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排他主義、包括主義、多元主義 さて、正解は?

2010-02-07 | 左派(リベラル)
1 排他主義者
 排他主義者は、キリスト教と他の宗教との間に質的な相違・断絶を前提とする。その際、正義と悪、光と闇、生と死といった二元論的区分を強調する表現が好んで用いられる。伝統的な宣教論においては、しばしばキリスト教の絶対性が排他的に主張され、非キリスト教世界に対し、その絶対性への服従を要求することになった。排他主義的立場が単なる神学的見解を越えて、近代の植民地主義政策の思想的根拠の一つとして機能してきた一例を、カトリックの宣教学者G・ヴァルネック(Gustav Warneck)に見ることができる。彼の主著『福音的宣教論』(全五巻、一八九二~一九〇五年)は第二次世界大戦にいたるまで、ドイツ語圏を越えて、カトリック教会の宣教論全体に大きな影響を与えていた。広く共感を得た彼の宣教に対する定義は次の言葉に集約されている。「キリスト教宣教のもとで、我々は非キリスト者の中にキリストの教会を植え付け組織化することに対して向けられた、全キリスト教徒の全体的活動ということを理解する」6。ヴァルネックによれば、宣教は自分自身にしろ他の教派にしろ、キリスト者に向けられたものではなく、その目的は非キリスト者を改宗させ、洗礼を授けることにある。したがって、キリスト教は「人類の一般宗教となるように定められている」7。 彼は西欧化(Europ?isierung)とキリスト教化(Christianisierung)の同一視を拒絶するが、彼にとってキリスト教の普遍性は、絶えず問題の中心にある。人類のためのキリスト教であり、キリスト教のための人類なのである8。
 この排他主義的類型に属するのは、「教会の外に救いなし」(extra ecclesiam nulla salus)という考えを長い間保持してきたカトリック教会だけではない(ただし第二バチカン公会議[一九六二~一九六五年]以降、カトリック神学者の多くは排他主義的立場を離れていく)。

2 包括主義者
 先の排他主義的立場がキリスト教とほぼ同じ長さの歴史を有しているのに対し、自覚的な包括主義者が現れてきたのは比較的最近のことである11。第二バチカン公会議での宣言「我らの時代に」(Nostra Aetate)において、カトリックは他の宗教の真理性を否定しないことを確認し、宗教間対話は新たな時代を迎えた。それに連動するかのように、一九六〇年代以降、プロテスタントの側でも、世界教会協議会(World Council of Churches)を中心に宗教間対話をテーマとする様々なプログラムが展開されてきた12。

包括主義者の神学的特徴を次のように要約することができるであろう。
 (a)救済はキリスト教以外の宗教においても成し遂げられる。ただし、それはキリストにおける神の恵みが普遍的な効力を持っているからである。つまり、この考えの前提には、宗教によって呼び名は異なっても、一つの神的実在が存在するという神理解がある。
 (b)包括主義者にとっても、排他主義者と同様、救済はキリスト論的に根拠づけられている。ただし、それは排他主義のように認識論的な意味においてではなく、存在論的な意味においてである。つまり、排他主義では、キリストにおける神の恵みを認識することなしに救いへと至ることはできないが、包括主義では、キリスト論的な意味での恵みを認識しなくても、キリストの普遍的恵みが存在論的に救いを保証してくれる。このような救済論は伝統的な「自然啓示」の理解の上に立脚していると言える。自然啓示の考え方によれば、人間は自らの自然的な能力(理性など)によって神を知ることができるとされるからである。
 (c)包括主義者は、他の宗教の中に真理契機を認めるが、それは彼らが所有している本来の真理の一部あるいは不完全な形に過ぎないと考える。キリスト教は完全な真理を有しているが故に他宗教に対し優位に立っており、逆に、キリスト教以外の宗教はキリスト教的真理にどの程度一致しているかによって、その価値を計られることになる。このようにキリスト教と他宗教の間には原則的な区別が存在しているが、それは排他性へ向かうのではなく、包括的な上下関係へと置き換えられる。下部には基本的・一般的なものが位置し、それを統括、支配する形で上部には高次・特殊な存在としてのキリスト教が位置するのである。この上下関係は決して対立的なものではなく、弁証法的関係にある相補的な二つの極であると考えられる。その二局構造の具体的表現は聖書中および神学史の随所に見られるが、その例を次にあげる。非キリスト教世界:キリスト教=一時的:永遠、約束:成就、律法:福音、部分:全体、一般:特殊、自然:超自然。
 包括主義的立場を明瞭に語る考え方として、しばしば、カトリック神学者K・ラーナー(Karl Rahner)の「匿名(無名)のキリスト者」があげられてきた。キリスト教以外の宗教においても、キリスト教的観点から見て救いに値する生き方をしている人は、たとえ本人が意識していなくても、すでに事実上のキリスト者だ、というのである13。プロテスタントの側では、P・ティリッヒ(Paul Tillich)が包括主義的な立場を取りながら宗教間対話の可能性を先駆的に示した14。いずれにせよ、包括主義者の主たる関心は、キリスト教と他宗教とをどのように「統合」するのか、あるいは両者の関係をどのように「構造化」するのか、に寄せられてきたと言える。今日では、包括主義的理解がより洗練された形で展開されており、自由派プロテスタント教会のほとんどは包括主義的立場を取っている(ただし、必ずしも自覚されているわけではない)。

多元主義者の主張は次のような共通した論点を有していると言える。
(a)宗教的多元性は恒常的なものであり、それはいかなる単一の宗教にも取って代えられることはない。
(b)諸宗教の中には固有の真理契機がある(ただし、すべての宗教が救済的意義を持っているわけではない)。
(c)いかなる宗教も、最終的・絶対的・普遍的な真理を保持していると言うことはできない。
(d)キリスト教信仰にとってイエスは独特の意味を持っているが、その独自性は排他的な形で優越性・超越性と結びつけられるべきではない。

排他主義者や包括主義者にとっては、これまでキリスト論が、多元主義的動向を神学的にくい止める防波堤の役割を果たしてきたが、それが今や聖書学からの揺さぶりを大きく受けている。つまり、イエスの独自性のみならず、キリスト教の絶対性・優越性を裏付ける働きを担ってきた「受肉した神」「神の子」といったキリスト論的理解は、もはや存在論的な前提とされず、むしろその概念形成の歴史的経緯にメスが入れられているのである。そうした聖書学的成果の追い風を受ける形で、多元主義者は伝統的なキリスト論から比較的自由な問題設定の場を得ることができるようになっている。同時に、欧米の宗教多元主義者とは別に、欧米以外の国々ではすでにそれぞれの文化・伝統に根ざしたイエス理解が多様に展開されている26。

http://www.kohara.ac/research/2001/09/article200109b.html