の独立の動きの中で、アフリカーナーにも民族独立の気運が高まり、1948年にアフリカーナーたちの白人国家が生まれた(ここがアパルトヘイトの発祥のように言われるが、もともと白人以外の人種を差別する法律は19世紀後半までさかのぼる)
南アフリカの白人は、自らも差別・搾取され、また差別・搾取してきた歴史、そして貧富の格差、治安の悪さ、という現状を受け入れながら生きている。
2003年にノーベル文学賞を受賞した南アフリカの作家J.W.クッツェーの「恥辱」を読んだときに、怒り、贖罪、諦観が入り混じった「ざらついた」感触が残った記憶がある。
本書でも著者の妻が自宅の入り口で強盗にあった話の中で、クッツェーの著書を引用している。
<なにかを所有するというリスク。車、靴、ひと箱のタバコ。なにもかも行きわたるほどは無い。車も、靴も、タバコも。人が多すぎ、物が少なすぎる。ここにあるものを使いまわしていくしかないのだ、誰もが一日でも幸福になれるチャンスを得るには。それが理屈だ。理屈を死守し、理屈の慰めにしがみつけ。これは人間の悪業というより、たんなる巨大な循環システムなのだ。その営みに、憐れみや恐怖は無縁だ。この国では、人生をそんなふうにとらえねばならない。おおむねのところ。そうでもしなければ、頭がおかしくなってしまう。車、靴、それに女もだ>
ルワンダ
ルワンダにおけるフツ族とツチ族の争いは、ツチ族の王政からベルギーの植民地時代までのツチ族によるフツ族の支配までさかのぼる。そして独立後のフツ族の政権下でのツチ族の追放・弾圧。そしてツチ族の国外からの侵攻に対抗したフツ族によるツチ族の大虐殺と、政権奪取後のツチ族によるフツ族の虐殺、と今に至るまで民族間の憎悪・対立が続いている。
傍からは外見も変わらないように見えるが、ツチ族はフツ族を「教養がなく、鼻がつぶれているなど人目でわかる」という。
筆者の問いかけに答えたフツ族の老人の言葉
「ツチとフツの違い?そりゃ、神様だけが知っている謎ですよ。」
「ツチとフツがなぜ戦うかって?そりゃ、あなた。あっちの畑を見てみなさい。例えば、いつも角を突き合わせている牛が二頭いるとするでしょ。その牛たちに、お前たち、何でケンカしてるんだ。そう聞くようなものですよ」
アフリカについては、たまに取り上げられる飢餓や地域紛争以外はほとんど何も知らない、というのが正直なところです。
なので、飢餓や貧困の問題にしろ、民族紛争にしろまずはステレオタイプの理解をする前に、現実を知ること、から始めることが重要だとは思います。
そう考えると、アフリカについては取り上げられる機会も情報も圧倒的に少ない、というところが一番の問題なわけです。
なので、まずは関心を持つことから始めなければいけない、というところに、アフリカの遠さを改めて感じてしまいます。
これは、ラテンアメリカ諸国やパキスタンやアフガニスタン、チベットや新彊ウイグル自治区などの中央アジアについても言えることかも知れません。
タイトルは児童向け啓蒙書風ですが、問いかけは重い本だと思います。
絵はがきにされた少年 集英社 |
恥辱 早川書房 |
地理的な感覚も僕なんかはメルカトル図法の地図で育ったせいか「ヨーロッパの南側」という意識が強いのですが、南アフリカへの航空便はシンガポール経由がいちばん近いらしいですし、オーストラリアの西岸のパース経由で緯度の高いところを通っていけばNZにも近いですね。
ホント、何にも知らないな、とつくづく思います。