鷹峯からバス通りを下って来て、千本通りとの交差点を左に曲がると今宮神社があるんです。
今宮神社と言えば!一和さん、かざりやさんであぶり餅ぃ~♪ですが、「阿保賢さん」と呼ばれる石も祀ってあります。
この石を三回叩いて持ち上げ、次に願い事をしながら三回撫て持ち上げて、後の方が軽く感じたら、その願い事が叶うという言い伝えがあるんですってぇ。
後の方が軽く感じ・・・たことにしました。
かざりやさんであぶり餅をいただいたら、今日最後の拝観先、大徳寺の塔頭(たっちゅう)へ。
まずは、龍源院(りょうげんいん)。大徳寺山門の前に建つ、1504年に創建された大徳寺の塔頭の中で最も古いお寺だそうです。
「一枝坦」、「龍吟庭」、「ご沱底」、「東滴壺」という小さな四つのお庭をじっくり見てまわりました。
この方丈前の一枝坦(いっしだん)は、白砂の海に苔の島と岩を配した枯山水です。
こ沱底には、右に口を開けたような「阿の石」、左に口をぐっとむすんだような「吽の石」があり、阿吽の石庭とも呼ばれます。
こっちが「阿の石」。口を開けているように見えますか?
次は瑞峯院(ずいほういん)。キリシタン大名の大友宗麟が創建した塔頭です。
方丈前にある独坐庭は、大海の荒波が絶え間なく打ち寄せてきても雄々と独坐する大自然を表している枯山水だそうです。
どんな苦境に陥っても、自分を見失うことなく平常心で、いつも笑顔でそこに存在できる、独坐庭のような人になれるでしょうか・・・。
方丈裏には「閑眠高臥して青山に対す」という禅語から銘じられた庭の「閑眠庭」があります。
この枯山水の砂利の庭には、斜めに縦4個、横3個合計7個の石が置かれていて、縁側の東の端からよーく眺めてみると大きな十字架が浮かび上がってきます。
昭和36年(1961)に庭園研究家
重森三玲氏によって造られたものです
大徳寺北派の本庵である大仙院(だいせんいん)は、永正6年(1509)古嶽宗亘(こがくそうこう)(大聖国師)が開祖で創建されたものです。
ここは、写真を撮ることが禁止されていたので、参道の写真です。
蓬莱山というお庭は、鶴島と亀島の間に蓬莱山があり、刈り込みや美しい砂で滝が流れ落ちる様子を表現していました。
そして、最後は、大徳寺塔頭のメインイベント!のはずだった、高桐院。
終了時間が16:00、大仙院の方にあと20分というところで早く行きなさいと言われ小走りで目指したのですが、なかなか遠く、かつ、途中、迷ったり。
写真で見たことのある参道までは辿り着いたものの、もう終わりです・・・と、障子をぴしゃり。身も蓋もない・・・。
こんなに利休が好きなのに、あこがれの人にはそうそう簡単には辿り着けないのかもしれません・・・しょんぼりぃ。
高桐院は慶長6年(1601)に、利休七哲の一人と言われた細川忠興が、父の藤考(幽斎)の菩提所として建立しました。
客殿北には庭を挟んで、千利休の屋敷の広間を移築したと伝えられる書院の「意北軒」が、また、細川三斎が建てた利休風の茶室「松向軒」があります。
この茶室、2畳台目の小さなもので、北野大茶会に用いたものを移したといわれ、名茶室として名高いものです。
客殿の西にある庭は細川家代々の墓所となっていて、そこに建っている石灯篭が三斎とガラシャ夫人(明智光秀の娘)の墓塔となっています。
これはもともと利休秘蔵の灯篭だったのですが、豊臣秀吉と三斎公のふたりから請われて、利休はわざと裏面三分の一を欠いて疵物と称して秀吉の請を退けました。
のちに利休割腹の際、あらためて三斎公に遺贈されたもので、墓塔銘を「無双」といい別名「欠灯篭」というそうです。
さらに蕨手・灯口・横が欠けているのは、後日完全を忌む公自身が欠いた、という記録が残っているそうです。
茶室と石灯籠、見たかったなぁ~~っ。次、いつ見ることができるかなぁ~♪