一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『楽しく建てる―建築家・遠藤楽作品集』

2010-03-24 | 乱読日記

いつかは田舎住まいもいいなとここ1,2年は思っていて、現実逃避をしたくなるとネットで物件検索などをしています。

先日見つけたのが軽井沢にある「遠藤楽設計」を売りにした中古別荘。

調べてみると、遠藤楽というのは、フランク・ロイド・ライトの日本人最後の弟子で自由学園などの設計で知られる建築家です。(参照

ということで、中古別荘を手に入れてこつこと手直ししながら・・・などと資金繰りの前に妄想を膨らませつつ図書館で作品集を借りてきました。

肝心のその物件は、残念ながら巻末の作品リストに竣工年に該当するものがなかったので眉唾度が高くなってしまい、また、前後する竣工年には別荘物件もあるのですが、意匠的には若干似た感じではあるものの、特徴である暖炉が撤去されてしまっているなど、今一つ名感じではありました。


ただ、そのかわり、作品集は楽しめました。


遠藤楽は暖炉にはことのほかこだわりがあったようで、「暖炉だけは、ライトよりも俺の方が上手いよ」と言っていただけあり、個人住宅に取り入れることに積極的で経験を積んで工夫を重ねてきていたようです。

暖炉というのは据え付ければいいだけではなく、実はかなり難しいものなんだそうです。
煙突が長くて吸い込みが強すぎると、火が燃え盛る割には外部からの冷気が背中に当たって帰って寒かったり、逆に吸い込みが悪い暖炉は室内に煙が逃げて炎にならない、なので暖炉を作るときは部屋の大きさと空間の形にマッチしたものを作る必要があるそうです。
作品集の個人住宅には必ず暖炉があり1980年代以降は、グリルセットも一緒に作るなど人の集まる快適な場にする工夫を重ねてきたことが印象的です。

そのほか寝室などの階高を取らない居室を1階に置き、2階に屋根裏を廃して天井を広く取った居間を置くことで、全体の階高を減らしてコストを低減し、町並みに優しい建物にするとともに構造上も強固になるという「逆転型住宅」を発想するなど、住む人の立場にたった建築への指向がうかがえます。

本書にある、1980年に朝日新聞へのコラムから

住居とは、その中に住むためのものであり、見せるためのものではない。
(中略)
現代の建築を考える時、私たちはこの根本を反省する必要がある。着るための着物、住むための家であるはずなのに、"人に見せる"という目的?が優先してしまう、という過ちがあまりにも多い。現代のように商業主義優先の社会条件の中では、特にこの間違いを起こしやすい。
建築の場合、建物が巨大になればなるほど「外から内へ」という、全く逆な考えにおちいりやすい。外観から物を決定し、その中に本来目的となる居室を区切ってゆくという考え方の建物では、人間が建物に従属させられる、という結果を招くことになってしまう。
(中略)
したがって建築家が建物を設計するときには室内空間から考え起こしてゆくことが大切であり、頭の中に完成された建物を描き、その内部空間に自分自身が入り込み、その中でくつろいだり、歩いたり、楽しんだり、という空想ができるようになる必要がある。
(中略)
そこで、この「内から外へ」という、きわめて当たり前な考え方と、これを具現するイマジネーションの訓練があれば、難しい言葉を並べた建築論などは不要なものとなるだろうし、思いつきのとっぴな建物も生まれるはずがない。

ここ数年は建築家に頼む個人住宅がブームで若手の優秀な建築家も増えているようですが、一方で外観重視・こけおどし風な「デザイナーズ・マンション」を名乗る賃貸住宅や「デザイナーズ・ハウス」と称する建売住宅も増えています。

後者はそもそも事前に自分の希望を反映させる機会がないのですから、「デザイナー」がどういおうと「自分が住むこと」を前提にして選ぶことが大事ですね。


 



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